第一話 ブースト要らずのスタートダッシュ -6-

 間近で見ると大きさに驚くのと同様に、鴉という鳥の脚は、無骨で鋭い。

 猛禽には及ばないものの、黒曜石の如き黒一色の爪には別種の凶暴さがあり、また実に器用に動く。

 目一杯に広がった指に押さえ付けられた魂、スーパーのビニール袋を膨らませたような形状のそれが、やがてじわじわと萎んでいき、ある程度まで縮んだところで、ふっ、と消える。

 終わったよと告げるカーラに、西園寺は感嘆と好奇心とを遠慮なく前面に出した声で言った。


「それが、生き返らせるという事か」

「そう、うちの事務所の、たったひとつの仕事」


 話している西園寺でもなく、たった今消滅した魂のあった足元でもなく、ただ前をぼんやり見てカーラは言う。

 その瞳は、またも薄曇りの空。

 浮き沈みが激しいというよりは、彼と出会ってから度々訪れる浮いている状態こそが、むしろこのカラスにとっては例外なのであろう。


「冥府の手違いで死んじまった人間の魂を、こうやって元に戻す。正しく死んだ魂、死ぬべきじゃない魂ってのは、あんたにゃまだ見分けが付かないけど……」

「素晴らしい仕事ではないか! 間違いを正す、その崇高なる役割を与えられているとは!」


 心からの賞賛を送る西園寺に、カーラが吐き捨てた。


「素晴らしいもんかい。死神が魂を狩れず、戻すしかできない屈辱なんて、元人間のあんたには分からないだろうね。直接表現できない感覚を表現する時、あんたらは比喩を使うんだろう。命を救いたくて医者になったのに、安楽死しかさせてもらえない医者。しかもこっちは、それよりもっとひどい」


 存在の否定さ、とカーラは言い、元々否定されてるようなもんだけどね、と、すぐに付け足す。

 西園寺は腕組みをして、そんなカーラを見つめていた。

 何かの為に作られて生まれてくる訳ではない人間の彼には、確かにカーラの感覚は理解できないものだ。医者の例えでおぼろげに理解できた気にはなれても、真に実感として捉える事は不可能である。

 それこそが、種族の違いというもの。


 が、だから何だというのだろうか。

 人間同士だろうと、実感できない感覚など星の数ほど存在する。

 そして何より、彼に実感できない感覚は存在しない。正しくは、あらゆる感覚を自分の感覚に当て嵌めて、そのまま理解した事にしてしまう。

 それこそが、信念。西園寺貴彦という、人外の人間の根幹にあるものだった。


 早い話が、とんでもない自分勝手なのである。

 そういう事だ。


「カーラ嬢はずっと、そのような偉大な役割を一人でこなしているのかね」

「……まあね。あんたが使えるようになってくれりゃ、少しは元に戻る魂も増えるだろう。これまでよりは、時間切れでそのまま死んじまう魂も減るさ」

「時間切れだと?」


 ぽつりと漏れた呟きを、西園寺が聞き咎めた。

 あたかも人が肩を竦めるように翼を揺すって、何でもなくカーラが答える。


「だって、うちの他にやってる奴がいないんだもの。その日見付けられる範囲にいなきゃ、それまでだよ」

「一人では手が足りない仕事を、何故そのままにしておく」

「そのままで支障がないからだよ。誤解しないで欲しいんだけど、うちでやってる仕事は、成果としては一切何の意味もない。でも取り組んでいますという事実だけは、建前として作っておく必要がある。その為にうちが使われてるだけ」

「ミスを放置しておく事が、黙認されているだと……!」


 凛と張りのある声が、僅かだが震えを帯びた。

 これまで、どんなに破天荒ではあっても怒りらしい怒りは示さなかった青年が、今、確かに激情を露にしている。が、話しているうちにまた気分が暗くなってきたカーラは、あいにくまだ変化に気が付いていない。

 通常、人がこんな声を出せばすぐに怒っていると分かりそうなものだが、何せ西園寺の場合は出会ってからこの方ずっとこんな大仰な話しぶりであった為に、慣れてしまっていたのである。


