第9話 司会とゲストの温度差

氷室は、黙って座っているだけの自分の手に、じわりと汗が滲んでいることに気づいた。

(なんで、こんなに緊張してる?)

 本来なら、自分が仕切る番組だ。

 役者に話を振り、コメントをもらい、空気を動かす――

そういう流れの中心に、自分が立つはずだった。

 だが今は、流れがどこか遠くで勝手に進んでいるような気がしてならない。

 自分はただ、スタジオの“中”にいるだけ。

 空気をつかめないまま、波に流されている。

 (これまでだって、動物が出る番組はいくつも経験してきた)

 (大型犬だって、触れ合ったことはある。カメラ前で)

 だが、目の前にいる犬――グレートデン“雪”は違った。

 大人しくしている。暴れてもいない。

 なのに、空気そのものを変えてしまうような存在感がある。

 収録前にスタッフから言われた言葉が脳裏をよぎった。

 「ゲストの芸人が、犬に触りたいと言うかもしれません。注意してください」




 ちらりとゲスト席を見やる。

 芸人の川口、だが、その表情を見て氷室はすぐに確信した。

 絶対に触りたいなんて言い出す雰囲気ではない。

 川口は雪から目を逸らさずにいた。 

 問題は、隣の二人。

 犬の専門家である槇原と白鳥、彼らの表情は固い。

 プロとしての警戒が、言葉よりも強く表れている。

 (やっぱり、この犬は……普通じゃない)

 氷室の胸が、じわじわと締めつけられる。

 カメラの前で安全に進行するという前提が、どこかで崩れている。

 (俺は、本当にこの空間を回せてるのか?)

