17話:度を越えた悪戯 1

 ロキと出会った翌日。僕はいつも通り、教室内に足を運んだ。

 引き戸を開けると、他の生徒達が揃いも揃って不穏そうな声を上げる。ざわめき立つ教室内に首を傾げながら踏み入れると『なんだ薄か』と、皆にガッカリされてしまった。ひどいなあ。

 昨日は無闇に人を疑ったりした熊のせいだけど、今日は何でまた。辺りを軽く見回すと、その理由はすぐにでも把握できた。


 毎日、休まず登校していた東雲さんの席が空いていたのだ。今まで彼女が休んだことは一度もない。風邪を引こうが熱を出そうがマスクをしてまで登校するほどの真面目っぷり。

 まあ、あの時は熊もさすがに『うつると大変だから、今日は休んでもいい』と諭して無理やりにでも帰らせたんだけど。

 そうまでして出席する彼女だ、今日になってどうして。代わりに一番前のいつもの席には黒木が座っている。

 休みが多いはずの黒木がいて、休まないはずの東雲さんがいない。その違和感が、胸の奥で静かに鳴った。

 嫌な予感が、じわりと広がる。


「おい、ホーム……なんだ、東雲は休みか。珍しいな」


 熊はいつもの如く大声で生徒達に授業の始まりを告げる。その発言を聞く限り、学校にも連絡がいってないらしい。

 あの真面目な彼女が無断で欠席する……ありえない。彼女に限ってそんなことって……。

 自分の席の前で、独りでに腕を組んで黙考する。何か悪いことが起こる前触れでなければいいけど。


「……ん。どうした黒木」


 僕の思考を打ち破るように熊の言葉が耳を突いた。

 熊の視線の先を追う。そこに、さらに驚く光景があった。

 いつもは何も語らない黒木が、この日ばかりは手を挙げて何かを言おうとしていたのだ。僕は一言一句逃すまいとしっかり聞き耳を立てた。


 黒木は迷うように視線をさまよわせながら、かすれた声で言った。


「……今朝、会いました。マスクして……休むからと」

「なんだ、風邪か。うむ、わかった。ありがとうな黒木。よーし席につけー」


 僕は思わず心の内で待て待て待てとツッコミを入れる。

 もう少し驚けよ。連絡がないこと、心配しろよ。

 彼女が無断欠席って、普通におかしいだろ。


 ……いや、普通の人にとっては黒木の発言は何もおかしいことじゃない。

 こんなに頭を悩ませているのは僕だけだ。

 『たかだか風邪の一つ』きっと僕以外の皆は、そう思っているに違いない。


 ……それにしても、三谷ではなくまさか黒木が証言するなんて。恐らくロキが関わっているに違いない。

 でも東雲さんをどうやって休ませたんだろうか。

 悪戯がてら、何かしらの方法で熱を出させた? そもそもこの件に対して、本当に黒木は関わっているのだろうか? 

 顎をさすりながら僕は僕なりに考えた。けれど一向に何も出てこない。


「おい、薄。何をしている、席に座れ」

「え、あっはい」


 熊に促され僕は窓際の席につく。

 それから何事もなくホームルームが始まる。熊の声は遠のき、窓の外だけが鮮明だった。

 もしかしたら、ふとした拍子に登校したりして。望み薄かもしれないけど、じっと目を凝らした。


 門から見えたのは大きなグラウンド。授業が開始したのでもちろん誰もいないが、しばらくすると遅刻した者がパラパラ登校するのが見えた。その中に東雲さんはいない。


 開けられた門の外は道路になっており、車が忙しそうに交差する。歩道には主婦達が楽しそうにお喋りをしながら買い物へと出掛けている様子が見えた。それでも彼女は姿を見せない。きっと……大丈夫だよね。そのうち登校するよね?


 その時、門を潜って何かがやってきた。白い四足歩行の動物。あれは……猫?

