其の十一 通夜・葬儀

 通夜の日の朝は、静かだった。


 冬の冷たい空気が、まだ薄暗い曇天の下で凪いでいる。鳥の声すらしない。まるで、この家の周囲が息を潜め大叔父の喪に服しているように感じた。


 親族は皆、「正喪服せいもふく」と呼ばれる正式な和装を着る。この地方では、男女問わず通夜・葬儀は和装と決まっている。

 正喪服せいもふくは、染め抜き五つ紋の黒無地。アクセサリーは本来つけないのが正式だが、当地には例外がある。男性は黒瑪瑙くろめのうの丸玉の念珠、女性は帯留め。どちらかを必ず身につける。

 

 理由は――「魔除けになるから」である。

 

 命が去る場には、死者の気配とともに、得体の知れない何かが寄り添う。古くから、この土地の者はそう信じてきた。

 

 だから黒瑪瑙は、装いではなく「防ぐための道具」に近い。

 

 私は箱から帯留めを取り出し、掌でひとつ撫でた。

 ひんやりとした石の肌が、胸の奥の緊張を静かに吸い取るようだった。

 

 ――大叔父の通夜に向かうのだという実感が、ようやく形を帯びて胸へ沈んでいった。

 

 正喪服に袖を通し、鏡の前で小さく息を吐いた。

 懐剣役で夜通し緊張していて強張っていた筋肉はまだ完全には緩んでいない。肩や腕に残る痛みと痺れが、あの夜が夢ではなかったと告げていた。


 袖口の奥で、機械式の時計がかすかに音を刻んでいる。


 ――大叔父の時計。


 文字盤を親指で撫でると、金属の冷たさの向こうに微かな体温の記憶が蘇った。


「好きなことをしなさい。戻ろうとしなくていい」


 そう言った声が、耳の奥で響いた。

 葬儀が終わり荼毘だびに伏して了えば大叔父さんを名前で呼んではいけなくなる。


 葬儀が終わるまでは『此方側』、葬儀が終われば『彼方側』


 葬儀が境界線なのだ。


---


 階下に降りると、居間には親族が揃い、香の香りが濃く漂っていた。数人が私に視線を向けたが、誰も何も言わない。


 昨夜のことを誰も尋ねなかったのは、暗黙の了解なのだろう。


 まあ、語ったところで理解されるものではない。


 私は疲れと緊張からくる幻聴だと思っている。


 そういう種類の出来事なのだ。


---


 棺の前に座ると、花の向こうで眠るように横たわる大叔父の顔が見えた。穏やかで、とても静かだった。


 生きていた頃より少しだけ遠い場所にいる。


 その距離が、私にはどうしようもなく寂しかった。


 私は手を合わせ、目を閉じる。


  ――その瞬間、左手首に微かな振動。

 時計が、鼓動のように時を刻んだ。

 

 形見になってしまったのだと改めて思うと目に涙の膜が、張り視界がぼやけた。


---


 通夜・葬儀の間、何度かふと視線を感じた。背筋をなぞるような気配。


 振り返っても、誰もいない。

 障子の向こうには何もない。


 だが確かに感じる。


 この家には今、生者以外のものが混ざっていると考えてしまうくらい神経質になっていた。


---


 次の日、葬儀も滞りなく終わり車で火葬場へ向かうとき祖母が私の隣に座りぽつりと言った。


「……まだ懐剣は返さなくていい」


 私は驚いて祖母を見た。


「役目は終わったはずでは?」


 祖母は首を横に振った。


「終わったのは“通夜前の”役目。あんた、役目に就いた時なんか見たでしょ?」


 その声音には揺らぎがなかった。

 顔を見たまま何も言えず、言葉の意味を飲み込む前に祖母は続けた。


「そうだろうと思った……あの部屋開けた時の顔見てわかった。壁叩く音だけとちがう、部屋に入ってきたんでしょうよ」


 喉がひりついた。


「……なんで、わかるん?」


 問いは震えた声になった。

 祖母は私をまっすぐ見て、小さく頷いた。


「アタシも四十年前同じ経験したさかいな……でもお刀さんがあれば大丈夫。四十九日すぎるまでは持っとき」


「え、私大学あるから戻るよ?刀持って街に帰る感じ?」


「うん。刀持ち帰れ。四十九日法要に返したらいいから」


 私に何があると言うのだろう。


---


 火葬炉の扉が閉まる瞬間、時計がまたカチカチと刻を刻む感覚が強く伝わる。


 さよなら、茂大叔父さん。


 おやすみなさい……。


---

 

 葬儀が終わり、親族がひとり、またひとりと帰路についた。家族も枕飾りを仏間に終わらせて各々身体を休めている。

 

 ――刀を持ち帰れ。

 

 その言葉が、ずしりと胸に沈んだ。


 廊下の床板がゆっくり――きしり……と鳴る。私は息を呑み、視線を向けた。


 何もいない。

 

 だが確かに、“誰かが居た”気配だけが残っている気がした。

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