第52話 新世界編/冥界編

世界はまだ死んでいなかった。

 ただ、黒く、深く沈んだだけだ。


 崩れた王都の残骸は冥界へと溶け、

 空は影に覆われ、

 魂たちはゆっくりと落ち続けている。


 その中心に、“彼”はいた。


 冥王──蓮。


 黒と白の混ざる六枚の影翼は、

 呼吸するように揺れ、

 足元の影は波のように広がる。


 その姿は、

 かつて人であった面影を微かに残していた。


 胸には光がひとつ、眠っている。

 温度がある。

 痛みもある。


「……ミリア」


 名を呼ぶたびに、

 光がほんのわずか震える。


 冥王となってもなお、

 彼が求めるものはひとつだった。


 少女はまだ死んでいない。

 ただ冥界の──奥で眠っている。



 冥界は囁く。

 冥王を形作る理が、

 蓮の足元から絡みつく。


『半身は王になれぬ』


 冥王は、喰らう存在だ。

 魂を糧に、世界を支配する。


 しかし蓮は――喰らわない。


 迷い、苦しみ、泣き叫ぶ魂を、

 ただ抱きしめ、

 静かに眠らせる。


 冥界は軋む。

 理は乱れ、夜がざわつく。


 蓮の選んだ優しさは、

 この世界にとって毒にも似ていた。


「……喰らうためになったんじゃない」


 彼はただ、

 守りたいだけだった。


 ミリアを。

 失われた魂を。



 白い光が揺れる。


 冥界の最深部──

 白い庭〈ルミナ〉。


 そこは、冥界において

 唯一“陽”が認められた場所。


 ミリアはそこで眠っている。


 小さな光の集合体。

 人の形のようで、まだ不安定。


 触れれば、すぐ崩れてしまいそう。


 蓮はそっと手を添える。

 光は震え、かすかに声を漏らす。


『……レン……』


 たったそれだけの声が、

 冥王の心臓を揺さぶる。


「戻ってこい……ミリア」


 願いは届かない。

 だが確かに、少女の魂は存在する。


 ただ──

 その魂は、半分しかない。


 もう半分は

 彼の手からこぼれ落ちたまま。



 静寂を破る足音。

 影が形を取り、ひとりの男が姿を見せる。


 ルシアン。


 影に飲まれぬ唯一の存在。

 王国で最も深く真実を覗いた者。


「やあ、蓮。

 ようやく“冥王”らしくなったね」


 穏やかな笑み。

 その手には小さな箱。


 蓮は問いを重ねるより早く、

 ルシアンは箱を開く。


 光。

 白い髪の欠片。

 小さな、微かな鼓動。


「……ミリアの、残り半分だ」


 蓮は息を呑む。


「奪ったのか」


「違うよ。

 “守った”んだ」


 ルシアンの声には揺らぎがなかった。


「王国は、

 ミリアを――“道具”として造ろうとした」


 蓮の影がざわつく。


「境界に立つ器。

 冥界への鍵。

 魂炉と同調する存在。

 すべて、君を冥王にするためね」


 蓮は、答えを理解していた。

 理解したくなかった。


「ミリアはね。

 “自分の意思”で君を冥王にした」


 その言葉は、

 蓮の心臓に深い棘を突き立てた。


「君が生きるって決めたから、

 彼女は死ぬことを選んだ」


 その瞬間、

 蓮の影が激しく揺れた。


 怒りか、悲しみか。

 区別はできない。


「……ミリアは、死んでいない」


「そうだね。

 半分はここに。

 もう半分は僕が持っている」


 ルシアンは一歩踏み出す。


「蓮。

 ミリアを取り戻したいなら、

 君は“完全な冥王”にならなきゃいけない」


 その瞳は真摯だった。


「冥王の座は、

 ひとつしかない」


「ミリアを戻したいのなら――

 僕を倒せ」


 挑発ではなかった。

 懇願に似ていた。


 ルシアンは蓮を見る。

 ただの友として。

 同志として。


「僕は、君を救いたい」


「君と、ミリアを」



 影が震える。

 光が揺らぐ。


 冥界が命じる。


『選べ。

 魂を喰らい、王となれ』


 だが蓮は、

 喰らわない。


 喰らえば、ミリアの魂が崩れる。

 喰らえば、彼は人ではなくなる。


 冥王である以前に、

 蓮は“彼女を想う人間”だった。


 それでも――

 選ばなければならない。


 ミリアのために。

 冥界のために。

 世界のために。


 そして、

 自分のために。


 ルシアンは、

 逃げるように笑った。


「蓮。

 君が正しいかどうか……

 それを決めるのは“冥界そのもの”だ」


 影が裂ける。

 白い庭が震え、

 冥界の奥が覗く。


 そこに待つのは――

 冥王の座。

 完成した未来。

 失われた真実。


 そして、

 ミリア。



「必ず迎えに行く」


 蓮は呟いた。


 震える光に、

 そっと手を伸ばす。


 温度が返る。

 鼓動が宿る。


『……まってる……』


 その声はかすか。

 けれど確かに。


 蓮は歩く。

 光の半身を抱え、

 影の深へと。


 冥界が揺れる。

 理が歪む。


 冥王は、

 魂を喰らわぬ王として

 その座へ挑む。


――冥界は、形を変えていた。


蓮が“冥王完全体”として目覚めてから、漆黒の世界は静かに脈動を始める。

足元を漂う霧は呼吸を持ち、意思を持ち、蓮の体に絡みついては離れた。

冥界そのものが、彼の存在を主として認めている。


……だが、その玉座はまだ完成していない。