 長毛で汚れ一つない綺麗な猫。どうやらペルシャ猫のようだ。首輪はしていないが、どこかの飼い猫が逃げてきたのだろうか? ははは、ペルシャ猫なんて高級な猫。そうそう捨てる人はいないだろうし。




 ……なんでこんな場所に猫が。




「……っ!」

「あっおい、薄! どこに行く! もう直き授業が始まるぞ……!」


 ピンとひらめいた。

 熊の言葉を無視して、僕は慌てて廊下を走る。


「おっおい! まで――お前らぁ!」


 

 『違う』と思いたくて、『違う』と言い聞かせようとしてた――――けれど心だけが、確実に叫んでいた。


 ――『東雲さんだ』と。


 僕の行動を見守っていたエールは、並走しながら声を上げた。


「幸、ロキは自身が変身できるだけでなく他人を変身させる能力まであるのです。

 こんな場所に猫ちゃんなんて明らかに不自然なのです! 彼女に違いありません、行くのですよー!」

「うん……っ!」


 あれが東雲さんだとすれば、登校中に猫の姿に変えられて学校に助けを求めにきた、と推測してもおかしくはない。ロキのやつ……僕だけでなく東雲さんにまで迷惑を掛けるなんて。


 エールも終始、険しい表情を見せていた。さすがにこれはやりすぎだ、あんまりだ。彼女は関係ないだろう!

 陥れるなら僕だけでいいはずなのに――どうして彼女まで。


 待っていて下さい、東雲さん。

 僕が必ず助けますから!


 


 ――校庭。


「東雲さん、東雲さんですよね……ッ!?」


 僕は怯え震えるペルシャ猫を抱き上げた。なにか……これが東雲さんであると決定づける物はあるのか。それを探すも見つからない。


 全ては憶測でしかない。この子は本当に東雲さんかもしれないし、ただのペルシャ猫かもしれない。

 違って欲しいと願った。猫がこちらをうるうるとした瞳で見つめていた。それはまるで、助けを求めているようだった。


「東雲さん……」

「みゃーう」


 心配するその眼差しに目の前の猫は小さく鳴いた。東雲さん、ごめん。今はつらいかもしれないけどもう少し我慢して下さい。


「僕が必ず……護りますから」


 せめて僕が言葉を理解してあげたなら。動物に理解させることは可能でも、そんな便利な神様なんているはずもない。

 そっと白毛の猫を撫でてあげると、猫もまた尻尾をゆっくりと振り、安心したように胸へ身を預けた。


「――はっ、はっ」


 背後から息継ぎを繰り返す声がする。


「黒木……お前もきたのか」


 直接に姿を確認しなくとも、少し走っただけで苦しそうな呼吸を繰り返す……背後に誰がいるかなんて、目に入れるまでもなくわかった。

 僕はロキへの怒りをその腕に込め、振り返ることなく問う。黒木が今どのような表情を露にしているのかは知らない。

 黒木は悪くない。むしろ被害者。そう……被害者なんだ。

 でも――。


「東雲さんは関係ないだろう」

「……」

「僕だけを陥れるのならまだしも。どうして……どうして彼女がこんな目に遭わなきゃ」

「俺は」


 言葉の先を、喉の奥で飲み込んだようだった。

 僕は猫を抱きしめて、一切の視線を注がずに口を開く。


「エールが邪魔なんだろう。エールが怖いんだろう。エールが……」


 僕は黒木を責め続けてようやく気づいた。

 黒木のみならず、エールまで哀れむような視線を送っているのを。


「……ッ」

「幸、お気持ちはわかりますです。それは全部、ロキにぶつけるのです」

「うん、これじゃあただの八つ当たりだよな。ごめん」

「これでもまだ、ロキを救いたいと言うのですか? 幸にとって大事な人を、こんな姿にしてしまったロキを……許せるというのですか?」


 ――冷静になるのです。

 その一言が僕の心に釘を刺した。エールが遠回しに、見捨てろと言っている気がした。


「……薄、くん?」


 声の主にハッとする。

 ああ……僕の知っている天使のような声が、今まさに目の前で聞こえてきた。


 ――嘘だ。これが東雲さんだ。嘘だ、嘘……。

 じゃあ目の前にいるのは?

 自問自答を繰り返し、僕はうつむいていた顔を上に向けた。


「どうしたの、授業は……? あれっ、黒木くんまで」


 マスクをした、不調そうな東雲さんが……目の前に立っていた。

 顔がいつもよりも青白く、今に倒れそうな勢いだ。確かに黒木の言っていたことは間違いない。

 ……東雲さんは風邪を引いている。それに、風邪を引いてまで学校にやってきた。


 ――それでも、僕の胸の奥では、別の寒気が広がっていた


「けほっ、けほ。ん……どうしちゃったのかな、二人して」

「東雲、さん?」

「黒木くんに、今日は休むねって伝えたんだけどね。でも、やっぱり授業は受けなきゃ。だから、来ちゃった」


 彼女の言葉が耳に届かず、じっと目の前の猫を見据える。

 猫もコバルトブルーの瞳でこちらをじっと見つめていた。それじゃあ、この猫は……本当にただの迷い、猫?


