星を継ぐもの。

@blahvsky

第1話

夕暮れのスタジオは、いつもより静かだった。

 スポットライトの残光が、鏡の前に立つ女性のシルエットを柔らかく照らしている。

 彼女の名は、星野なつみ。25歳。

 170㎝近い長身と、長い手足を使ったしなやかなダンスで、3人組アイドルグループ「Lumina」のメンバーとして活躍していた。

 彼女のトレードマークは、なんといってもその長い髪。

 腰まで届くその髪は、まるで夜の闇を溶かしたような深い黒色で、光が当たると微かな青みが浮かび上がり、優雅に揺れるたびファンを魅了した。ストレートに流れる一本一本が、絹糸のように滑らかで、肩から背中へ優しいカーブを描き、ライブのダンスで翻る姿は、まるで黒い滝が舞うようだった。

 なつみの髪は、彼女の象徴。ステージ上でマイクを握るたび、その髪が風を切り、観客の視線を一身に集めた。

 彼女自身、長い黒髪はアイドルになくてはならないものという考えを強く持っており、アイドルになってから引き続き髪を伸ばし始め、日々のケアも怠らなかった。

 しかし、今夜は違う。メイクはすでに落ち、顔には疲労の影が差している。

「人気アイドルグループ『L』の現役メンバー、妻子ある男性と不倫!」

 そんな記事が週刊誌に載ったのは、昨日のことだった。本人はその事実を認め、既に事務所に退職届を出していた。

 マネージャーの小澤がそっと近づき、なつみに声を掛けた。

「これはもうグループの存続にかかわる問題だ。当分の間の活動休止は避けられないにしても、残りの2人でやっていくのか?」

「いや。もう2人で話し合って決めました。3人じゃないと『Lumina』じゃないって。だから『Lumina』は解散します。」

 あかりは静かに微笑んだ。瞳には、穏やかな決意が宿っていた。

「じゃぁ君はどうするんだ。」

「正直言って、ソロでやっていく自信はないです。それにもう、アイドルはやりきったし。私は芸能界も、全部卒業します。一般人として、新しい人生を歩みたい。」

 マネージャーはため息をつき、肩を落としたが、彼女の言葉に逆らうことはできなかった。なつみの決意は、固い岩のように揺るぎなかった。

 数日後、「Lumina」の解散が正式に発表された。世間は驚きのニュースにざわついたが、芸能活動を継続するメンバーもいる中、なつみは静かに姿を消した。


 引退から一週間後、東京の小さな美容室。

 予約の取れない隠れ家的なサロンで、なつみは予約を入れていた。店内はアロマの香りが漂い、柔らかなBGMが流れている。

 鏡の前に座ったなつみの心臓は、少しだけ速く鼓動を打っていた。椅子に腰を下ろすと、黒いロングヘアが背もたれに優しく広がった。

「バッサリ切ってください。この髪を見ると、アイドル時代を思い出してしまうので。」

 スタイリストの女性が、優しい笑顔で近づく。

「こんな美しい髪、惜しくない?」

 あかりは頷いた。

「はい。これが、私の新しい始まりです。」

 スタイリストはハサミを手に取り、まずは髪を丁寧に梳いた。黒い髪の海が、静かに波立つ。

 彼女は後ろ髪から始め、肩のラインまでを目安に、鋭い剪刀を滑らせる。ジョキ、ジョキ、という音が響くたび、長い黒髪が床に落ちていく。腰まであった髪は、次第に肩まで、首筋まで短くなっていく。前髪は、アイドル時代のような重めのぱっつんではなく、軽い感じにした。全体の長さは、顎のラインで揃え、ボブより少し短めのショートボブ。

「黒髪である必要もなくなったので、色も明るくしてください。」

 そうなつみに言われて、髪色も栗色になった。鏡に映る自分を見て、なつみの目が潤んだ。

 新しい髪型は、以前のロングとはまるで別人。短くなったことで顔の輪郭がくっきりと浮かび上がり、頰骨のラインが強調される。首筋が露わになり、肩が軽やかに見える。

 風が吹けば、軽く揺れる前髪が額を優しく覆い、サイドの短い毛束が耳元で遊び心を加える。全体として、洗練された都会的なショートヘア。もはやどちらかというと、イケメンに見える。重く垂れていたロングの重圧から解放され、まるで新しい風を纏ったような爽快感があった。