 そんな不安が、静かに、確実に喉元までせり上がっていた。

 「あの、質問があります」

 人の川口が、おそるおそる声を発した。

 「怒ることってあるんですか?」

 神崎が、まるで舞台の幕を開けるみたいに笑った。

 「あるよ。丸川は最初、ひどく怒られてた」

 川口の目が大きく見開かれた。驚きというより、不安が浮かんでる。

 丸川は顔をそむけ、心底イヤそうに息を吐いた。

 「そうだな。君、試してみるかい?」

 「えっ、試すって」

 神崎は笑った。

 「そこに座ったままでいい“可愛いな”って言ってみてくれ。お笑いなんだろ?」

 川口は、もう逃げ場がないと悟ったのか、腹をくくり、雪を見据える。

 「お、おまえっっ、可愛いな」

 わずかな沈黙は数秒だったはずなのに、やけに長く感じた。

 スタジオに鈍い音が響いたく。

 全員の視線が一斉に雪に釘付けになった。

 伏せたまま、右前足で床を叩いた。吠えも唸りもない。

 場が、凍った。

 氷室は進行表を持った手が震えているのを自覚した。

 場を仕切るはずの自分が、逆に空気に飲み込まれていた。

 槇原は、普段なら冷静な理屈屋なのに、言葉を失っている。 こんな反応、人間でさえ難しいと分かる。“感情”じゃない、“理解”のある動きだと背筋が冷えた。

 白鳥も固まったまま、目をそらせない。

 犬の行動学を知り尽くしているつもりだったのに、この瞬間だけは説明がつかない。

 「言い方、気に入らなかったみたいだな」

 丸川の声に川口は、放心した顔だ。

 「怒ったんですか?」

 川口が小さく訊く。

 神崎は肩をすくめて笑った。

 「まさか、飛びついたり、襲いかかるとか思っていたのかい、怪我どころじゃないよ」

神崎は笑った

 スタジオの空気が一段と重くなった。

 「覚えたんだよ、母親を見てね」

 白鳥と槇原の表情が一気に変わった。

 白鳥は、目を大きく見開いたまま息を呑んだ。

 脳裏で理屈が渦巻く。

 母親を見て覚えた、それは、訓練でも調教でもない。

 これまで積み上げてきた知識が、一言で突き崩される。

 隣の槇原も、全身が一瞬で固まった。

「神埼さん、母犬は……職業犬だったんでしょうか」

 槇原は無意識に声を出していた。

 静かな怒りを“前足で床を叩く”という手段で示すその姿に、普通の家庭犬の枠を超えた何かを感じた。

 吠えず、噛まず、威嚇もせず、頭をよぎったのは、使役犬――職業犬の存在だ。麻薬探知、セラピー、災害救助。

 吠えたり飛びついたりしない。

 前足でひっかくような動作をしたり、普通ではない方法で人間らに伝えるのだ。  

 神埼は一瞬だけ眉を動かし、薄く息をついた。

  「じゃあ、今夜、公式サイトを見てくれないか」

 その言葉には明確な線引きがあった。

 それ以上は言わない、いや、“言えない”のだと槇原は悟った。

 

 氷室は焦燥を押し隠しきれなかった。

 理解できない空気、答えの見えない会話。

 だが、進行役として黙ることは許されない。危険を感じながらも、彼はあえて核心に触れる質問を投げた。


「大きな体格ですね。母犬もですが、父犬も大きかったのでしょうか」

 氷室の声は、いつもよりわずかに高かった。

 気づかれないよう努めていたが、声の揺れは確かにあった。

 神崎の表情が曇った。

 一瞬、目を細め、沈思するように視線を伏せる。

 言葉が返ってくる気配はない。

 続いて、丸川がゆっくりとサングラスの縁に手をかけた。

 その仕草に、冗談めいた軽さは微塵もなかった。

 沈黙が落ちた、そのとき。

 犬が、ゆっくりと首を上げた。

 無言のまま、神崎を見た。

 次に、丸川を見た。

 まるで――この場の言葉を全て聞いていたかのように。

 まるで――今、誰が何を問うたのかを、正確に理解しているかのように。

 槇原が息を呑んだ。

 白鳥も、川口も、気づいた。


 スタジオの沈黙を破ったのは、鋭く響く重い音だった。

 雪が、前足で床を叩いたのだ。

 その一撃は、重々しく、空気を一変させた。

 一瞬、全員が動きを止めた。

 張り詰めた空気の中、川口が呟く。

 「……おっ、俺のときより大きな音って……」

 その声は、冗談にもならないほど小さく、震えていた。

 彼の驚きと戸惑いが、そのまま場に広がる。

 誰も続けて言葉を発しなかった。


「Merci, c'était utile, madame.」

 (ありがとう、助かったよ、お嬢さん)

 神崎が低く呟いた。

 彼はゆっくりと目を細め、犬を見つめた。

 丸川が小さく肩をすくめ、やれやれといった仕草を見せる。

しかし次の瞬間、その態度は一変した。

 氷室に向き直り、眼光を鋭くする。

 その視線には、笑いも緩みもなかった。

 「ノーコメントだ。母親だけでなく父親までか。突っ込んで、何を聞き出すつもりだ、氷室さん」

 高圧的な響きはなかった。

 抑制された声音と、背後に潜む圧力が、空気を一気に張り詰めさせた。

 スタジオの空気が凍りつく。

 丸川の声は、まるで本物のヤクザのような凄みがあった。

 氷室は息を詰め、口を閉じた。

 そのとき見られていることに気づいた。

犬が、自分をじっと見ていることに。


 氷室の耳元に、小さな電子音と共にディレクターの声が響いた。

 「そろそろです」

 収録の終了を告げる言葉に、氷室は一瞬、時間の流れを思い出す。

 ――もう終わるのか? 緊張に満ちた時間が。

 そのときだった。

 ふと視線を向けた先で、神崎が自分を見ていた。

 穏やかな微笑み――だが、それは慰めではない。

 むしろ、「タイムリミットじゃないか」とでも言いたげな、静かな皮肉だった。

 氷室の胸に、何かが突き上げた。

 このまま終わっていいのか。何も掴めないまま――。

 そう思った、その瞬間。

 ――カァンッ!

