Arca

あばんじゅ

第1話 不穏の足音

「アルカ、今日はもう終わりにしよう」

「はい!」


 剣術の師範であるシュドーからそう言われ、アルカは素振りを止めた。アルカは木刀を片付け、手拭いで汗を拭き取った。


「アルカ~、終わったんだったら早く遊ぼうよ~」


 と、それまで鍛錬を遠くから見ていた、シュドーの孫娘であるフリアが催促してきた。


「今日はもう無理だよ。明日は山狩りに行くんだから」


 今日は12月23日。ヒグマが冬眠を始める時期だ。だが、たまに越冬用の穴やエサを確保できず、冬眠せずに冬を越す、穴持たずのヒグマがいる。

 穴持たずは十分な脂肪を蓄えられず、飢えているため、人に危害を加える可能性が高い。これまでもこの村には穴持たずが降りてきて、死傷者を出したことがある。

 それを防ぐため、穴持たずを探し、事件を未然に防ごうというのが、明日アルカとシュドーが行う山狩りなのだ。


「って昨日もそう説明したじゃないか」

「え~、わかってるけど…。う~ん…遊ぼうよ~!」


 わかっていない。しかしまだ遊びたい盛りの8歳のフリアには、すぐに納得できるものではないのだろう。

 フリアは遊ぼう遊ぼうとせがみ、首を振る。肩まで揃えた灰色の髪がふりふりと揺れている。

 そんなフリアに、シュドーがそこまで、と言い、ぽんと頭に手を置いた。


「代わりに明日の午後に思う存分遊んでもらえばいい。頼めるか? アルカ」

「最初からそのつもりだったよ」


 アルカの言葉にそうか、とシュドーは破顔し、フリアの頭をさきほどよりも丁寧に撫でていた。


「アルカはさぁ、なんでおじいちゃんに剣を教えてもらってるの? あんなのつまんないよ」


 短い帰り道、アルカはフリアからそんな質問をされた。


「そうだな…」


 アルカは少しだけ過去のことを思い出す。

 シュドーに剣術を習たいと願い出たきっかけ。そして、強くなりたいと思ったきっかけを。


「フリアはまだ小さかったから覚えてないかもしれないけど、俺はヒグマに襲われたことがあるんだ」


 アルカは4年前のこと――10歳の出来事を思い出す。

 当時のアルカは、春先に山頂に残る残雪を近くで見てみたいという衝動を抱いていた。地上の雪が溶けてなくなっているのに、山頂にかかる雪はどんなものなんだろうか? なんてことのない好奇心が、幼少のアルカを衝き動かした。

 アルカは村の誰にも声をかけずに、山へと入っていった。


 そして、ヒグマと遭遇した。アルカはすぐに背を向けて逃げるが、ヒグマに突き飛ばされ、うつ伏せの状態でのしかかられた。絶体絶命の瞬間、そんなときににシュドーが現れた。


 シュドーはヒグマを倒し、傷を負ったアルカを村まで連れ帰ってくれた。そのとき、村の人たちはアルカの無事をただ喜んでくれた。それと同時、アルカは自分が傷つけばみんなも傷つくということに気づいた。

 それからアルカは危険な場所には近づかないようにした。危険なものに自ら近づかなければ傷つかない。そうすれば村のみんなも安心できる、そう思っていた。

 だが――


「そのあと、俺は人攫ひとさらいに遭った。黒目黒髪の人間は珍しいっていう理由で誘拐された。でもそのときもシュドーが助けてくれたんだ」


 運悪いね、とフリアが言われ、たしかにそのとおりだと思った。誘拐されたのはヒグマの遭遇から1ヶ月ほどしか経っていない。


「そのときも俺の無事にみんな安心してた。でもこのままじゃ、悪意を持って来るやつにやられるだけだって気付いた。だから俺は強くなりたいって思った。強くなれば、みんなは傷つかない。それに、その強さでみんなを守れる」


 そういう背景があって、アルカはシュドーから剣術と狩りを教わっているのだった。

 そのとき、アルカは服の裾が、フリアに握られていることに気づく。さきほどヒグマに殺されかけたという話を聞いたせいだろうか、フリアは不安そうな顔をしている。


 アルカはその頭を撫で、自身を持って大丈夫だと言った。あのときとは違う。アルカは4年の歳月を経て、強くなったと自負していた。


 ◇


「ただいま~」


 日も沈みかける頃、アルカは家で待っているだろう同居人に帰宅を知らせる。


「おかえり、アルカ」


 同居人のメザリーが台所から顔を出す。アルカは荷物を置いて、夕食の支度をしているメザリーの横に並び、手伝う。


 メザリー。空色の瞳と髪を持つ、アルカにとっては姉のような存在だ。


「明日は山狩りに行くんでしょ? その準備してていいから、こっちは任せて」


 メザリーからそう言われ、アルカは明日の準備に取り掛かる。と言っても準備自体は今朝に済ませており、その最終チェックをする程度だ。だが、念の為もう一度見ることにする。


「アルカ、ご飯できたよ」


 最終チェックが終わると同時、メザリーから声をかけられる。

 アルカは食卓に座り、一緒に夕食を食べる。アルカはメザリーにその日あったことを話した。といっても今日は剣術の鍛錬しかしておらず、いつもの日常だったが、こうしてメザリーと言葉を交わす時間がアルカは好きだった。


「そうだ。明日は私、隣の村に薬を届けに行くから」


 メザリーは薬師として薬を調合しており、近くの村や町に薬を売っている。だからたまに薬を売りに家を不在にすることがある。


「そうか、気を付けてね」

「私のほうは大丈夫。それよりもアルカのほうが心配」

「そりゃ、メザリーに比べたらそうかもしれないけどさ。俺だって山狩りは初めてじゃないんだ。大丈夫だよ」


 メザリーはひ弱な見た目に反して、この村では一番強い。筋力や剣術の心得があるわけではない。その理由は、メザリーの義手にある。

 メザリーの両腕は義手で、本当の腕は昔の事故の影響で切断したと聞いている。そして、この義手には“特殊な能力”が備わっており、それが強さの理由だった。


「山狩りは初めてじゃないんだ。前はシュドーの足を引っ張ることも多かったけど、今はちゃんと戦力になってるよ」


 アルカは、メザリーを安心させるために胸を張り、もう子供ではないということを示す。メザリーはそれを見て、怪我なく帰って来るように、と言ってくれた。


 夕食を終えたアルカとメザリーは、後片付けをし、少し雑談したあと、すぐ眠ることにした。いつもより早い就寝だったが、互いに朝が早いためだった。

 囲炉裏の火を絶やさないよう薪をべ、一緒の布団に入り、引っ付いて寝る。厳寒期はいつもこのように寝るのだった。


 ◇


 朝目覚めると、一緒に眠っていたメザリーの姿はなかった。枕元には置き手紙があり、すでに出発していることと怪我をしないようにと書いてあった。


 アルカは起き上がり、寝具を片付け、山狩りの準備を整える。装備を持ってシュドーの家に行くと、すでにシュドーは待っていた。


 アルカはシュドーとともに入山し、山の様子を注意深く観察する。入山から10分ほど、問題なく進んでいく。そのとき、アルカは先頭を歩くシュドーが今まさに踏みしめようとする地面を見て、まずいと感じる。そして言葉に出すより早く、シュドーの首根っこを掴み、ぐっと引き寄せた。

 すると、シュドーが踏んだ地面はぴしりと音を立て、ガラス細工のように割れる。


「ここが底なし沼だって教えてくれたのはシュドーじゃないか…」


 アルカは半ば呆れるように言う。

 ここの底なし沼は冬になると表面だけが凍っていることがあり、踏んでしまえば表面は割れ、冷たい沼にいざなわれる。

 もしアルカが引っ張らずにそのままシュドーがいたなら、底なし沼に浸かっていただろう。


「おお、そうじゃったそうじゃった。ありがとう」


 シュドーはこの底なし沼にハマらないよう、近くに印をつけてくれていた。だが、今日はその存在自体を見落としていた。


「もう年かのう…。アルカに言われるまですっかり忘れとったわ」


 シュドーは頭を掻きながら冷や汗を拭う。それからはアルカが先頭に立ち、山を回る。入山してから時間が立つが、アルカはまだ体力に余裕を残している。だが、シュドーは息を切らしていたため、一旦休憩を取るのだった。