 だから隣の彼を振り返る事もなく、カーラはひとり物思いにふける。

 ただでさえ死神にとっては屈辱な、生き返らせるという行為。屈辱とはいえどうしても必要とされているのなら、まだ己を慰めもできようが、全く無意味な行為とあっては虚しさに沈むのも当然だといえた。


「そもそも、どうして手が足りない程に、間違って死なせるなどという重大ミスが多発しているのだ」

「そんなもん、適当にやってるからに決まってるじゃないか。あんたは重大って言うけど、別に重大じゃないんだって、冥府にとっては。会った時に言っただろ? 人口が今どれだけいて、毎日どれだけ死んでるか云々……。これについて、冥府にゃこんな実情に沿った格言があってね。『500までは誤差』っていう――」

「許っせん!」


 間近で轟いた大声に、カーラは飛び上がった。

 見上げれば、天を睨んで拳を握る西園寺の姿が目に入る。だからそっちは冥府じゃないというのに。


「我が西園寺では、最も求められていない類の連中だ!」

「……いや、向こうも別に求められる事は望んでないと思うけど……」

「あの少年の真摯な姿勢とは正反対! 組織ぐるみでここまで腐敗した者共が、魂を取り扱うという重要な任務を任せられているとは、理解し難い!」

「……あー、まぁあんたにとっちゃ腹の立つ事なのかもしれんけどさ。でも役所ってこんなもんよ、うん。怒ったってどうにも……」

「なぁにを騒いでいるのだね?」


 厭らしい声が、ふたりの頭上から降ってきた。

 何故か慰めに回っていたカーラが、またしても飛び上がる。

 それは、嫌な奴を絵に描いたような声音だった。男の声ではあるが変に甲高く、声そのものよりも、喋り方に歪んだ内面がそのまま現れている。ふたりを見下ろす、というよりは見下す眼差しもまた、口調に相応しいものであった。


 カラスだった。

 カーラよりも一回り身体が大きく、羽根は完全な黒である。

 他にそれらしき影がない以上、今の声はこのカラスから発せられたものだろう。

 では言葉を操るこのカラスもまた、カーラと役目を同じくする、死神の一族という事になるのか。


 円盤に留まり、薄っぺらな傲岸を剥き出しにしてくるカラスに、カーラは頭を低くする姿勢をとって応じた。


「あ……これはこれは……ウィルヘルム様……」

「なにを騒いでいるのか、と我は聞いておるのだ。餌のネズミでも見付けたか? どうせそれと変わらぬ、愚にもつかない理由に決まっておるがね」

「も、申し訳ありません、お騒がせしてしまい……すぐに立ち去りますので」

「そう願おうか。貴様らのような出来損ないが、我が管轄にいるというだけでも不愉快なのだ。このうえ鶏のように意味もなく騒いで、領内を乱すのは謹んでもらいたい」

「カーラ嬢、この汚い上に無礼な鳥類は誰だね」


 お前が無礼言うな。

 と返すのも、三度飛び上がるのも、カーラは衝撃のあまりに忘れた。

 無い筈の心臓が凍り付いたような心地になりながら、半分我を忘れてカーラが怒鳴る。


「ば、ばかっ!! なんてこと言ってんだあんたはっ!!」

「……き……汚いだと、この栄えある”新月の一族”である我、ウィルヘルムに向かって……!」

「ウィルヘルムだろうが蝿の飛んだういろうヘルメットだろうが、汚いものは汚い。見てみたまえ、手入れを怠っている上に不摂生な生活を送っているから、羽根の付け根がバサバサではないか。カーラ嬢の艶めいた黒、透き通る白とは比ぶべくもない。歯で齧ってギザギザになった爪のような見苦しさだ」

