洗車中毒者の日常
マレ
第1話 洗車中毒者の日常
趣味とはいえ午前中から始めた洗車と下準備は、気がつけば数時間もの時間を要していた。
最後の仕上げとして、ガレージに収められた愛車を洗車のための専用照明の下でボディの仕上がりを静かに確認する。斜めから角度を変えながら、微細な下地剤の拭き残しや拭き取りのムラがないかを徹底的に探す。
ふと顔を上げると時計の針は夕方を指しガレージの外はすでに夕闇が忍び寄る時間帯となっていた。
この時間の流れ方がいつの間にか心地よくなっている。
一度リビングに戻り一息つくと昼食を取らずに進めたことによる空腹に気がつく。いつも朝食用に置いてあるパンと冷蔵庫から牛乳を出しとりあえずの空腹を満たす。ガレージに戻ると冷えた空気と照明に照らされ静かに佇む準備の整った白のレクサス NX200t F SPORTのボディが彼を待っていた。
その光景を眺め、口元が緩むのを自覚し自分のことを鼻で笑う。いつの間にか彼は天然ワックスを塗るための時間こそが、至福の時になっていることに。
お気に入りの容器を一つ手に取り、蓋を開ける。無造作に鼻を近づけ匂い嗅ぎ、パッションフルーツを思わせる甘い香りを楽しむ。この香りが、彼にとっての儀式の始まりの合図だ。
そしてその天然ワックスを指先に取り容器は台に戻し、手のひらでバターのように溶かしていく。天然由来の粒子が、彼の体温でゆっくりと、しかし確実に透明なオイルへと変わっていく感触。
しっかり溶け切ったことを確認しそれをボディへと無心で滑らせていく。
天然ワックスが塗料の上を走る、摩擦の少ない、あの独特な感触。
天然ワックスがどの程度伸びているかを見た目だけでなく手触りからも確認しながら進めていく。
求める仕上がりのために、丁寧に、薄く、均一に塗り広げていかなければならない。
塗っていくうちに段々と無心になっていき、ひたすら車と向き合い塗り広げていく。 ガレージには静かな空気と時折天然ワックスの容器を置くかすかな音だけが響く。
思考は止まり、ただ手のひらの感覚だけが研ぎ澄まされていく。
ふと、簡単なコーティング剤を使っていた頃のことを思い出す。 ただ綺麗になればいい。効率だけを求め、車と向き合うことなどなかった、あの頃だ。
そこから一歩踏み出し、この天然ワックスの世界を知った。
「――あの頃は、」
そう、あの頃は今のように深く考えることもなく、ただ夢中で手を動かしていた。 この艶の深さに魅了され、ただ塗り広げていただけだった。
だが、それで終わりではなかった。 本当にこの製品が最良なのかと、その後も気になった他のコーティング剤も一通り試した。
そして今、様々な製品を経験した上で、またこのニッチな世界へと帰ってきたのだ。
でも、だからこそ思う。
トレンドの中にない自分の世界がある。皆が使っているからではなく、自分はこれが良いと感じる。それでいい、それがいい。
そんな過去を思い出していると、塗布はいつの間にか終わっていた。
彼は一度手を止め、塗り終えたボディを静かに見つめる。天然ワックスが水分を失い、曇りガラスのように白く薄く変化し細かな鱗模様が出来上がっていく。
拭き取りの前に、彼は容器や不要な物を片付け、ふき取りのためのクロスを用意をする。ガレージは再び静謐な作業空間へと整えられた。
これから始まる拭き取りは、塗布と同じくらい、あるいはそれ以上に集中を要する作業だ。塗り込んだ天然ワックスの余剰分を綺麗に拭き残しが無いよう、ゆっくり確実に取り除いていく。
彼の心は、これから現れる「真の輝き」を妄想し、口元は緩んでいるが、そのことに気が付いてはいない。
彼が口元が緩んでいることに気が付きもせず天然ワックスの拭き取りを終えた。
拭き取りが終わり、乾燥を待つボディからは、天然ワックス特有の艶を放っている。その官能的な質感を確認したくて、思わず手を伸ばす。
今触っては今日一日の時間が無駄になることに気が付き、その伸ばした手を止め目をそらす。視線の先には使い終わった大量のクロスの入ったカゴがあった。一度止まった視線を何事もなかったようにもう一度車に戻すのであった。
そう、ここからは洗車ではなく家事になる光景を無かったことにするかのように。
目の前には照明の光を丸ごと受け止め、温かく深い光沢を放つ白いボディがある。
今日の成果を十二分に堪能し、やる事のなくなった彼は、大量のクロスと共にガレージの照明を消し、静かにその場を後にした。
外の夜の闇が、彼の背中を包み込む。
残されたのは、暗闇の中で微かに存在を主張する、天然ワックスにより塗装を優しく、そしてしっかりと保護された愛車と、かすかに残るワックスの甘い香りだけだった。
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