第20話 春の風

 3月31日から4月1日の様変わりは毎年ある事だが、今年ほどの変化は今までに経験がない。4月1日、僕が朝出勤すると、昨日まで図書館の事務室で一緒に仕事をしていた人は誰一人いなくなってしまい、既にライブネットの責任者の近藤さんと社員の島津さんの席になっていた。

 僕は、室名サインが図書館課から図書館管理課に変わっているのを確認してから事務室に入り、近藤さんや島津さんの元気の良い挨拶の声を聞くと、昨日の晩に行われた最後の挨拶で、吉岡さんが泣きながら話していた余韻も無くなってしまった。


 新任の加藤館長は、朝から新規採用職員辞令交付式や新年度の三船町長の挨拶に出席しているので、午後から顔を合わせることになっていた。そこで、新たに生涯学習部の部長になった吉田部長と統括主任に昇任した僕との3人で打ち合わせすることになっていた。


 今日から、鳴滝町が発注した図書館委託業務を請け負うライブネットとの契約内容により、開館時間は午前9時から午後8時までと30分延長された。しかし、鳴滝町の職員である僕と加藤館長は、通常の鳴滝町の職員と同じ午前8時30分から午後5時までの勤務となり、朝番、遅番といったものは無くなった。


 午前中、図書館を回っていると、働いているスタッフは若い人が多くなり、正直依然と比べると活気を感じた。だが、たまに馬場さんや浅田さんを見かけると、やはりほっとしてしまう。図書館の利用者を見ていると、なんとなく僕と同じように感じている人が多いような気がして、僕を見かけると知り合いの老人は、安心したように笑顔を向けてきた。


 僕はもう、休憩時間でもカウンターに入ることがなくなり、ライブネットの方でシフトの管理から全てやってくれる。業務責任者の近藤さんも、責任者としては今回が初めてらしいが、今まで10年以上いろいろな図書館で経験してきているので、利用者への対応にも慣れたものだ。受託会社のスタッフの人たちも、皆丁寧で仕事慣れした様子で、僕は加藤館長が話していた任せられるところは任せちゃえばいい、というのも少し理解できる気がした。


 僕は、今までのように雑務に追われる事はなくなり、司書としての図書資料の案内や、質問に対する受け答えをするレファレンス業務をし、加藤館長が不在の時は、統括主任として図書館の管理を代行するのがおおまかな役割となっている。

 図書館管理課と受託会社ライブネットの図書館業務の線引きは、契約書の仕様書内容に基づいているが、業務というのは多岐に渡っている為、細かい部分まで最初から決めるのは困難だ。しばらくは、カウンター業務を中心とした開架エリアの本を並べる作業などの表の部分はライブネットに任せて、他の部分は様子を見ながら随時話し合いで決めていくことになっていた。


 僕が、図書館を回り事務室へ戻ってくると、近藤さんと馬場さんが何やら話をしていた。僕がポットのお湯をコップに注いでお茶を飲んでいると、馬場さんは語気を強め始めた。もうライブネット内の事なので、ここで関与するとややこしい事になる。

 僕は、馬場さんの視線を感じながらも、素知らぬ様子で事務室を出て閉架書庫に入っていった。問題が発生した時には、責任者の近藤さんから相談を受けて対応する形にしていかなければいけない。僕はこの時、田中副館長が居酒屋で言っていた「もめ事の元だから古株は残したくない」の意味が良く分かった気がした。


 そして、僕は閉架書庫で、頼まれていた本数冊を袋に入れると、小中学校や公民館を回る為に図書館を出た。各地の図書室の管理は、図書館管理課の方でやる事になっている。

 僕は、今までと変わらずに各地を車で回っていると、ようやくほっとしたような気持ちになった。そして、車を運転しながら、一昨日京子の自宅で、間野さんと話したことを思い浮かべていた。


「長い間お疲れ様でした」

「ありがとう、修ちゃんから早速釣りに誘われてるよ」

「気が早いですね。田中さんは」

「あいつは、元々せっかちだからね。ああ、それで新しく館長になった加藤君の事だけどさ」

「あ……っ、はい」

 加藤館長の名前が出ると、僕は思わず身構えた。

「そんなに真剣な顔にならなくてもいいよ。まあ、分からんでもないけどな」

 間野さんはそう言って微笑むと、お茶の入ったコップを持って一口飲んだ。

「彼は言葉が強いから誤解されやすいけど、根は悪い奴じゃないんだ。それに、そこまで頭も固くないから、説明して納得すれば考えも変わると思う」

「そうですか」

「昨日ちょっと彼と話したけど、しっかり君と話をするって言ってたよ」

「ありがとうございます」

「それと……、ここだけの話だけど、彼は今、母親の介護で大変でさ。奥さんも心労で良くなくてね。だから、何とか彼と上手くやって手助けしてあげて欲しいんだ」

「そうだったんですか」

「まあ、私に何か出来る事あったら相談してくれていいよ、力になるから。俺にとっては君の事が大事だからね。京子に怒られちゃうしな」

 間野さんが小声でそう言うと、丁度京子がリビングに入ってきた。

「今、何か私の名前が聞こえた気がするけど……、何?」

「いや、なんにも言ってないよ」

 僕がそう言って、間野さんと二人で不自然な笑顔を作っているのを京子は不思議そうに見ていた。


 ……そして、僕の運転する車が大村公民館に着くと、田中さんが花壇に水をやっているところだった。

「田中さん」

 僕は車を降りて声をかけた。

「おお、長谷川君。いや、長谷川統括主任様か」

 彼は茶化すようにそう言うと、嬉しそうに手を上げた。

「やめてくださいよ」

「あはは」

「どうですか? 大村公民館は」

「まだ今日からだからね。あ……っ、そういや、さっき吉岡さん来てたよ」

「えっ、そうですか」

「うん、ビシッとスーツ来て、これから東京行くって」

「へえ……」

「もう、キャリアウーマンだね」

「本当ですね。じゃあ、ちょっと図書室に行ってきます」

「まぁ、これからは、ここで毎日顔合わすんだろうね」

「ええ、そうですね。あっ、これどうぞ」

 そう言って、僕はミルクティーの缶飲料を取り出した。

「おお、ありがとう。しかも僕の好きなメーカーまで分かってるなんて流石だね。ここの周辺にこれ売ってる自販機ないんだよ」

 嬉しそうに田中さんは受け取った。


 そして、大村公民館の図書室で頼まれていた本を渡し終えて神田館長に挨拶を済ますと、鳴滝町立図書館に向けて車を走らせた。


 僕は、鳴滝町の図書館職員になってから、いろいろな人と出会い助けられてきた。これからも、おそらくたくさんの出会いがあると思う。

 僕はこの時、開いた窓から入ってくる暖かい春の風を感じながら、前向きな気持ちで頑張っていこうと思った。

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