 なつみは鏡に向かって、ゆっくりと微笑んだ。そして、持ってきた眼鏡をかけた。アイドル時代はコンタクトで過ごしていたが、眼鏡の方が楽だ。

そこに映るのは、アイドル「星野なつみ」ではなく、普通の日常を生きる、一人の人間・亀井芳子。

 美容室を出た芳子は、街の喧騒に溶け込んだ。ショートヘアが風に軽く舞い、誰も彼女を振り返らない。

 スーパーで買い物をし、公園のベンチで本を読み、夕食の支度をする。それから、なつみ改め芳子の人生は静かに、しかし確実に動き始めた。


 もう東京にいる必要はない。芳子は、東京の住居を引き払い、故郷に帰ることにした。

 東京の喧騒を背に、芳子は飛行機の窓から流れる景色をぼんやりと眺めていた。

 長い黒髪はもうない。耳元できれいに切り揃えられたショートヘアが、彼女の新しいスタートを象徴していた。

 星野なつみという名前は、アイドルとして輝いた過去とともに、都心の雑踏に置いてきた。

 故郷の駅に降り立つと、懐かしい田園風景が広がっていた。

 東京から飛行機で1時間あまり、それからバスと列車を乗り継いでたどり着く海辺の小さな町。コンビニすら車で30分かかるこの場所が、彼女の故郷だ。

 アイドル時代、ステージの上でスポットライトを浴び、ファンの歓声を一身に受けていた日々は、もう遠い記憶だ。彼女はそれを「やり切った」と感じていた。悔いはなかった。

 芳子は実家に帰り、しばらくゆっくりと過ごしていた。

「あんたこれからどうするつもりなの?」

 父親が芳子に尋ねる。

「この町で何ができるか、まだ分からない。」

 この町は人口約3,000人、農業と漁業が主な産業の、これといって特徴のない町。小学校と中学校も1つずつ。町にはこれといって産業もない。両親は「先祖代々の土地を守る」ことに義務感を感じていて、細々と農業をしている。

 ハローワークで地元の求人を検索すると、老人ホームの介護職だけがヒットした。20代の女性が働くような場所は他になく、選択肢は限られていた。

 それでも、芳子は前向きだった。アイドルとして培った笑顔とコミュニケーション能力は、どんな場でも通用すると信じていた。

 芳子はその老人ホームの面接を受け、採用された。念のため入学した短大を卒業してから、数年のブランクがあるが、そのようなことは気にも留められなかった。

 老人ホームでの仕事は、想像以上に忙しかった。

 入居者の食事介助、日常の会話、レクリエーションの企画。ヘルパーの資格を持っていない芳子には、そのような仕事が割り当てられた。

 だが、芳子はすぐに皆の心をつかんだ。彼女の明るい声と、さりげなく相手を気遣う態度は、入居者たちに「まるで孫のようだ」と愛された。

 特に、頑固で口数の少ないおじいさんや、気難しいおばあさんとも自然に打ち解け、施設内に笑顔を増やしていった。

「芳子ちゃん、ほんとアイドルみたいだねえ」

 と、あるおばあさんが冗談めかして言うと、芳子は笑ってごまかした。

「まさか、ただのおしゃべり好きですよ」

 と。心のどこかで、過去の自分がチクリと疼いたが、すぐにそれを振り払った。


 穏やかな日々が続いていたある日、芳子の日常は突然かき乱された。

 町の小さなスーパーで買い物をしていた彼女は、ふと目にした週刊誌の表紙に凍りついた。そこには、老人ホームの庭で入居者と談笑する彼女の写真が大きく掲載されていた。見出しは

「元アイドル星野なつみ、田舎で介護士に!衝撃の転身!」

 と、煽情的に書かれていた。

「どうして…?」

 芳子は動揺を隠せなかった。誰かが彼女の過去を知り、密かに写真を撮って売り込んだのだろう。

 町の人々は彼女が元アイドルだったことを知らなかった。いや、知っていたとしても、誰もそんな過去を詮索するような町ではなかった。それが、彼女がこの町を選んだ理由でもあったのに。

 老人ホームの同僚たちも、週刊誌を見た数人が

「へえ、芳子ちゃん、アイドルだったの?」

 と軽い調子で聞いてきたが、芳子は笑顔でかわした。

「昔の話ですよ。もうただのここの職員です」

 だが、心の中では不安が渦巻いていた。これ以上騒ぎが大きくなれば、せっかく手に入れた静かな生活が壊れてしまうかもしれない。

 幸い、町の人々は週刊誌の記事を「都会のゴシップ」として流してくれた。施設の入居者たちも、「芳子ちゃんは芳子ちゃんよ」と温かくフォローしてくれて、騒動は次第に収まった。

 彼女は胸を撫で下ろしつつ、改めてこの町の温かさに感謝した。

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