蓮の視線は、灰色の地平へ。

遠く、無数の影がうごめく。

失われた魂たちが新たな“主”に忠誠を捧げるために跪く……はずだった。


だが――その列に、ただ一人だけ、膝をつかず佇む影があった。


それはゆっくりと顔を上げ、かすかに微笑んだ。


「さすがだね、蓮。冥王となってなお……“人の姿”を保つか」


影は歩み寄るたび、闇を光へと変えていく。

冥界で、あり得ない現象。


ルシアンだった。


かつて嘘をつき、裏切り、ミリアを奪い、蓮を冥王へと堕とした男。

だが今、その瞳にはどこか穏やかな色が宿っている。


蓮は言葉を発さず、ただ手をかざす。

空間が裂け、黒炎の牙がルシアンを噛み砕かんと襲う。


――だが。


刹那、蒼い光輪が炎を押し返し、虚空へと霧散させた。


「おいおい……話も聞かずに殺そうだなんて、君らしくない」

ルシアンは肩をすくめた。


蓮はただ、冷たい声で言う。


「ミリアを返せ」


その声は、冥界すべてを震わせる覇命だった。

影が震え、魂たちが跪く。


だがルシアンは微笑を崩さない。

その胸元――光の繭が脈打っていた。


ミリアが、眠っている。


「返すとも。だが……このままじゃ目覚めない」


蓮の瞳が鋭く細まる。

殺意はすでに、言葉を超えていた。


「目覚めさせてみろ」


「無理だよ。君ひとりではね」


ルシアンの言葉に、冥界の霧がざわめく。

まるで、邪悪な笑いを上げているように。


「ミリアの魂は……冥界と“契約”した。

 このままでは、取り込まれて消える」


「ふざけるな……!」


蓮の怒りの奔流が放たれ、冥界の地面が裏返る。

奈落が裂け、黒き竜骨が咆哮する。


闇の大群が、ルシアンへ襲いかかる。


ルシアンは光の輪を展開し、刀のように切り裂く。

蒼い光は闇を裂き、魂を貫き、一瞬で霧散させた。


戦場に、沈黙。


蓮はさらに一歩踏み込み、冥王の力を解き放つ。

そのたび冥界が伸縮し、地形が変貌した。


「なぜ阻む」


「違うさ。

 僕は“助けたい”。

 ミリアも、君も……冥界も」


「……!」


蓮は一瞬、動きを止めた。


ルシアンは続ける。


「冥界は進化している。

 君を核として、魂があふれ、役割を求めている。

 王として、この世界を導くことをね」


冥界がうねる。

――血のような黒雨が降る。


「でも、このままじゃミリアは取り込まれる。

 だからこそ、彼女を“世界の外側”へ還さなきゃならない。

 それが君には出来ない」


蓮は低く笑った。


「俺ができない?

 冥王の力を持つ俺が?」


「君だから、だよ」


ルシアンは繭に触れる。

ミリアのまつ毛が、かすかに震えた。


「彼女は、君に“囚われている”。

 愛でも、執念でもない……魂の鎖だよ。

 冥王の力は、彼女を守ると同時に、呪っている」


蓮の胸が痛む。

だが、それは苦悶ではない――


焦燥。

罪悪。

恐怖。


「……なら、どうすればいい」


ルシアンの声が沈んだ。


「僕を殺せ。

 その瞬間、ミリアは解放される」


冥界が一瞬、静まる。


蓮の怒気が薄れ、理解が追いつかず、言葉を失う。


「……お前、正気か」


「ずっと言ってただろ?

 “僕は君たちを助けたい”って」


ルシアンは不敵に笑った。


「そして……僕の目的は一つ。

 冥界の“死”を防ぐことだ」


冥界が、低く唸った。

まるでルシアンの言葉を否定するように。


「君が完全に冥王として君臨すれば、

 この世界は閉ざされ、ただ魂を喰う箱になる。

 ミリアは鍵だ。

 外界との唯一の接続……

 彼女を還さねば、冥界はすべてを飲み込む」


蓮は拳を握る。

地が揺れる。


――だが、ミリアの小さな震えが、蓮を止めた。


「……ミリアを、苦しめたくない」


「ならば、僕を殺せ」


ルシアンが蒼い光を解く。

無防備な姿。


蓮は手を伸ばした。

闇が凝縮し、刃となり、殺意を孕む。


――その瞬間。


繭の中から、細い声がこぼれた。


「……れ、ん……」


ミリア。


蓮の胸を貫く、ただ一言。


黒刃が揺らぎ、砕け散る。


蓮は膝をつき、頭を抱えた。


「どうすれば……

 どうすれば、ミリアを救える……!」


その叫びは、冥界の最奥へ響き渡り――

封じられた黒い門が震えた。


門の奥から、声が漏れる。


≪――冥王ヨ。選ベ――≫


蓮は震えながら立ち上がる。

ルシアンは静かに目を閉じた。


「道は二つ。


 “愛する者を救い、冥界を壊す”か。


 “冥界を守り、ミリアを失う”か。


 さあ、蓮――」


「決めるのは、君だ」


冥界が唸りを上げ、黒い門が裂ける。

燐光の刃、冥獣の咆哮。

大規模な戦の気配が満ちていく。


蓮は涙に濡れた目で、ただ前を見た。


――救ってみせる。


ミリアも。

冥界も。


その決意が、黒炎をまとう。


冥王の姿が変容し、

新たな角が生まれ、翼が闇を裂き、

冥界そのものが震える。


ルシアンは細く笑った。


「……そう来なくちゃ」


そして――

冥界全土を巻き込む、

大戦が幕を開ける。


蓮 vs 冥界

蓮 vs ルシアン


そして、

蓮 vs 世界


すべてを救うための――

魂を裂く戦いが、始まった。

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