「二人とも、教室にもどろ? こんなとこでサボってちゃ、良くないよ」

「……うん」


 彼女は随分と咳き込んでいて、足取りも重そうだった。

 どっちを……信じれば、いいんだ。僕は――。


 混乱する脳内。震えが止まらない体。うるさいくらいに激しく脈打つ心臓の音が、僕の頭をさらに掻き乱す。


「おかしいのです……? 猫ちゃんが七さんじゃないのですか? ロキ、正体を見せろ、なのです!」

「薄くん、黒木くん。早くっ」


 どうやらエールの声は届いていないらしい。それとも演技を貫くため、あえて無視をしているのか?


「薄くん、黒木くん? 本当に二人ともどうしちゃったの、不思議そうに私を見つめたりなんかして。

 まるで幽霊か何かでも見たような驚き方だよ?」

「あ……ははは。うん、今、行く」

「変な薄くん」


 わからない。僕にはもうわからないよ。

 言動も、行動も、全てが東雲さんだった。本物だと認めざるを得ないぐらいに精巧で、それは確かに生きていて……今こうして僕にいつもの声を聞かせてくれる。

 混乱が頭の芯を貫いた時、僕は思考を停止させた。

 口角を無理やりにでも上げると、東雲さんも小首を傾げて僕に手を差し出してきた。

 ああ……そうだな。今は彼女が東雲さんだ。そう思わないと、僕が混乱に押しつぶされてしまいそうだ。


「――はっ、は……くっ」

「黒木くん、どうしたの? もしかしてまた、具合が……」

「うっ、うぅ」


 突如、黒木が腹部を抑えて膝をついた。

 腹痛に体を屈ませたその瞬間、今までは見ようとしても見ることができなかった黒木の表情が露わになった。

 帽子のつばから見える黒木の表情は苦痛に顔を歪ませて、うっすら涙を浮かべていた。

 こんな時に、黒木が不調を訴えるだなんて。

 やらなければならないことが山積みで、僕は咄嗟に頭を掻く。とりあえず今はロキどうこうじゃない。目の前の問題をどうにかしなければ。


「黒木くん、大丈夫?」


 つらい自分より目の前の黒木を優先し、ふらつく体を踏ん張りながら背を摩ってあげる彼女。

 東雲さんもひどい風邪による影響で前が霞むのか、どことなく目が虚ろに見えた。


「大変、先生に言わなきゃ」

「……ッ」

「黒木くん、そこで待っていてね。今から先生を――ひゃんっ!」


 ――ドサッ。

 唐突だった。


 今まで苦しそうに訴えながらただ黙っていた黒木が、何事もなく動いたのだ。自分の体が弱いことを利用し、背を摩られるのを好機と見て彼女を押し倒すと両腕を拘束する。東雲さんの肩に掛けられた鞄がするりと地へ落ちていき、教科書で膨れた鞄からは重々しい音が響いた。

