第2章 修復室の微かな剥落

午前九時。

アルノ川の光が白く跳ねる。

その粒が石畳を渡ってウフィツィ美術館の壁を照らす。

観光客の靴音が外の空気を震わせるたび、

古い街の肺がゆっくりと息をするのがわかる。


けれど、修復室の中は別の時間が流れている。

音がない。

匂いだけが、ここでは生きている。

絵具、木、アルコール、古いニス。

それらが重なって、沈黙の層を作っていた。


わたし――ピッコロは、

天窓の桟に止まり、

その沈黙の上をそっと滑る光を見つめていた。

光は生きている。

まるで誰かの呼吸のように、

筆先に合わせてわずかに揺れていた。


下ではキアーラが、白衣の袖をまくっていた。

袖口の皮膚には絵具の細い筋がいくつも残っている。

それはまるで、

色たちが彼女の中に戻りたがっているようだった。


彼女は光の角度を測り、

微細な筆でパネル画にアルコールをのせる。

その手つきは祈りのように静かで、

指先が動くたび、

絵の中の時間がわずかに緩む。


「……ここだわ。」

キアーラの声は、誰かに話しかけるような響きをしていた。


絵は16世紀の婚礼箱の蓋。

中央には、赤い六つの玉――メディチ家の紋章。

だが、光の角度を変えた瞬間、

ひとつの玉の下から青が眠りを破った。


ほんの一点の剥落。

それはため息ほどの小さな傷だった。

けれど、その中に潜む青は、

海底のように冷たく光を返した。


キアーラの瞳にその光が宿る。

彼女の息が止まった。

時間までもが、筆の先で固まる。


「やっぱり……誰かが塗り替えてる。」

声が震えていた。

「しかも、最近よ。顔料の粒が新しい。」


隣にいた古文書係の老紳士がメガネを上げる。

「最近? 馬鹿な。そんな記録はどこにもない。」

「でも見て。合成樹脂の反応が出てる。

 ルネサンスの時代にはありえないの。」

「誰が、そんなことを?」

「……“誰かが隠した”か、“誰かが示した”のね。」


わたしは瓦の隙間から覗き込みながら考える。

もし六つの玉が街の記憶なら、

その中の青は“過去”がこぼした雫なのかもしれない。


光が再び反射し、梁に青い影が映る。

そこに、文字の影が浮かび上がった。


《Mutatio》

――変化。置き換え。赦し。


キアーラが顔を上げる。

「……mutatio。」

老紳士が低く答える。

「修道士のラテン語だ。

 “神の業の変換”、あるいは“赦し”を意味する。」


「色の赦し……。」

彼女はその言葉を口の中で転がす。

「青を赤に戻すことが、赦し……?」


その瞬間、わたしの羽毛が微かに立った。

昨夜、影の男が言っていた。

『色は借りものだ。いずれ返す。』

あの言葉が、ここでも静かに響いていた。


キアーラは絵を裏返し、縁を指でなぞる。

木がわずかに浮いている。

「……中に何かあるわ。」

老紳士が渋い顔をする。

「まさか、開ける気かね。」

「確認だけです。」


彼女は薄いナイフを縁に差し入れる。

きゅ、と小さな音。

その音に、わたしの記憶が呼び覚まされた。

昨夜の工房の扉の蝶番と、同じ音だった。

同じ響き――街が覚えている音。


木の蓋がゆっくりと開く。

そこには、小さな封筒が眠っていた。

封蝋は赤ではなく、くすんだ青。

そして、その上に印――六つの玉。


「……まさか。」

キアーラが息をのむ。

「これは本物よ。メディチの封蝋。」

老紳士が手袋をはめ、慎重に取り上げる。

裏には、かすれた文字。


《A restituire quando il colore sarà perduto》

――「色が失われたとき、ただ返す。」


静寂。

アルノのざわめきも、外の喧騒も遠くなる。

その一文が、部屋の空気を変えた。

空気が重くなる。

まるで、過去が部屋に戻ってきたように。


キアーラが囁く。

「……“返す”。やっぱり、この街のどこかに返す先がある。」


わたしは天窓から差し込む光を見上げた。

アルノの風が屋根を渡り、

古い瓦の一枚が小さく鳴く。

――きゅっ。

それは昨夜と同じ音。


音は道しるべ。

わたしは翼を広げる。

青はまだ街のどこかに潜んでいる。

返されるのを待ちながら。


そして、風の中で思う。

人は色を“返す”ことで、

もしかしたら時間までも、赦そうとしているのかもしれない。

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