第2話 離婚の決意と準備
公爵家の手入れされた美しい花々が咲き誇るガゼボ。
プラチナブロンドの髪色にエメラルドのように輝く濃い緑色の瞳の美しい女神のような容姿の親友が、この場に全くに似つかわしくない分厚い書類を私に差し出している。
「ネリネ、これが頼まれていた調査書よ」
「ありがとうミモザ。ごめんね。こんなこと頼んでしまって」
「なによ!ネリネ。ネリネに頼まれたら私(わたくし)どんなことでもしましてよ。あなたは私(わたくし)の親友であり恩人なのよ。それなのに、この男酷すぎるわ!」
ミモザの様子から、渡されたばかりの調査書の内容が最悪のものであることが窺えた。
私とミモザは母親同士が幼馴染であったため5歳ころに出会った。私たちは同い年で気もあって友達になるのはすぐだった。私たちが出会って2年が過ぎようとした時、ミモザの髪が抜け落ちてしまうという原因不明の奇病にかかってしまった。女の子の髪が抜け落ちるなんて・・・。ミモザは生まれた時から公爵家の婚約者いたが、この奇病が告げられれば・・・婚約解消になることはほぼ確実だった。結果、ミモザの両親はあらゆる伝手を使って、ミモザの病を治療することに成功した。ただ、抜けてしまった髪の毛が生えてくるまでの間をどのようにするかが問題となった。こればかりはどうすることも出来ないと誰もが諦めていた。ミモザ本人の落ち込みはひどく・・・・人に会うのを避け・・・食事もほとんど取らず・・・・どんどん衰弱していくのが目に見えてわかるほど酷い状態だった。そんなミモザをみながらも彼女の両親もどうすることも出来ず諦めてかけていた時、ネリネが突然ある提案をした。
「私のこの髪を切ってそれをミモザに近い色に染めたらいいのではないかしら。それをミモザの本当の髪が伸びるまで被ったらいいのでは?!」
「そんなことをすれば、ネリネの髪は短くなってしまうのよ」
ネリネの両親もミモザの両親もネリネの提案を却下したが・・・・ネリネの決心は硬く、ネリネの髪で作られた髪をミモザが被ることになった。
このことがあってから、ミモザとネリネの距離はさらに縮まり二人はかけがえのない親友となり、二人がそれぞれ結婚してからも続いている。
私としては、短い髪に対して偏見もなければ長い髪に未練もない、髪でウイッグを作れば万事解決!くらいの軽い気持ちだった。だって、ミモザの病気は治癒することが出来たのだから。それなのにミモザは悲しみ、苦しんでいる。私はそんなミモザの姿をこれ以上みたくなかった・・・はやくミモザの笑顔が見たかった・・・・一緒に遊びたかった・・ただそれだけ・・・・。
でも、もしかしたら、このころから過去の記憶の片鱗があったのかもしれな
い・・・・。
ミモザから渡された調査書・・・数日前にミモザに頼んだ『夫の素行調査書』を前に現実逃避するかのように・・・私はミモザと親友になった日を思い出していた。
貴族にとって結婚は、政治的・経済的な利益を得ることを重要視するものであり、当事者の意思は反映されない。高位貴族であればなおさらだ。夫が浮気していることは分かっていたが、離婚したいと決意した今、揉めることを考慮して『夫の浮気の証拠』を握っておく必要があった。たとえ、その証拠がどれだけ不快な結果であったとしても・・・。
「はあ〜〜っ」ため息もつきたくもなる。
不快な結果であることは分かり切っていたことだったが、調査報告書はさんざんなものだった。調査書には、ほぼ毎週のように他の女と体を重ねていた事実が書かれていた。
「分かってはいたはずだけれど、これはさすがにきついわね」自分でも気がつかないうちに言葉が漏れ出していた。こんな夫を愛していた自分が情けなくて、そんな自分が不甲斐なく思わず自嘲していた。
「この調査書では、アルクは女と体を重ねている回数はありえないほど多いけど、どれも娼館の商売女や一夜限りの女との後腐れのない関係ばかりで、決まった愛人がいる訳ではないわね。完全な性欲処理のようね。でも、どうして・・・・。アルク様っていえば、真面目すぎるほどの堅物で、ネリネだけしか目に入っていなかったのに」調査報告書に目を通しながら遠い目をしてミモザが独り言のように呟いている。
「私だって・・・こんなふうにアルクが変わってしまうなんて想像もしてなかった。でも、私自身がアルクの本音を聞いたもの・・・・彼にとって私は妻でも女性でもない・・・妻の座に居続けているだけのもの・・・にすぎない」
「ネリネ・・・・・・」
