第2話 酔いのせい…? それとも――
柔らかな光が、カーテンの隙間から差し込んでいた。
眩しさに目を細めながら、莉緒はゆっくりとまぶたを開けた。
最初に見えたのは、真っ白な天井。
それから、シーツの質感。
ふかふかで、肌触りがよく、どこか高級感のあるリネン。
そして――この香り。石鹸と、微かに柑橘のような香りが混ざっている。
「……え……ここ、どこ……?」
寝ぼけた声が漏れる。
自分の部屋ではない。壁の色も違う。
ベッドも広すぎるし、家具の一つひとつがセンスよく並べられている。
全身に鳥肌が立つような、奇妙な感覚。
頭の奥がズキズキと痛む。
昨夜、飲み会があって――それから……。
(会社の年度末打ち上げ……ホテルのホールで……)
同僚の相原が隣で楽しそうに話していた。
社長の篠崎瑛士が、少し離れた席に座っていた。
グラスを持つ手が震えて、うまく笑えなかった。
緊張して、つい飲みすぎて……。
そうだ。
あのとき、ワインをこぼした。社長のスーツに。
焦って謝ったら、あの人が静かに笑って――。
(……それから、どうしたっけ……?)
思い出そうとするたび、頭の中がぐらぐらする。
体を起こそうとした瞬間、低い声がした。
「……起きたか。」
「っ!?」
声の方を見ると、部屋の入り口に立つ人影。
白いシャツの袖をまくり上げ、まだ濡れた髪を後ろで軽く撫でつけている。
朝日を背に、整った横顔。
――篠崎瑛士。
莉緒の上司であり、誰もが一目置く冷徹な社長。
「……しゃ、社長!?」
「おはよう。コーヒー淹れた。」
「こ、ここ……は?」
「俺の部屋だ。」
短く、淡々と答える。
その一言が、脳内でゆっくりと反響した。
「え、え、社長の……!? な、なんで私……!?」
瑛士は静かに歩み寄り、テーブルの上のマグカップを持ち上げた。
動作一つ一つが落ち着いていて、あまりにも自然。
まるで――彼にとって、こうして彼女が家にいることが、当たり前のようにさえ見えた。
「昨夜、ホテルを出たあと、君がフラフラだった。
タクシーを止めても、行き先を言えなかったから、うちまで連れてきた。」
「えっ……」
「寝かせた。それだけだ。」
「……そ、そうですか……」
胸がじんわり熱くなる。
“寝かせた”――その言葉の裏に何かあるようで、ないようで。
視線を落とすと、自分はゆるいシャツを羽織っているだけだった。
それが見覚えのない白いシャツ――きっと、社長のだ。
「これ……」
「俺のだ。服、汚れてたから。洗濯機に入れておいた。」
「……ありがとうございます……」
声が震える。
あの冷徹な社長が、ここまで――?
信じられない。けれど、目の前にいるのは確かに篠崎瑛士だった。
瑛士はテーブルにコーヒーを置くと、淡く笑った。
けれどその笑みは一瞬で消え、すぐにいつもの無表情に戻る。
「水、飲むか?」
「あ、はい……」
グラスを差し出され、莉緒は慌てて受け取る。
彼の指が自分の手に少し触れただけで、心臓が跳ねた。
「……社長」
「ん?」
「……昨夜……その……」
どう言えばいいのかわからない。
“何かあったんですか”なんて聞けるはずもない。
でも、聞かないと落ち着かない。
口ごもる莉緒を見て、瑛士は一拍置いてから言った。
「心配しなくていい。何もしていない。」
「っ……!」
その言葉に、安堵と同時に、妙な寂しさが胸を刺した。
何もなかったことに、ホッとしているはずなのに。
それ以上に――“何もなかった”ことが、少しだけ痛かった。
視線を落とすと、瑛士は静かに背を向けた。
「シャワー、使っていい。タオルは棚にある。」
「……はい。」
その背中に向かって、言葉をかけたかった。
けれど、何も言えなかった。
彼の足音が遠ざかるたびに、距離ができていくようで――胸が締めつけられた。
***
シャワーを浴びながら、莉緒は何度も頭を振った。
(何もなかった……それでいい。うん……それでいいのに……)
滴る水の音が、やけに静かに響く。
湯気の向こうで、瑛士の微笑みが焼き付いて離れない。
***
数時間後、彼女は社長の部屋を出た。
鍵は「一階の大家に渡して」と言われていた。
最後に顔を合わせたとき、彼はもう“社長”の顔に戻っていた。
「ありがとうございました……ご迷惑を……」
「構わない。無事に帰れ。」
短く、それだけ。
その冷たい口調に、少しだけ胸がチクっとした。
***
それから数週間――。
春が訪れ、オフィスの窓から柔らかな陽が差し込む。
新入社員が挨拶に回り、どこか新しい空気が流れ始めた。
莉緒はデスクに向かいながら、胸の奥の違和感を抱えていた。
(……おかしい。もう来てもいい頃なのに……)
普段なら、規則正しくやってくるはずの“あの日”が来ない。
最初は仕事の疲れかと思った。
けれど、日に日に身体がだるく、眠気が増す。
食欲もおかしい。好きだったお米の匂いに、なぜか吐き気がした。
(まさか……そんな……)
心臓が音を立てて跳ねる。
思い当たることなんて――ただ一度だけ。
あの夜。
社長の部屋。
“何もなかった”と言われたけど、記憶は曖昧だ。
(違う……そんなはずない……!)
震える指先で、スマホのカレンダーを開く。
日にちを数えるたび、現実が迫ってくる。
怖かった。
信じたくなかった。
でも、確かめなきゃ――。
***
仕事帰り。
街のドラッグストアの前に立つ。
白い明かりの下、棚に並ぶ小さな箱。
「妊娠検査薬」。
その文字を見た瞬間、足が動かなくなった。
(どうしよう……これ、買ったら……認めることになる……)
けれど、逃げることもできない。
もう、自分の体が何かを伝えようとしている。
深呼吸をして、一歩踏み出す。
レジで箱を差し出すとき、指が震えていた。
誰も自分を見ていないのに、周りの視線が突き刺さるようで――息が苦しかった。
***
夜。
部屋の明かりを落とし、カーテンを閉める。
テーブルの上には、白い箱。
心臓が喉の奥まで上がってくる。
(……お願い……違ってて……)
震える手で箱を開ける。
無音の中、時だけが進む。
数分後。
スティックに浮かんだ“その線”を見た瞬間、
莉緒の目から、静かに涙がこぼれた。
***
どうして、こんなことに。
あの夜の社長の表情が、脳裏に焼き付いて離れない。
冷たくも、優しくも見えたあの瞳。
彼の声、彼の匂い。
そして今、胸の奥で微かに感じる“何か”の鼓動。
(どうしたらいいの……私……)
莉緒は顔を覆い、嗚咽をこらえた。
外では、春の雨が静かに降っていた。
【次回第3話】
「陽性」――揺らぐ鼓動と、決意の朝
突然の“命”を前に、莉緒が下した決意。
そして、冷徹な社長・篠崎瑛士が見せる、思いもよらない表情。
運命の歯車が静かに回り始める――。
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