第2章 写真の裏側
朝はもう、時間の輪郭を持たなくなっていた。 サキの一日は、ライの体温の変化で始まり、終わる。
ライはもう、自分で立てなくなっていた。 毛の間から覗く皮膚は、乾いた紙のように薄い。 サキは濡らしたタオルでその体を拭き、指先で皮膚の温度を確かめる。 温もりが残る部分と、すでに冷え始めた部分の境目を、彼女は息を止めて撫でた。
食器の中の餌は、ほとんど減らない。 サキは匙で柔らかくして、指でライの口元に押し当てる。 指先に残るぬめりを拭おうとすると、罪悪のような気配が腕を止めた。 ──汚れたくない、と思った瞬間、自分がどれほど醜い人間かを理解する。
「ねえ、ライ。君は、私がきれいでいたいと思うことを、どう思う?」
返事はない。その沈黙が、答えよりも正確に胸を突く。 サキは、誰かに“優しい人”と呼ばれたかっただけだ。 それを今さら認めても、もう取り返しはつかない。
机の上に置かれた一枚の写真が、ふと視界に入る。 あのモノクロの笑顔。サキは立ち上がり、写真を手に取った。
──この笑顔は、本物だったのだろうか。
笑っている唇の端が、不自然に上がっている。 笑顔をつくるという行為は、感情ではなく記録のための身振りだった。 愛される自分を、保存するための記号。
「そっか。君は、そうやって嘘をついていたんだね」 サキは写真に向かって言う。「私も、同じだよ」
ライの体を支えるために腕を差し入れる。 最後に温かい毛並みを撫でたのは、元恋人が旅立つ前の夜だった。 体重はほとんどなくなっていた。 それでも彼の体には、確かな重さがあった。 それは、サキの自由を奪う重さだった。
文字起こしの仕事の納期は過ぎたまま。 パソコンの画面は閉じられ、洗面器とタオルがその位置を占めている。 サキは気づいていた。この生活は、彼女から「自由」を奪っていく。 でも、その束縛の中でしか、自分が生きている実感を得られない。
「愛は、自由を奪う手の温度」彼女は呟いた。
ふと、ライがわずかに目を開けた。乾いた瞳孔の奥に、何かが揺れた気がした。 サキは小さく笑った。「そっか。君は、まだ行かないんだね」
愛するとは、終わりを見つめ続けること。 その言葉が、どこからともなく浮かんだ。 やがて、呼吸の音がひとつ、間を置いた。
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