「私がもっと魅力的な女性だったら、アルクは今も私を女性として愛してくれたのかな・・・。ミモザが羨ましい。どんな時でも支えてくれる・・・愛してくれる・・・ジェイク様がいる・・ミモザを妬ましく思ってしまう私がいるの。ミモザの旦那様も私の夫も同じように幼い時に出会い・・・結婚したのに。ジェイク様はあの頃から変わらず、ずっとミモザを大事にしているのがわかるもの。可愛いい子供たちにも恵まれて。私とは全然違う・・・・。どうして・・・・って、羨ましいって思ってしまう私がいる。ミモザのこと大好きなのに・・・・こんな私、本当に嫌・・・・こんなふうにしか考えられないなんて・・・恥ずかしい・・・・ごめんなさい」
「ネリネ・・・・・」
ミモザは席を立ち、私を優しく包み込むように抱きしめてくれた。
「ネリネは優しいの。決して、嫌な子じゃない。今は、貴方が自分を嫌いでも、私は今の貴方も過去の貴方も大好きよ。私が病で絶望の淵を彷徨った時も、ジェイクと決して結ばれないと諦めていた時も、貴方だけは私が幸せになる未来を信じていてくれた。私自身が幸せになる未来を信じられなくなっていたのに・・・・そして、貴方は貴方の大切な髪を犠牲にして私を救ってくれた。それが、どれほど私の支えになったか・・・・私は貴方に救われたの・・・体も・・・そして心も・・・。その時、私は決めたの・・・・これから先、ネリネが辛い時や苦しい時は、絶対に私が助けるって!」
ミモザに抱きしめられながら聞く優しい声が私の心も包んでくれる。ミモザの優しさが私の凍った心を溶かし、氷解するように私の目から涙が溢れ出る。
「ネリネ。貴方は素敵な女性よ。そんなの私が一番分かっている。だって、私と貴方は親友なのよ。今は辛いことがありすぎて心が弱って悲鳴をあげているの。だから、我慢なんてしないで、泣いたらいいのよ。どんな時も私は貴方の味方・・・・。だから、私の前では我慢せずに・・・・私を頼ってほしい」
「いっ、いっっ、いいの?」
「もちろんよ!!」ミモザは私をギュッと抱きしめる。
「・・・・っっ。ありがっ・・・とっう」
ミモザに『ありがとう』を言いたいのに。
胸が・・・心が苦しい。色々な思いがせめぎあって・・・息が上手く吸えない。
『しっかりしなさい』頭で自分を叱咤するが、自身の体に上手く伝わらず・・・結果、私はみっともなく嗚咽して泣いている。
私はアルクが好きだった。愛していた。
アルクと出会って、一緒の時間を過ごす中で・・・アルクを愛した。
あの日、アルクの本音を聞いてしまうまで。
結婚してから、アルクの母親に子供を授からないことで『石女』と罵られようとも耐えてきた。それは、アルクとの夫婦関係が以前のようにきっと改善すると信じていたから・・・。
だから離婚を決断出来なかった。
過去のアルクから受けた愛情に・・・幸せだった時間に縋っていた。
アルク・・・あなたは、私の気持ちを見透かしていたのね。
そして、それを利用して私を裏切っていた。
今も裏切り続けている。
目の前に突きつけられた残酷な現実。
心を閉ざしてしまいたい。
こんな残酷な現実を知りたくなどなかった。
私の前に立ち塞がる残酷な現実・・・・私だけだったら、この現実から目を背け今まで通りの生活をしていたかもしれない。でも、私には残酷な事実に苦しんでいる私に寄り添ってくれる親友がいる。私はひとりぼっちじゃない。
それに、私は映像の彼女のように、今をしっかり生きていきたいと思っているから。
『映像の彼女に恥じない生き方をしたい!!』
映像を見てから、私にとって『映像の彼女』は目標になっていた。
「もう、アルクは必要ない。彼とは離婚したい」
先ほどまでの涙は止まり、意思が言葉となって口からこぼれた。
「決めたのね・・・・・。ネリネ、貴方は一人じゃない。私もできる限り協力する。もちろん、頼ってくれるでしょ?」
「ミモザ。ありがとう。迷惑かけてごめんなさい」
「遠慮なんていらないわ。迷惑なんて全く思ってないから」
「遠慮したら怒るからね!」
破顔してミモザはいたずらっ子のように笑った。
「ただ、ネリネが離婚を決めても、すぐには離婚にはならないわ」
ミモザの言葉に不安になる。
そんな私の気持ちを察したのか、私をゆっくりと抱きしめて「心配いらないわ。離婚届とアルクの素行調査を置いて家を出るのよ。家を出た後の生活なら心配いらない。私に伝手があるから問題ないわ。ネリネが決心したら私はいつでも動く」
「ミモザ、本当にいいの?」
「当たり前でしょ。私たちは親友なのよ」
