第3話―8

「いや⋯⋯ほら、誰かスマホ落としてたりするかもだし⋯⋯」


 凛子りんこは震えた声でそう強がるが、まどかはそれはないだろうなと心の中で否定する。この身に覚えのある空気感、鳴り響くベル、とてもじゃないがそのようなありふれたことだとは思えない。そんなもの持ち合わせてはいないが、円の妖怪アンテナ的なのがビンビンに反応していた。


「えっ?スマホ?なんのこと?」弥幸みゆきが困惑した反応を返す。「大丈夫?みんな、スマホ持ってる?」


 決まりだ。この電話のベルはこの世のものではない。霊(無)能力を持つ弥幸が感知できないということは、つまりそういうことだ。


「⋯⋯だって、ほら、電話のベルが鳴ってるじゃないですか⋯⋯え?ウソ?私だけ?」そう言って凛子は全員の顔色をうかがう。


「いえ、聞こえますよ。電話のベル」省吾しょうごが率直に答えた。


「えー、ホントにー?」弥幸が声を上げる。「また僕だけ見えないパターン?ていうか音すら聞こえないって⋯⋯そんなぁ」


 とかなんとか言いながら、弥幸の目は好奇心でキラキラと輝いていた。おそらくすぐにでも現場へ赴きたいのだろう。円も同じ気持ちだった。ギャル待ちの時間がもどかしい。念願の心霊現象がすぐそこにあるのだ。本当ならすぐにでも駆け出したいところだった。


「そ、それじゃあ、行って、みましょーかー」凛子は弥幸の気持ちを忖度したのだろうか、震える声でこう言った。


(おお、マジか!)円は凛子の言葉を聞いて、初めて彼女を高く評価した。好きでもない、どころか苦手なオカルトに無理に付き合っただけでなく、この状況でそれを言えるだなんて、生半可な気持ちじゃない。恋愛という円にとっては未知のジャンルではあったが、そこに懸ける想いは本物なのだと知った。


 凛子の言葉をきっかけに、一行は再び動き出した。今度は円がジンバルを構えて先頭に立った。その後ろに省吾が続き、弥幸と凛子が最後尾を行く。凛子はこの時、無意識に弥幸の腕にしがみついていたが、本人にはその自覚がなかった。実にもったいないことである。


 広場の空気も最初に来たときと違って重くよどんでいた。外灯は変わらず明るく灯っているが、気分的なものなのか、どこか暗く感じる。いや、おそらくはアレが原因だろう。その外灯のすぐそば、ポッカリと空いていたスペースにぼんやりと存在する黒く大きな塊――そう、ちょうど電話ボックスくらいの高さの⋯⋯。


 その黒い塊はこれまで2度見てきたものと同質なように円には思えた。外灯からの光を吸収し、周囲の景色に滲むように境界線がぼやけている。確実にそこに在ってはいけないものだ。ベルの音はいまやけたたましく鳴り響いている。


「ありますね」省吾はいつも通り平坦な調子で言う。


 円は自覚はしていないが、こういう時の省吾の冷静さを支えにしていた。いかな円といえど、ひとりであれば取り乱すだろう。背後に省吾がいるからこそ、こうも平静でいられるのだ。


「ホントに?ホントになんかいるの?」弥幸はキョロキョロとあたりを見回している。「ちょっと神谷さん、また映ってる?」


 言われて円はスマホの映像を確認した。たしかにそこには黒いモヤモヤが映っている。円が首を縦に振ると、弥幸はしがみついた凛子を引きずりながら、円の隣にやってきた。


 凛子はなにも見るまいとしているのか、目を固くつぶっている。それでも耳から入るあの音は無視できないだろう。かなりのストレスを感じているはずだ。


「ああ、すごいすごい」弥幸ははしゃいだ声を出し、そしてすぐに嘆く。「もう、なんだよなあ、この眼で直接見たいのになあ」


 そんな弥幸を横目に、円は急に自分の内から突き上げてくるような、やむにやまれぬ衝動を覚えていた。もっと、もっと近くで見たい、できることなら触ってみたい、と。怖い、怖い、でも行きたい気持ちを抑えきれなかった。


「あの、先輩」円は弥幸に声を掛ける。「ちょっとこれ、撮影お願いしてもいいですか?」


 円はジンバルを手渡すと、ジワジワと黒い塊に近づいていく。ゆっくり、ゆっくり、アレに意思があるのかはわからないが、なるべく警戒されないように。円は慎重に歩みを進める。


「ちょっと、大丈夫?」背後から弥幸の声が聞こえる。


 うるさい、ちょっと黙ってろ、と円は思った。いま大事なところなんだ。あと少し、あと少しで手が届くのだ。近くに来てみると、それはもう完全に電話ボックスに見えた。ガラス張りの四角いあれだ。中には緑色の電話があった。そこからジリリリリと音が続いている。なぜかドアは開いていた。円は精一杯腕を伸ばし、その手に受話器をつかもうとする。


 すると、横からにゅっと別の腕が伸びてきた。その手は受話器をつかむと、当たり前のようにそれを耳に当てる。


「もしもし、もしもし」省吾が返事をする。「どちら様ですか?もしもし、もしもし」


 そこから聞こえてくる何かしらが要領を得ないのか、しきりに首を捻っている。省吾は数回問いかけた後、諦めて受話器を置こうとした。しかし、途中でやめて、なぜかそれをもう一度持ち上げた。胸の前でその手をジッと見つめる。そして――


 不意に逆の左腕をスッと振り上げ、電話機本体に向かって、硬く握りしめた鉄槌を振り下ろした。その動作を幾度も繰り返す。音はしないが、もしそれが普通の電話機なら鈍い打撃音が聞こえただろう。


 円は唖然としてその様子を見つめていた。これは一体どういう状況なのか?まったく理解ができなかった。


「あ、取れた」最後の一撃のあと省吾はボソリとそう言った。そして受話器を放り投げると振り返り、円の背中に手を添えて、ふたり連れ立って弥幸たちのもとへ戻った。


 もう電話のベルは聞こえない。黒い塊は依然としてそこに在ったが、先程よりは存在感が薄くなっているように見えた。少なくとも、円の中の衝動はすっかり消え失せていた。


「さあ、行きましょう」省吾が珍しく自分からそう促す。全員それに同意して、弥幸の車へと引き上げた。


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