1-3
ビビは尾びれで海面を強く打って音を立てた。数人のうち誰かが、それに気づいたらしい。人々がこちらへやってくる。ビビは慌てて海へ隠れた。
そしてそっと海面から顔を出す。人々が、若者を取り巻いている。ビビはほっとした。よかった――たぶん、あの人間はこれで助かる――。
――――
とりあえずは安心して我が家(人魚は海中の洞穴に住んでいる)に戻ったものの、不安はたちまち戻ってきた。本当に助かったのかしらあの人――。もしそうでなかったらどうしよう!
あたしが急に歌なんか歌ったから、びっくりしてあの人は海に落ちたんだ。あたしのせい……あたしのせいなんだ。
その夜はよく眠れなかった。こんなことは初めてだった。人魚は気分が変わりやすいので、どんな悩みもしばらくすれば忘れてしまうのだ。そう、今までは。けれども今回はなかなか忘れることができなかった。
うつらうつらして短い夢を見た。浜辺に人間が集まっていた。その中央に倒れている男性。血の気のない白い頬をしている。目は閉じられ、それはもう開くことはない。呼吸は止まり、体は冷たく固くなっていく……。
ビビは恐怖にかられて目を覚ました。
朝になっても気持ちは晴れなかった。誰かに相談したい。ビビの頭に真っ先に浮かんだのは姉だった。姉のルウ。美しく堂々としていて軽やかで、ビビの愛する一番上の姉。
ビビは姉の元へと向かった。
するとちょうど、洞穴から出てきたルウとばったり会った。「お姉様……」ビビが小さなしょげた声で、姉に言う。けれどもその先が続かない。
「どうしたの?」
ルウが驚いて、肩を落とすビビに近づいていく。ビビは堪え切れなくなって、わっと泣き出した。
「どうしようお姉様! あたしは人殺しになってしまった!」
――――
「人殺し?」
ビビの言葉にルウは大いに戸惑っている。ビビの背中に手を回すと優しくさすった。
「どうしたのビビ。何か怖い夢でも見たの?」
「夢じゃないの!」
ビビは大きく首を横に振って、姉の言葉を否定した。
そして話し始める。昨日の夜会ったことを。泣きじゃくりながら、途中で何度も中断しながら、話はあちこちに飛びなかなか要領を得なかったが、姉は辛抱強く聞いてくれた。
「その人はきっと大丈夫よ」
ビビの話が一通り終わった後、ルウは言った。
「そんなに長く海中にはいなかったんでしょ? 今頃はきっと元気になってる」
「でも……」
「それにあなたはその人を海に落っことしたくて歌を歌ったわけではないし」
「そうなの! あたしもそんなことが起こるとは思わなくて……」
ビビはうつむいた。姉に全部を打ち明け、なぐさめてもらったから少し気持ちは落ち着いた。でも……。あの人が無事かどうか、やっぱり気になる……。
「せめて確かめることができれば……」
ビビは小さな声で言った。確かめる。そうあの人が元気かどうか。「元気な姿が見られれば、安心すると思う」
「じゃあ、確かめに行けばいいじゃない」
ルウがあっさりと言った。ビビは顔をあげてルウを見た。ルウは明るい表情をしている。確かめに行くって、どういうことだろう、とビビは思った。海岸付近を泳いでれば、散歩しているその人を運良く見つけることができるのかな。
「確かめるって、どうするの?」
ビビがルウに尋ねる。ルウの顔にはいたずらっぽいほほえみが広がった。
「人間になるの」楽しい秘密の計画を打ち明けるように、ちょっと声をひそめてルウは言った。
「人間になってね、人間の世界に行くのよ」
――――
ビビは少しの間、何を言っていいかわからなかった。人間に……なる!? そんなことって可能なの!?
「お姉様……人魚は人間になれるの?」
「しーっ。もっと声を小さくして」ルウがビビに顔を近づけた。「これは一部の人魚たちしか知らないの。禁断の魔法なのよ」
「禁断?」
胸がどきどきしてくる。何か悪いことの香りがしてくる。でも人魚は好奇心旺盛で自由な生き物なので、時折悪いことに手を染めることもある。
「あのね……今までずっと内緒にしてたけど、私は人間になって人間の世界に住んでいたこともあるの」
「そうなの!?」
姉の言葉にビビはびっくりして大きな声を出してしまった。ついさっき、声を小さくするよう言われたのに。ビビは今度は注意して、小さな声でルウに尋ねた。
「どういうことなの? どうやって人間になったの? どうして人間の世界で暮らそうなんて思ったの?」
「魔女の力を借りたのよ」
人魚の中には魔法使いと呼ばれる、変わったものたちがいる。彼らの数や実態はよくわからない。彼らは他の人魚たちからは離れた場所に住み、魔法の研究をしているらしい。
ビビたちが住む海域から少し行ったところに魔女――女の人魚の魔法使いなので魔女と呼ばれる――がいるという噂はビビも聞いたことがある。けれども実際にその魔女とやらには会ったことがなかった。
「魔女が人間に変身できる薬を持っていたのね。私はそれをもらった、というか買ったのね」
ルウが言う。ビビはひたすら面食らっていた。噂にしか聞いたことがない謎の存在の魔女。それから――人間になれるとかいう不思議すぎる薬!
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます