ⅺ. ありがとう

 先を歩く茜の背を追いながら、紫乃は瓦礫の海を泳いでいた。

 ざくり、ざくりと踏みしめるそれらは、かつて妖の家だったものだ。喧騒は遠ざかり、夜の静けさがじわりと戻ってくる。

 胸の中をざわりと、何かが通り過ぎる音がした。

 そのとき茜の胸元から、ん、と短い声が聞こえる。

「……茜……様?」

「樹くん!」

 紫乃が慌てて駆け寄ると、樹はゆっくりまぶたを上げ、弱々しく息をついた。

 途端に、胸の奥に張りつめていた何かが、ふっとほどける。

「よかった……」

 紫乃の安堵が伝わったのか、茜も息をつき、抱く腕を少しだけ強くする。

 まるで触れただけで砕ける薄氷でも扱うように、静かに樹を引き寄せた。

「茜様……ごめんなさい……」

 樹がみじろぐと、茜はそれをぎゅっと抱きしめて、まるで何かを乞うようにぼそりとつぶやく。

「無事でよかった」

 安堵がそっと染み込んでいく。

 かすれた声が空気に溶け、やがて心をやんわり締め上げる。


 ――この男は、どこまでも人間らしい。


 無遠慮で酷く差別的な言葉が、胸の奥にひどく静かに落ちてきた。

「ご心配おかけして……すみません……」

 樹が申し訳なさそうに縮こまると、茜はわずかに息を吸い、その背に確認するような手を置いた。

「謝んな。……生きてりゃ、それでいい」

 不器用な優しさに、紫乃は思わず胸が熱くなる。

「……茜」

 紫乃がそっとつぶやきかけた、そのときだった。

「……助かった。お前もありがとな」

 聞こえたか聞こえないか分からないほどの小さな声。

 耳の奥をあまりにも優しく撫でるそれは、酷くくすぐったかった。

「別に私は……」

「ふん、まあ、貧弱な人間もたまには役に立つってことが分かったな」

「な……っ! それよりあんたこそ、お礼なんて言えるのね。よく聞こえなかったわ。もう一回言って?」

「言うか!」

 即答でそっぽを向いた茜に、紫乃は目を細めた。

 にやりと上がる口角。まるで悪戯を思いついた子供みたいだ。

「……そう。なら仕方ないわね」

 紫乃の瞳が深海のような光を帯びる。

『茜、もう一度言いなさい』

 茜は思わず息を飲んだ。

「お前、縛魂術使うな!」

 すかさず叫んだが、ピタッと姿勢を正し、それから抵抗に反するように口を開いた。

「……ありがとう」

 零れた言葉は、不本意とも本意図も取れる優しさを含んでいた。

 紫乃は満面の笑みでうなずく。

「はい、よくできました」

「二度とやるな……!」

 慌てて顔を背ける茜。

 樹はぽかんとし、遠巻きに見ていた妖たちがくすくす笑いを漏らす。


―――こんな日がいつか……。


 紫乃はぎゅっと口を閉ざした。


 夜風が笑い声を運び、百鬼市を柔らかく撫でていく。

 冷えた空気の中、ほんの少しだけ――ふたりの距離が近づいた瞬間だった。

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