「ミモザ、突然すぎるけどすぐに家をでたいの。これ以上、あの家にはいたくないの」
涙が止まったばかりの酷い顔で、ミモザが断らないことをわかった上でお願いをする。
そして、私の自分勝手なお願いにこたえてくれるミモザに感謝を伝えたくて精一杯の笑顔で微笑む。
そんな私にミモザも泣きそうな笑顔で、私の顔をハンカチで拭ってくれる。
ミモザのハンカチが私の顔を拭いてくれるごとに私の気持ちが軽くなっていくような気がした。
アルクのあの酷い言葉を聞いてから、私は誰にも本来の笑顔を見せられなくなっていた。あの日から、ずっと笑顔の仮面を被っていたのだ。
アルクは、知らない。私がアルクの本音を聞いてしまったことを。
私がアルクの中に私への愛情がないことを知っている・・・その事実を彼は知らない。
だから、彼は偽りの笑顔を私に向ける。
彼の本音を聞いてしまったあの日の夜も彼は帰ってこなかった。
帰宅した彼は、
「帰れなくてごめん。どんなに忙しくても、君が支えてくれているから頑張れるよ」
くっきりとしたアーモンド型の焦茶の瞳を細めながら私を見つめている。この場を目撃した人は、『優しい夫に愛される妻』に見えるだろう。
「・・・・忙しいのね」
ねえ、アルク・・・・仕事じゃないって知っているのよ。
私をみて・・・今の私の笑顔をみて何も感じないの?
以前の貴方なら、私の表情・・・・感情の変化にすぐに気がついてくれた。
くすみがかった金髪が少し乱れた彼の後ろ姿を見つめる。
『ネリネと一緒にいたい。大切にする。どんな時もずっと、君を愛し続ける。だから、俺と結婚してほしい』
辿々しく紡がれた彼からのプロポーズの言葉。一生懸命な気持ちが嬉しかった・・・・幸せになることを信じて疑っていなかった・・・あの頃の私。
彼の後ろ姿を見ながら、不意に思い出した・・・・幸せだった時間。
私の頬に涙がつたった。
―――――――アルクの嘘つき。
幸せだった時間も確かにあったのに・・・。
夫を見るたび、夫と話すたびに・・・・
過去に一緒に紡いだ幸せだった思い出までが壊れていく・・・・。
このままではだめだ。
この場所に・・・夫への愛情はもうない。
夫が私に愛がないように。
ミモザからのお茶会への招待状が届いた。
これは、離婚するための準備が整ったことの合図。
ミモザからの招待状を受け取った翌朝、
「ネリネ、今日は少し遅くなるかもしれない。頑張ってくるから頼むね」
職場に行く際の挨拶が・・・・浮気の連絡とは・・・・。
冷めた気持ちになりつつも、「いってらっしゃい」を仮面の笑顔で伝える。
夫は、私を抱き寄せ頬にキスをする。
愛情のない、いつもの出かけ際の挨拶。
これが最後の見送りになるだろう。
夫は最後まで気がつかなかった。
仮面で作られた私の笑顔に・・・・。でも、もういい。
さよなら、アルク。
私のことは忘れて、愛する人を見つけてね。
そして、愛する人と子供を作ってね。
それが家のためであり、貴方を愛する義母(お母様)の願いだから・・・。
部屋の机の上に、私の記載欄にサインした離婚届と『夫の素行調査書』で知り得た浮気の証拠の控えの上に結婚指輪を置いた。手紙を書くか迷ったが、書く内容が見つからずやめた。
学生時代から使っている大きめのカバンに普段使うものだけを詰めて、昼前のこの時間に使われることのない裏口のひとつから使用人に見つからないようにそっと邸を出た。義母から『石女』と言われるようになってから、使用人から距離を置かれている私だったから見つかることはなく、容易に邸から抜け出すことが出来た。
幼馴染でもある夫からもらった物は全て置いていく。
物と一緒に夫との全ての思い出を置いていく。
アルクが5歳、私が4歳で出会って、18歳で結婚して・・・・22歳か。
思えば、異性と言えば夫(アルク)だけだった。でも、私はアルクの優しいところやひたむきなところ・・・不器用なところも含めて好きになった。だから、アルクからプロポーズしてもらった時・・・最高に嬉しかった。・・・なのに、私は離婚届を置いて邸を出た。
アルクに出会って好きになって・・・彼を愛した。彼も私を愛してくれていると信じて疑ったことなどなかった。彼の酷い言葉を聞くまでは・・・。
乗合馬車を待ちながら、過去に思いを馳せる。
「どうして・・・・。何がダメだったのだろう」
私の小さな呟きに返答するものなどいない。
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