第7話 ──銀髪の背中に届くまで
店を出た瞬間、ひやりとした風が襟元をすり抜けた。
昼だというのに、初春の空気はまだ冬の名残を抱いている。
遥は首をすくめ、小さく息を吐いた。温度だけが逃げていく。
杏が忘れ物を取りに戻り、ひとりになった帰り道。
道沿いの畑からは湿った土の匂いが風に乗って漂ってくる。
遠くでひばりが鳴いている。けれど街全体がどこか薄く静かだった。
(……ん?)
横断歩道の向こう。
人の流れの端に、“銀色”が立っていた。
陽の光を受けて細い糸の束が淡く揺れる。
風が動くたび、髪がささやくように鳴った。
(星環さん……)
背中だけでもわかる。
朝、教室、そして今。
何度見ても、その存在は輪郭がはっきりしすぎていて、他の景色から浮いて見える。
星環は信号を見上げているわけでも、スマホを触っているわけでもなく、
ただ立っていた。
周囲の空気だけ季節が違っているような、そんな静けさをまとって。
信号が青になり、星環が歩き始める。
遥は少し遅れて横断歩道を渡った。
冷たい風が頬を切る。
息を吸えば、胸の奥がきゅっと縮む。
横断歩道を渡り終えたところで、星環がふいに立ち止まった。
ゆっくりと振り返る。
ブラウンの瞳が、まっすぐに遥を捉えた。
「……何か用でしょうか」
抑揚の薄い、透き通った声。
遥は喉が張りつくように感じながら、口を開いた。
「えっと……その……
ちょっと、話したいことがあって」
「話したいこと?」
星環の声は冷たくはない。ただ、壁のように静かだった。
遥は少し息を吸い直す。
「……今朝のこと。
駅で……同じ電車に乗ってたよね?」
星環のまぶたが、かすかに揺れた。
ほんの一瞬、それだけ。
けれど確かに反応した。
「それで……教室で“寝坊した”って言ってたから……
嘘だとか、責めたいんじゃなくて……」
風がゆるく二人の間を抜けた。
草の匂いが混じり、ブレザーの裾が揺れる。
「……何か、あったのかなって。
ただ……気になって」
星環は遥をじっと見たまま、数秒を置いた。
風の音が妙に大きく聞こえる。
「……あなたには、関係のないことです」
「うん。そうだと思う」
遥はうなずく。「本当にそうなんだけど……でも」
言葉を探す。胸の奥が熱くなる。
「星環さん……今日、どこかしんどそうに見えたから」
星環の瞳がまたかすかに揺れた。
それは怒りでも拒絶でもなく、説明しづらい、ひび割れのような反応だった。
「……私は誰かに心配されるような人間ではありません」
淡々と告げる声。
けれど、その奥に何かを押し殺したような響きがあった。
「誰とも距離を詰めるつもりもありません」
そして──
「もう、二度と」
その言葉は、風よりも冷たかった。
遥は胸がざわつくのを抑えきれなかった。
「星環さん……」
「あなたが悪いわけではありません。
ただ、私は……そういうふうにできていません」
そう言い残し、星環は再び歩き出した。
銀髪が風にほどけ、淡い光を散らす。
背中が徐々に遠ざかる。その姿は、壊れ物のように静かで、触れられない。
遥は立ち尽くし、呼吸だけがやけに大きく耳に響いた。
(……どうしてそんな言い方をするんだよ)
理由はわからない。
でも──あの“二度と”という言い方は、どこか悲しかった。
遥の胸の奥で、小さな火種のような感情が生まれた。
放っておけない、そんな感情だった。
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