代償

萌千兎さら

01. すれ違う - 紬


予備校の帰り道、駅前で白いTシャツ姿の玲衣れいが手を振った。

その瞬間、俺は嬉しくて自然と笑顔になる。


「大学の授業、休講になったからさ」

玲衣が眩しそうに頭に手をかざしながら言う。


夏の日。

その光の中では、何もかもが少しだけ遠く見えた。

眩しいほどの日差しが街路樹の上に降り、アスファルトの上の二人分の影を揺らす。



「勉強どう?」

「うん、なんとか」


「…玲衣は、大学楽しい?」

「うん、まあまあかな」


ほんの少しだけ横目で玲衣を見る。

日に焼けた腕が、白いTシャツに映えている。


玲衣は俺の視線に気づくと、目を細めて微笑む。


夏の西陽が、少しずつ橙色に傾いていく。


帰る場所は、6畳一間のボロアパート。

俺たちの家。


――


家に帰ってからも、夕食までは勉強だ。

勉強机なんてないから、座卓にテキストを広げる。

無理をして夏期講習の費用を家計から捻出しているから、来年の公務員試験は絶対に落とせない。


台所から、鍋が沸騰する音と食器の触れ合う音がする。


つむぎ、ほら、喜べ!今夜も素麺だぞ」

俺はふっと笑う。


「もう飽きましたよ?」


玲衣の冗談めかした物言いに、自然とつられてしまう。


正直、暮らしは大変だ。

二人でアルバイトを頑張っても、家賃と光熱費を払うと僅かなお金しか残らない。


近所のスーパーの割引シールが貼られる時間を覚えた。

久しく自販機で飲み物なんて、買っていない。

ゆっくり湯船に浸かるなんて、もったいなくてできない。


それでも、毎日が楽しい。




ちゃぶ台の上の、氷の溶けかけた麦茶。

小さく響く、テレビの音。


食べ終えたあとのひとときが妙に好きだった。


玲衣の隣でテレビドラマを見る。スマホは通信量を使うから、暇つぶしにはテレビが一番だ。


恋愛ドラマ。

上京した大学生の主人公と、音楽を志す青年が運命的な出会いをする話。二人の仲は順調だったのに、幼馴染も主人公のことが好きみたいで……。


こういうドラマは誰かと見るのは少し気恥ずかしい。

でも玲衣は気に入っているのか、この時間になるといつもチャンネルを合わせる。


横目で玲衣の顔を見る。

そのくせ、表情を変えず、つまらなそうな顔をして観てる。


ちゃんと観てるのかな。

CMに入ると、玲衣にドラマの話題をふってみる。


「主人公、やっぱり運命の人の方を選ぶのかな」


「うん。

でも、俺だったら幼馴染を取るけどな」


玲衣の声は淡々としていて、どこか遠かった。

テレビの光が頬を照らし、思考の中に沈むような。


「いつも近くに居て、一番あの子のこと分かってるじゃん?」


「……ちゃんと観てたんだ」

ぼそりと呟く。


「俺はずっと迷って、どっちも決められなさそう」


「ふーん」


玲衣は、気のない声で返す。


そのまま画面に視線を戻すけれど、空気にどこか棘を感じる……。


少し気まずくて、玲衣に笑ってみせる。

「玲衣も、大学でこういう恋愛するかもよ?」


玲衣の指が、リモコンのボタンの上で止まる。

無言のまま、ただ画面を見つめている。


「あれ……」

なんか、空気の読めないことを言ってしまっただろうか。

不安になって、玲衣の顔を覗き込もうとする。


「ほら、続きはじまるから」

玲衣は俺を手で制止するとまた画面の方へ向き直る。


どうしたんだろう。



ドラマが終わっても、玲衣の機嫌は戻らなかった。

リモコンを置く音がやけに大きく響く。


「……俺、風呂入ってくる」


短く言い残して立ち上がると、玲衣は部屋を出ていった。

襖が閉まる音のあと、静寂だけが残る。


紬は畳の上にひとり取り残された。

玲衣が出て行った襖に、ぼんやりと視線を向ける。


左手の甲を、指先でなぞる。

あの卒業式の日――

玲衣が突然、指を絡めた手。

それがどういう意味を持つのか、なんとなく察した。


驚きながらも、あのとき俺は……その手にもう片方の手を添えた。

玲衣はすぐに引っ込めたけど。

その瞬間、どこかでほっとしたのを覚えている。


シャワーの音が、遠くの方で流れ始める。

蛇口の金属音と、流れる湯が床を打つ音。


さっきは、玲衣に素敵な恋をしてほしいと思った。

大学であのドラマみたいに、誰かと優しい恋を。


でも……それって、自分のためにそう思ったのかも。


脳裏にあの光景が蘇る。

自分の上で息をする優一郎の支配的な目、歪んだ口元。

知らない男たちの下卑た笑い。

そして何よりも許せないのは――あのとき、ただ従順に受け入れてみせた自分の姿。


膝を抱える手をぎゅっと結ぶ。


自分は汚れてる。

だから、もし玲衣が男の人を好きなら、玲衣のためだったら喜んで体だって差し出せるはず。

なのに……それが目の前に迫ると…やっぱり怖い。


愛されるって、どういうことなんだろう。

優しくされるたびに、どこかで怖くなる。

欲しいのに、逃げたくなる。


風呂場のドアが開く音で、意識が「今」に戻る。

玲衣の音を聞くのに集中する。

ようやく足音がして、玲衣の気配が部屋に戻ってくる。


「……暑っ」

玲衣の視線が背中に刺さっている気がする。


「紬?」

「何だよ、拗ねてんの?」


玲衣がしゃがみ込んで、俯いた俺の顔に視線を合わせてくる。

石けんの香りが立ち上がり、熱を帯びた肌の温度が頬に伝わる。


「ごめん、なんか俺、雰囲気悪かったよな」


俺は俯いたまま首を振る。


「ごめんって。俺が悪かった」 


謝るのは自分の方なのに。

玲衣の優しさをどう受け取ればいいか、分からない。

臆病な自分には、返せるものが何もないから。


俺は、玲衣の言葉にただ頷いて謝罪を受け入れるだけで、……不器用な自分が、嫌になる。


玲衣は俺の肩を優しく叩くと、何も言わず俺のとなりに腰を下ろした。


嫌われたくない。


沈黙が、ただ俺を見守っている。


「……玲衣、俺にして欲しいこと、ある?」

膝を抱える手の力をそっと緩める。


視線だけ、見上げるように玲衣に向けた。

玲衣の頬が赤いのは、風呂上がりのせいなのか、それとも別の理由なのか分からない。


「何でも……するから」


玲衣は揺れる瞳で、真っ直ぐに俺を見る。

何を思ったんだろう。

次の瞬間、ぎゅっと、強く抱きしめられた。


その温もりに、息が詰まる。

苦しいのに、なぜか安心する。


玲衣はすぐに体を離すと、いつもの顔で小さく笑った。

「俺、紬と暮らせて充分楽しいからさ。別に、「何でも」しなくていい」


「よく分からないけど、ひとりで思い詰めるなよ?」

そう言いながら、玲衣は立ち上がると、ちゃぶ台の上にそのままになっていた食器を重ねていく。


「……あ。食べ終わったら、食器、ちゃんと下げろよな?」


思わず顔が熱くなる。


「ご、ごめん」

「明日は、俺が作るから…」


俺は立ち上がり、玲衣の後を追う。


二人分の影が、蛍光灯の光の中でゆっくり重なった。

でも完全には重ならない。

歪だけど、それが少しだけ心地いいのは何故だろう。

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