「いい加減にしろこのクソバカッ!!」


 またもや爪を立てたカラスキックが決まり、やや西園寺は仰け反った。

 着地したカーラは物凄い勢いで、ペコペコともう一羽のカラスに頭を下げまくる。

 モーター仕掛けの玩具めいた動きだった。合間にすみませんすみませんすみませんと、20回は言っただろうか。


 そんなカーラを、平然と立ち直ってきた西園寺がやんわり止めた。

 差し伸べられた手を思い切り翼で振り払い、焦りと怒りで充血した眼で睨み返す。


「あんた、この方をどちらだと思ってるんだい!」

「スズメ目カラス科ハシブトガラスのういろうヘルメットくんだろう。たった今、自ら自己紹介したのを聞いた」

「違うわー!!」

「なんなのだ……なんなのだね……古くより冥府中枢を預かってきた、由緒正しき新月の一族たる我に、このようなあってはならぬ態度を平然と取り続ける、この腐れた人間の魂は……」

「……その、少し前に噂になりました、イレギュラーです。ウィルヘルム様の処にまでは、お耳に入れるまでもないという事で、話が行っていないのかもしれませんが……」

「エリートぶる割には情報収集力に欠陥があるようだな。上に立つ者とは常に自ら世のあらゆる動きに目を配り、己と下の者達を守るよう切磋琢磨するもの。覚えておきたまえ、私は真神事務所の新人死神、西園寺死ん太郎デス彦(26)である! ニックネームは、ゼロだ!」


 びしりと突きつけられる指に、見下ろす位置にいながらカラスが慄いたように身を引いた。

 むべなるかな。この類の弱きに強い手合いは、得てして自分が攻められる事にはまるで慣れていない。


 高貴なる血に拠り掛かった、虚栄の地位。

 皮一枚を剥がした下にあるのは、実力を伴わない小心者の姿に過ぎない。


 西園寺のような、血統も地位もたまたまそこにあったオマケというだけの生まれながらの帝王を前にしては、その見せかけだけの栄光は悲しいまでに惨めで、滑稽なまでに無力であった。

 彼を相手にする場合は、そういう問題ではない面が多いのも正直確かだとしても。


「ところで君に聞きたい事がある!」

「! なっ、なんだ貴様!」

「この辺りの魂を狩ったのは君かね」

「だからおいやめなって! お気になさらないでくださいウィルヘルム様、こいつすごいバカですから……!」


 ぐいぐいズボンを引っ張ってくるカーラを無視して詰問する西園寺に、何を言っているのかという眼でカラスが答えた。


「そうだが? この一帯は我の管轄にある。もっとも我らが広大な支配域のほんの一部、どうでもよい塵のような街に過ぎないがねぇ」

「では、先程の間違って狩られた魂も君がやったのだな。カーラ嬢が間に合ったから良いものの、そうでなければあのご老人は死んでいた。よって私は君に、己が怠慢への海よりも深き反省と、今後の職務姿勢に関する絶対の改善を要求する!」

「――はっ! 臭い人間如きが何を言い出すかと思えば。反省だと? 改善だと? なぜ我がそのような事をせねばならない! 反省も改善も必要なのは貴様自身だと自覚をしろよ? 身の程を弁えぬ態度、必ずやウギャブッ!!?」


 皆まで言う事は叶わなかった。

 バレリーナのように高々と跳ね上がった西園寺の脚が、カラスの頭部に横面から入る。

 潰れた悲鳴を一声あげるや、円盤は消え、カラスはひゅるひゅると錐揉み状に地面へと落ちていった。

 動物虐待。真っ白になったカーラの頭に、思わずそんな単語が浮かぶ。


「無能なる愚か者が、落下の風で頭を冷やすがいい」

「いや……おい……待ちなって、なんであんた蹴れるの……」


 次いで西園寺がしでかした事の意味に気付き、カーラは愕然となった。


 どうして、蹴れる。


 新たな名を得たとはいえ、まだ正式な申請手続きは行われておらず、認可がおりるまでは彼は死神でも何でもない、単なる人間の魂に過ぎないのである。

 それが死神を蹴り飛ばすだなどと、ありえないのだ。


 と、ここでカーラは我に返る。

 そう、今考えるべきは西園寺がしでかした事の意味ではなかった。しでかした事の、その結果の方である。


「やっべえええええ!!!!」


 濃い青は黒に近くなる、というが。

 黒い顔を真っ青にしながら、疑問の追求も何もかも放り出し、カーラは落ちた鴉を目指して急降下していった。


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