第3話 子役と演技できない理由
ハルキのそばにいた母親らしき女性が、期待に満ちた声で言った。
「ねえっ、あなた、ドラマに出られるのよ。凄いと思わない?」
自分の子役は特別、有名なのよと空気が感じられた。
だが、ミサキの表情は変わらなかった。
ドラマに出ることが凄いのか?
それは大事なことなのか?”
ハルキは戸惑った。
これまで、自分が出るドラマは高視聴率で、外を歩けば必ず誰かに声をかけられる。
有名になること、注目されることが“正しい”と信じていた。
だが、この場では、そんなことは何の意味もないのだと、初めて突きつけられた気がした。
そのとき、ミサキが雪に向かって、
低く柔らかい声でこう言った。
「C'est bon, laisse-le comme ça.」
聞き慣れない言葉。
白河は言葉を失い、水川も一瞬、戸惑った。
(今の、英語じゃない)
犬に語りかけていた。
「すみません。日本語わからないんです、子供と演技なんて無理です」
白河は困惑した、味が理解できなかったのだ。
二郎は子役に気付いた、最近、人気の出ているドラマだと、だが、嫌悪感しかない。
ミサキは断っているのだ。
そして突然、声をかけてきた女性も子供と演技させるなんて無理だと真剣な顔で言った。
犬のことをわかっているのだと思った。
「ごらんになったほうがいいですね」
ミサキはテーブルの下にそっと手を伸ばした。
すると、巨体が動いた。
立ち上る犬の黒いフードを取る。
白地に黒い斑の模様、だが、その巨体に白河も水川も言葉を飲み込んだ。
「子供相手は無理でしょう」
ミサキの言葉に白河は息を呑んだ。
丸川は白河を見ると小声で諦めてくれと囁いた。
ハルキと母親の顔色も変わった。
子役と犬を絡ませた演技、とんでもない。
子役の存在さえ打ち消すほどの存在感だ。
「無理だよ」
白河だけでない、少年と母親にも丸川は視線を向けた。
冷めた視線を。
白河の脳裏にこびりついていたのは、
あの犬の――圧倒的な静けさと、あまりにも鮮烈な姿だった。
白地に、墨をこぼしたような黒斑。
立ち姿は堂々として、まるで“彫刻”だった。
グレートデン、ハルクイン――。
白河は迷わなかった。
自分の目で、もう一度確かめたい。
いや、同じ犬を探したいという欲が湧いていた。
だから動物タレントの養成所に、直接足を運んだ。
「グレートデンを撮影に使いたいんです」
白河の言葉、ずくに返事はなかった。
少し離れた場所にいた年配のスタッフが振り返り近づいてきた。
白河は続けた。
「できるなら――ハルクインがいい。白地に黒斑の個体がいいんだが、いますか」
年配スタッフの表情がわずかに曇った。
「もしかして、実物を見たんですか?」
問いかけのトーンが変わる。
あからさまに慎重な声音だった。
「はい。都内のカフェで。テラス席に座ってて、大人しくて、吠えもしなかった」
白河はまっすぐ答えた。
だがその瞬間、スタッフの空気が一変した。
「本当にハルクインですか?大型の雑種とか、シェパード系じゃなく?」
白河は少し戸惑った。
「一緒にいた女性が、はっきり“ハルクイン”だって言ってたんです」
年配スタッフは、深く息を吐いた。
「あの犬は簡単に扱えません。プロでも、躊躇することがある。そもそも希少種です」
「珍しい……ってことですか?」
白河の眉が動く。
「それもありますが、性格的なクセが強すぎる個体が多
繁殖も難しいし、性格的にタレントとして使える犬は、ほとんどいないんです」
白河の背中に、冷たい汗が流れた。
「断耳されてましたか?」
唐突な質問だった。
「……どういう意味です?」
「耳です。立ってましたか? それと尻尾。切られて短くなってませんでしたか?」
白河の目の奥で、あの日の記憶が鮮明に蘇る。
黒いフードの下から現れた、大きな垂れ耳と、後ろに流れるような長い尻尾。
「いや……長かったです。耳も、尻尾も」
耳や尻尾を切る――そんなことをするのか?