「年じゃ…。今年からがくっと衰えたわ」


 シュドーは腰を落とし、どこか落ち込んでいるように見えた。確かシュドーは今年で80歳になる。


「狩りとかは俺や他の若い人たちに任せたらどうだ? 体力的にも厳しいだろ?」


 アルカがシュドーから剣術を教わり始めた頃、その技はまるで絵画の一場面のような美しさがあり、それでいて確かな強さがあった。だが今のシュドーが繰り出す技はその頃よりも明らかに衰えている。


「そうじゃがなぁ、このまま辞めてしまえば余計に衰えも早くなると思ってしまうんじゃよ。今はただ動いていたい」


 シュドーは持っていた水をごくりと飲んだ。


「儂は戦争で息子を守れず、敗走した。あのときもっと力があれば、と今でも思う。アルカと同じじゃよ。せめて死ぬまでは誰かを守るための力は衰えさせたくない」

「……」


 シュドーの息子が戦争で死んだ、というのはアルカには初耳だった。そして、剣術の指導を引き受けてくれた理由にも納得する。守るための力を求めるアルカの姿は重なって見えるのだろう。


 2人は休憩を終え、活動を再開しようとしたそのとき、木陰に50cmほどの石像が隠れているのを見つけた。その石像は苔生こけむしており、長年放置されていたことがわかる。


「これはこれは、懐かしいのぉ」


 それは無数の手を持つ人間――いや異形が象られていた。しかし、その異形は鎖のようなもので拘束されており、どこか物語性があるように感じられた。

 知っているのか? と聞くと、シュドーが答えてくれる。


「これは“ヘリク”という化け物の石像じゃ。今では誰も口にもしなくなったが、500年前に封印された不死身の化け物でな。当時大勢の命を奪い、災害に名を連ねるほどの存在じゃった」

「そんなやつ、どうやって封印したんだ?」

「一度閉じれば二度と閉じることができない特殊な結界でヘリクを封じ込めたんじゃよ。そしてそれはここから一つ先の山に今も封印されおる」

「一つ先の山って、歩けば一日か二日で着くじゃないか」


 それも初耳だった。

 そして、そんな身近に人知を越える化け物がいると思うと、自分の村は大丈夫なのだろうかと、不安にある。


「もし、そんなやつが復活したらどうなるんだろう?」

「最初は誰もがそうやって心配する。じゃが何年も音沙汰がなければ、皆そのことを忘れてしまう。儂は定期的に封印の状態を見ておるが、周りは不思議がるよ。封印は解かれないから見る必要はない、と」


 正直、どこか楽観的だとアルカは感じる。今日大丈夫だから明日も大丈夫だという保証にはならないのだから。


「この石像はヘリクの封印が永遠に続くようにと作られたものじゃ。じゃが、忘れ去られてこの始末じゃ」


 シュドーは石像の苔を取り除き、近くの樹に立てかけた。


「この世に絶対はない。儂みたいな心配性なやつが一人くらいいたほうがええじゃろ」

「うん」


 アルカもまたその一人になろうと、思いを固めるのだった。


 ◇


 2人は山狩り活動を再開しようとするが、巨大な灰色の雲が徐々に迫ってくるのが見えた。


「もうすぐ吹雪くかもしれんな。アルカ、今日はここまでにして引き返そう」

「そうだな…」


 シュドーの予想通り、村に到着する頃には猛吹雪になっていた。引き返す判断が遅ければ、危なかっただろう。


「メザリーは大丈夫かな?」


 一人だけになった家で、アルカの心配する声がこだまする。

 隣の村にはすでに着いているだろう。だが、帰りはこの猛吹雪による積雪で遅れるかもしれない。


 とにかく今日はもうできることはなにもない。アルカは囲炉裏の火を絶やさないように越冬するために蓄えていた薪を焼べる。それからはメザリーが持っている本を読んで時間を潰し、日が落ちるのを待つ。


 猛吹雪によりすでに辺りは暗く、日没かどうかも判別がつかない。だが、瞼が重たくなるのを感じ、アルカは眠る準備を整える。


 メザリーのいない一人きりの冬の夜は、寂しさと冷たさが同居していた。


 ◇


 一方、メザリーは隣の村で一泊していた。朝に出発し、到着するのは夕方になるため、一度ここで一泊し、次の日に帰る予定だ。だが――


「すごい雪ね~。もしかしたら明日もこんな感じかも」

「そうですね…早く止むと良いのですが…」

「メザリーちゃんにはいつも薬を届けてもらってるからね。いつでもここにいていいよ」

「ありがとうございます」


 メザリーは泊めてもらう家の婦人と雑談を交わしていた。婦人は村長の妻で、薬を届ける際にはいつもここに泊めてもらっている。


(アルカは大丈夫かな?)


 メザリーは山狩りへ行ったであろうアルカの心配をする。

 しかしそのとき、家の戸口をばんばんと叩く音が響く。そして猛吹雪の音に掻き消されながらも、助けを求めるような人の声が聞こえた。


 メザリーと婦人は何事かと思い、戸口へと向かうと、倒れる男性とそれを支える婦人の夫――村長がいた。


「どうしたんですか?」

「わからん…。扉を開いた途端に倒れ込んできたんじゃ」

「一旦、その方を安静にしましょう」


 なにがなんだか落ち着かない村長とその妻とは裏腹に、メザリーは冷静に判断する。


 村長はその男性を抱え、居間へと運び、横向きに寝かせる。メザリーは倒れる男性の状態を診る。男性には外傷は見られないが、体温が異常に低かった。メザリーたちは男性を囲炉裏に近づけ、濡れた衣服を替え、布団や藁をかける。これ以上体温を下げさせないために。


「こいつはこの村の猟師でな。今日は山狩りで山に入っとったんじゃ。じゃが、山狩りにはもう一人ついておったはずじゃ…」

「それじゃ、もう一人のほうは――」


 村長の妻は、それ以上言えないようだった。

 メザリーは同じく山狩りへ向かったアルカも、まさかと考えそうになるが、その思考を即座に封じ込める。

 そのとき、男性の目が徐々に開く。


「村………長……」

「おはようおはよう。大変じゃったろう。もう少し安静にしなさい」


 村長は男性を気遣ってか、優しい声音で声を掛ける。


「村長……バケモン……バケモンに兄さんが殺された」


 殺された、とその言葉に、一同の表情が凍りつく。


「山狩りに行っとったら………。猛吹雪が来て…吹雪を凌ぐために洞窟を入ったら……奥から人が出てきた……。見たこともないやつだ……。そいつがいきなり兄さんに殴りかかってきて……。兄さんは殺された……。まるでりんごを叩き割るみたいに…頭を潰された」


 メザリーはその洞窟について、何が封印されているか、心当たりがあった。

 そのとき、男性は初めてメザリーのほうを見た。


「メザリー…来てたのか……。すまねぇ、本当にすまねぇ……」

「ど、どうして謝るんですか…? あなたは悪くないでしょう…?」


 突然の謝罪にメザリーは困惑する。


「俺は雪に埋もれて身を隠して逃げられた……。けど…、あいつは川沿いに下っていったのが見えた…。あいつはお前の村に行ってちまったかもしれねぇ……」

「――!」


 メザリーはすぐに自分の荷物を掴み、家から飛び出だす。しかし、後ろから手を引かれ、引き留められる。


「メザリーちゃん! こんな吹雪で外に出れば死んじまうよ!」

「でも……!」

「でもじゃない! 日没でこんな猛吹雪、出ればあんたは遭難して死ぬ! 今は待つしかないのよ!」


 メザリーは夫人に手を強く握られ、ずるずると家へと引きずられる。


「ここで死ねばアルカは一人残されるんだよ!? よく考えなさい!」


 家の中に戻され、どさりと壁にもたれかかる。


「出発はこの吹雪が止んでからよ。わかったね?」

「は…ぃ」


 普段は穏やかな夫人であるが、自分のためにそうしてくれているのだとすぐに分かる。メザリーは深呼吸をし、心を落ち着かせる。メザリーは自分が冷静さを欠いていたことを、ようやく自覚する。


 メザリーたちはその日すぐに眠ることにする。明朝に吹雪が止む可能性に賭けて、すぐに動けるようにするためだ。


 布団にくるまるメザリーの胸中には、アルカがいない寂寞感と、これからそれを失うのではないかという不安感を孕んでいた。

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