 地面に突っ伏した彼女の背をさらに押さえ込み、動きを封じた。

 端から見れば女生徒に暴力を振るう男の図。この光景が知れたら退学もいいところ……どころか、最悪、警察のお世話になり兼ねない非行だ。


 それでも黒木は、彼女の顔が砂に擦りつけられるのを厭わない。黒木がこうして動いたということは、紛れもなく猫が東雲さんで、目の前の人物は偽物……即ちロキ。


 地面に頬を押しやられ、彼女は痛みに顔を歪める。『痛いよ、痛いよ』と彼女の声質で抵抗を示す。

 これが本物ではないのは、黒木のお陰で理解できた。けれど偽物でも、こんなに悲しそうな彼女の顔は見たくない。

 僕は思わず天に向かって叫んだ。


「やめろ、やめろよ……ッ!」

「い、痛い。痛いよ、くろっ、いやああ」


 そのか細い声量で悲鳴を上げた。苦しそうにもがく彼女を見ていられない。


 やめろ、やめろやめろ。彼女の姿で……声で……。聞きたくない。


「ロキ」

「えっ?」

「もういい」

「ろ、き? だあれ、それ。わかんない、わかんないよ」

「あくまでもしらを……」


 彼女は否定した。彼女から発せられたとぼけた答えを聞くと、黒木はさらに力を込めて目の前の偽物に容赦なく襲いかかる。

 喉の奥で言葉がつっかえた、声にならない声を出している彼女。

 綺麗な頬を、石ころが細かく砕けている砂で傷つけられていく。



 ……刹那、彼女が目で笑った。

 その妖しい顔つきに、ぞくっと背筋が凍り付く。


 彼女は砂に頬を押しつけられたまま、ぴたりと動きを止めた。


 風の音すら、消えたようだった。


 途端、彼女は黒木の方まで上体を逸らした。人間とは思えないほど海老反りをしていた。

 そのまま東雲さんからは想像もできないほどの声色で妖艶にささやかれる。


「……ねえ、黒木くん」


 東雲?さんは何かを呟いていた。

 僕には聞こえないように、黒木に伝えた。すると、黒木は急に心臓を抑える。

何を告げたのかはわからない。拘束から解放された東雲さんはマスクをずらし、悪魔のような笑みを浮かべた。

 口角を上げ、彼女の綺麗な顔がますます歪んでいく。

 こちらを嘲笑しながら――東雲さんに変身したロキは、悪戯神としての本性を露にした。


「なーんてね! まったく、悪い子なんだから。てふふふふっ」


 あくまでも彼女の姿のままで、僕を煽るような口振りを見せる。

 ああ、その言葉は昨日出会った悪戯神……そのものだ。


「ロキ……ッ! 彼女は関係ないだろう!?」

「やだぁ、こわーい。てふっ、もー、ぜんっぶうまく行くと思ってたのに。憬ちゃんのせいで台無しだわあ」


 ロキにとっては単なる悪戯でも、こんなにも皆に迷惑を掛けていいわけがない。

 度を越した悪戯に歯を食い締めた。


「バレなかった暁には私、だいっきらいなちんちくりんの坊やくんがいる学校の皆をー、へーんしんっ!」


 僕の鼻っ面にほっそりとした人差し指で触れ、いつもの変な笑いを零す。


「ってしようと思ってたのにー。てふふ、あのまましらを切り続けても良かったのだけど、それじゃあ勇気を振り絞った憬ちゃんが可哀想じゃない?

 だから――チャンスを、あ・げ・る・わ。てふふふふ!」


 やがてロキは僕から距離を置くと、自信満々に答えた。僕など相手にもならないと言いたげに。


「てふっ、それじゃあゲームをしましょう!」


 ――これは遊びじゃない。悪戯の振りをした宣戦布告だ。


「今から日没まで。私をぎゅーって捕まえられたら、その猫ちゃんを元に戻してあーげる!」


 体を抱くような動作をしながら、どこまでもどこまでも煽り続ける目の前の神。

 今はとにかく東雲さんを抱えながら、ロキを鋭い目で睨めつけることしかできない。エールもまた僕の肩に腰を据え、ロキの言い分を静かに聞いていた。


「でも、もし捕まえることが出来なければ」


 近づいて握り拳を僕の前に差し出す。と、今度は手を開いて僕を脅すように仕向けてきた。


「学校の皆を可愛い動物さんに変身させて、ちんちくりんへの復讐としてキミに乗り換えちゃうかもー?

 てふふ、あんたに憬ちゃんの全ての重荷を乗せてね」


 嬉々とした表情は一瞬で身を刺す冷たい表情に変わる。

 東雲さんを元に戻すためとはいえ、本当に、与えられた勝負に勝てるのか……そんな絶望を抱かざるを得なかった。


「てふふふふ、じゃっ今日は早退させて頂きます!」


 ロキはこちらをさらに煽り、敬礼を一つ。最後の最後まで人を笑い続けた。


「じゃあね、薄くんっ! また生きていたら学校で会いましょう!

 行くわよっ憬ちゃん!」


 ロキは終始、東雲さんの言葉を真似て黒木を従え門の向こう側へと消えて行った。

 取り残された僕は、猫となった東雲さんを強く抱きしめる。このまま授業になんて出ていたら、ロキを逃してしまうに違いない。そんなこと、させるものか。

 悪戯にも程があることを……教えてあげなければならない。


「エール、東雲さんを助けるために力を貸して」

「わかってます、です! エールとして、ロキの過ぎた悪戯を止めなければなりません!」


 東雲さんをここに放置していく訳にもいかない。猫の姿に変えられた彼女を抱え、僕は学校を去った。

 どことも知れぬ場所へ消えたロキを追わなければ。でも、ノーヒントで……どうやって。


「きっと、ロキは様々な悪戯で妨害してくると思うのですー!」


 羽を広げて先行するエールの背を、必死に追いかけた。



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