犬の形を整えるために、身体の一部を切るなんて。
だが、業界の人間がそれを当たり前のように語ることに、背筋が冷えた。
「耳や尻尾を切るのは、ショーに出すためだけじゃないんです」
年長スタッフのその言葉に、白河は目を瞬かせた。
「え……どういう意味ですか?」
「病気や怪我の予防でもあるんですよ」
予防?
耳を――切る?
尻尾を――落とす?
頭が混乱した。
「遊んでる最中に耳が裂けたり、仲間同士のじゃれ合いでちぎれたりするんです。毛細血管が密集していて、出血もひどい。それを放っておくと、感染症のリスクが高いんですよ」
白河は、言葉を飲み込んだ。
自然体で立派だった――そう感じたあの犬が、
飼育者の選択によって、本来なら切り取られるはずだったパーツを残されていた。
それはただ「自然を大切にしている」というロマンではなかった。
あえて、リスクを抱えたまま育てられているという現実。
「実物を見られたとおっしゃいましたが、成犬ですよね?」
「……ええ、落ち着いていて、吠えたりもしなかった」
年配スタッフの目が細くなった。
「普通の環境じゃ飼えない犬です」
白河の中で、何かが冷たく崩れ落ちる音がした。
「普通じゃないとは?」
「まず、犬にストレス、刺激を与えないように育てられてます。完璧な管理環境です」
白河は、そのときのミサキの無表情を思い出していた。
穏やかで静か、そしてあの犬も同じだった。
「佐川さん、頼んでみましょう」
その瞬間、水川の声には、いつもの迷いや慎重さはなかった。
佐川は一瞬言葉を失った。
本気だと感じた。
「……引き受けてくれるでしょうか?」
佐川は小声でつぶやいた。
断られる可能性は高い。
あの時の女性――ミサキは、静かに、しかし明確に線を引いていた。
それでも、水川は歩み寄った。
少し頭を下げ、ミサキに話しかけた。
「突然すみません。この犬のことで、お話がありまして……」
ミサキは一瞬、表情を緩めた。
だが、すぐに真顔に戻った。
「ドラマに、出ていただけないかと……」
水川の声は緊張に少し震えていた。
だが、心は真剣だった。
ミサキは驚いたように目を見開いたが、すぐにそれを隠すように微笑んだ。
「ドラマを?」
「はい。実は私の原作小説を映像化したもので……」
「それに登場する犬が、この子に……どうしても重なって見えるんです」
「雪を映画にねえっ、女優になるの?」
ショーコの明るい声に、ミサキが微笑む。
まるで冗談みたいな口調だった。
だが、水川の脳裏に、その一言が鋭く突き刺さった。
――女優?
その言葉に、彼女の意識がピタリと止まった。
水川の口から、かすれた声が漏れた。
まるで自分の耳が聞き間違えたかのように。
「撮影現場にはミサキを同席させたいんです、あたしは 忙しいので一緒にはいられないから」
水川は驚いた。
「ドッグトレーナー、専門家を」
ショーコの顔が一瞬、困った表情になった。
「専門家ですか」
悩んでいるのか。
佐川が何か言いかけたとき、水川が遮った。
「ミサキさんに撮影現場には来てもらいます、いつも一緒にということですね」
ショーコは笑った。
二人きりになったとき、水川は言った。
「佐川さん、従わないのかもしれません」
「しつけが行き届いているわけじゃない、違うんですか」
水川は首を振った。
「カフェにいたとのこと、思い出してください、周りには他の犬だっていましたよね」
佐川は思い出した。
ずっとテーブルの下で伏せのままだったことを佐川は思い出した。
確かに静かで大人しかった、躾されているという考えは単純すぎるのかと思った。
それにと水川は言葉を続けた。
「雄より大きいんです」
あり得るのか、佐川は言葉を飲み込んだ。
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