 金属が床を叩くような鋭い音が、スタジオに鳴り響いた。

全員が振り返る。

 音のした方向――スタジオの出入口に、一人の人物が立っていた。

 長身。痩躯。

 白髪をきっちり撫でつけた老紳士。

 手にした黒檀の杖の先が、床を鳴らしていた。

 空気が凍る。

 男の視線は鋭く、すでにスタジオ全体を把握しているかのようだった。

 彼のまとう空気が、ただ者ではないことを告げていた。

 そして、その口が開かれた。

 「Je suis sûre de vous avoir prévenu, mais votre esprit est-il rempli d'une curiosité absurde ?」

 (確かに警告したはずだが……君の心は、そんなにも愚かな好奇心で満ちているのかね?)

 流暢なフランス語。

  しかし言葉の意味がわからずとも、その声の抑揚と響きだけで、誰もが“怒り”と“警告”の気配を感じ取った。

 「Parfait, ma fille.」

 お嬢さん、完璧だよ。

 その言葉は、先ほどまでの張り詰めた威圧とはまるで別物だった。

 長身の紳士の声には、深い慈しみと静かな誇りがにじんでいた。

 すると雪がゆっくりと頭を上げた。

 その動きには、従順さでも服従でもない。

 どこか、誇らしげな様子にさえ見えた。

 氷室は言葉が出ない。。

 言葉を理解している、それどころかその意味すら汲み取っている。

 ゲスト席の三人、槇原、白鳥、川口もだ。


丸川が静かに手を差し出す。その指先は、ためらいなく紳士を指し示していた。

 ゆっくりと立ち上がる。大きな体が音もなく動き出し、一直線に紳士のもとへと歩み寄る。

 神崎が、丸川も後ろに続いた。

 三人と一頭が、ためらいなく並んで進むその姿は、まるで映画のワンシーンのようだった。



インタビューは終わった。

 だが、槇原の思考はまだ静まっていなかった。

 どうやって帰るのか。送迎はおそらく手配されているだろう。

 それは問題ではない。

 本当に気になっているのは、別のことだった。

 「川口さん」

 不意に呼びかけると、芸人の肩がぴくりと動いた。

 心ここにあらずのようだった。無理もない。 あれだけの緊張に晒された後だ。

 「このスタジオ、出入り口、非常口はありますか?」

 唐突な問いに、川口は目を瞬かせた。

 「ありますけど……どうしたんです?」

 口調はいつもの調子だったが、戸惑いが滲んでいた。

 槇原は視線をわずかに下げ、静かに言葉を続けた。

 「あの犬、雪は、今日が初めてのメディア出演です。公式にも詳しい情報は出ていない。インタビューも、雑誌やテレビを含めて一切ない。今日ここで、初めて“顔”を出したんです。」

 川口の表情が変わった。

 それが、言いかけた言葉が、喉の奥で止まる。

 「記者が、出入口に張ってる可能性がある」

 「え……」

 「犬にマイクは向けられません。でも、あの役者たちには聞けるんです」

 そこまで言って、槇原は口を閉じた。

 川口はしばらく何も言えなかった。


槇原は、スタジオを去っていった三人――神崎、丸川、そして雪の姿を思い出していた。

 収録が終わった安堵の表情は、彼らの顔にはなかった。

 笑顔も、気の抜けた緩みもない。むしろ、あまりに静かすぎた。

 まるで――すでに先を読んでいたかのように。

 外に記者がいると。

 槇原の胸に、じわりと嫌な汗が滲んだ。

 そう思った瞬間、彼は口を開いた。

 「川口さん、白鳥さん……たぶん、記者は、あなたたちに話を聞きに来るかもしれません」

 白鳥が、はっとしたように顔を上げた。

 一拍置いて、表情が曇る。

 「まさか……でも、私たち、何も知りませんよ」

 それは正しい。

 けれど、それだけでは済まない予感があった。

 「お、俺も……怒られたこと以外、なにも……」

 川口も続けるが、その声には自信がなかった。

 あの“怒り”が、ただの犬の反応ではなかったことを、誰よりも身をもって知っているのは彼だ。

 槇原は静かに首を振る。

 「……多分、いえ、ここからなんです。ここからが“始まり”です」

 その言葉に、白鳥も川口も黙り込んだ。

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