第9話:琵琶湖の友

 琵琶湖を前にうっすらと白い霧がかかる。


 冷たく吹く風の中で、湖面が穏やかに揺れていた。


 波形村は小さいながらも明るい活気に満ちた村だった。


 その活気が今や皆無であり、風の吹く音だけが空しく奏でられる。


 無人――人影一つない光景に京志郎は眉をしかめた。


「大五郎からの情報では聞いていたが……これはどういうことだ?」


 現場へと赴くのに二日ほどかかった。


 たったの二日ですでに、事前の情報との間に大きな差が生じている。


 七十人ほどいたはずの村人が、全員忽然と姿を消した。


 あまりにも早く、だからこそありえない。


 村全体の時が止まったかのように、静寂だけが空しく流れる。


 およそ人間業ではない、と京志郎は瞬時にそう察した。


 争った形跡はなし。放置された家も当時のままの姿をきれいに保っている。


「やはり、これも獄卒の仕業とみて間違いないだろう……」


 舌打ちとともに、忌々しさが滲む。


「――、京志郎」


 不意に愛華が口火を切った。


「どうした?」


「余はこんな寂れた場所にいたくないぞ。もっと賑やかな場所にいきたい!」


「お前現世になにしにきているのか忘れたとは言わせないぞ?」


 口火を切った際の不機嫌顔から、あらかたこうなることは予測していた。


 文句をだらだらと垂れる愛華に、京志郎は深い溜息を吐く。


「お前の怠慢がこの事態を招いたんだろうが。だったら少しでも事態を解決するために働け」


「でも楽しくないと何事もやる気が続かないだろう!」


「それも状況次第だろう!」


 ――琵琶湖のほとりに、女が一人佇んでいる。


 広大な湖の前で一人拝む姿に京志郎は声をかけた。


「もし」


 女がゆっくりと振り返る。


 生気のない瞳、頬はひどく痩せこけ肌の色も極めて悪い。


 身なりも小汚く、せっかくのきれいな髪もぼさぼさに乱れている。


「失礼ですが、そこでなにを?」


「……夫の帰りを、願っておりました」


 か細い声。幽鬼のごとき陰湿さが言霊にまとわりつく。


「夫が……漁に出たきり帰ってこないのです……」


「それは、御気の毒に。……いったいここでなにがあったのですか?」


「……私たちの家の向かいに住んでいた由吉さんが行方不明となってから、漁に出た男たちが帰ってこなくなりました。ここに残っているのはもう私のみにございます」


「他の者たちは出ていってしまわれたのですか」


「なんでも、琵琶湖に幽霊船を見たとか……漁師たちはその幽霊船に連れていかれてしまったと……」


「幽霊船……」と、京志郎はその顔を険しくさせた。


 女とのやり取りの後、京志郎は再び村の入り口の前に立った。


 そよそよと吹く風に草木が物寂しく揺れる。


 ぼんやりとした顔で空を見やる愛華は、相変わらず退屈だと表情でしきりに訴えている。


 こぼれる溜息も、ここにくるまででとうに二桁を超えた。


「幽霊船、か。昔の俺だったら信じられなかったが……」


 にわかに信じ難い話だが、京志郎の顔には真剣みが帯びている。


 幽霊船は、実在する。そこに獄卒が関与しているともすぐに察した。


「それで? これからどうするのだ?」


「当然調査するに決まっているだろう。ヤタガラスの情報でも幽霊船についてはなかったからな」


「じゃあいますぐ向かうのか?」


「いや、向かうとすれば夜だろう」


「夜?」と、愛華がきょとんと不思議そうな顔をした。


「真昼間に幽霊が出た、なんて話は怪談でも聞いたことがないだろう?」


 京志郎は小さく不敵に笑った。


 途端に、愛華の顔から血の気がさっと引いていく。


 青白い顔で、どうにか言葉を紡ごうとした愛華。


「よ、夜まで……? ということは、もしかして――」


「夜までここで待機する」


「やだぁぁぁぁぁ!」


 間髪入れず猛反発する愛華。


 じたばたと手足を動かす愛華に、京志郎はただ深い溜息を吐くばかり。


(どうやったらこんな風に育つのやら……)


 この場にいない閻魔大王へ、京志郎は胸の内で静かに問いかけた。


「こんななにもない寂しい場所で夜まで待つなんて余は絶対に嫌だぞ!」


「じゃあもう一人で好きなようにすれいいだろうに」


「一人だとつまらないんだもん!」


「子どもか」と、つい京志郎はぽっと口走ってしまった。


 次こそは町でのんびりと遊ぶことを約束して、どうにか愛華の機嫌は直った。


 もっとも、落ち着いたもののやはりその表情は不満でいっぱいである。


 廃村でひたすら時の流れを待つ。


 子どもなら退屈極まりないのは、言うまでもない。


「釣りでもするか?」


 幸い、道具ならばいくらでも周りにある。


「釣れるまでが暇だからやらない」


「万策尽きたな」


 結局、夜が訪れるまで寝て待つことにした。


 愚痴を吐き零した愛華もふて寝を決め、いつしかぐっすりと眠っている。


 ようやく静かになったと、京志郎も吐息をそっともらし瞼をゆっくりと閉じた。


 ――冷たい夜風に頬を撫でられる。


 外は暗く、白月がぽっかりと浮かんでいた。


 ゆったりと波打つ琵琶湖に月明かりが反射し、周囲をほのかに優しく照らす。


 その光景は一介の芸術のように美しい。


 夫の帰りを待つ女の姿はもうどこにもなかった。


 代わりに、二足の藁だけが畔にぽつんの物寂しく放置されていた。


 京志郎は瞬時に察し、そしてそっと手を合わせる。


 すぐ後ろで、閻魔大王の娘はぼやけた顔でのそりとやってきた。


 大きな欠伸をし、わずかに乱れた髪を手櫛で雑に解く。


「う~ん……余はまだ寝ていたいぞ」


「どれだけ眠れば気が済むんだ……さっさといくぞ」


 放置された漁船の一つを拝借し、京志郎は力強く櫂を漕ぐ。


 琵琶湖の中心に達しようとした、その時。


「霧が出てきたな……」


 突然、船の周囲に濃い霧が生じた。


 一寸先すらも見通せないほど濃厚な霧を、京志郎は仇と対峙したかのように周囲に

目配りする。


 不意に、前方で大きな黒い影がゆらりとうごめいた。


「なっ……」


 京志郎は目をかっと開いた。


 霧の中に巨大な船影がゆらりとうごめく。


 それは間もなく、目前に姿を現した。


「こいつが……例の幽霊船か!?」


 京志郎は必死に櫂を漕いだ。


 しかし、力いっぱいに漕いでも幽霊船はどんどんと迫る。


 激しくなった波に、船体が大きく左右に揺れる。


 衝突はもう、避けられない。京志郎は船体を強く掴んだ。


「……なんだ?」


 ――衝突したにも関わらず、衝撃がやってこない。


 すぐ眼前では幽霊船が静かにすり抜ける。


「おーい、そこの人間」


 不意に、玲瓏な声がしかと耳に届いた。


「おぉ、この声ははっちゃんか。久しぶりに逢うなぁ」


 ずっと黙していた愛華が呑気に口にした。


「知っている声なのか?」と、京志郎は思わず尋ねた。


「はっちゃんは余の友人だぞ。いや、親友だな」


「親友……? その親友はいったい何者なんだ?」


「竜神だが?」と、あっけらかんと返す愛華。


 京志郎は唖然とする他なかった。

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