没落したお嬢様を拾った時に捨てるべき5つの感情について
U木槌
第1話
拾い物をする癖はない。落ちているものはたいてい誰かが落とした理由を持っていて、私にはその理由を引き受ける体力がない。そう思っていた。だから、あの夜に限って私が帰り道を一本ずらし、河川敷のスロープを降り、自販機の白い光の下にうずくまる人影を見つけたのは、ただの偶然だ。偶然がいちばん厄介だ。誰の責任にもできないから。
薄い春の夜気は冷蔵庫の内側みたいに乾いていて、制服のスカートの裾が膝に貼りついた。自販機に顔を寄せると、ライトの熱が睫毛を温める。ジュースの缶の列。砂糖水の色が安っぽく透ける。小銭の音。鳴らない。財布の中身は朝の食券で尽きている。私は、喉の渇きより、地面に座り込んでいる女の子の靴が片方ないことに気づいた。
彼女は、どこかで見たことのある顔だった。正確には、顔に貼られた型紙が知っているもの。まぶたの形、耳の小ささ、顎の角度。その配置を私は雑誌のページで、式典の写真で、校内の噂話の端々で何度も撫でてきた。名家の娘、あの家のご令嬢。いつも誰かと並んで笑っていた子。名前を口に出すのはいやだ。舌が甘くなる。
私は昔からお嬢様が嫌いだった。正確には、私の前にしか現れない自分勝手な像が嫌いだった。上履きの音を静かにさせるのがうまい人たち。教室の空気を自分の温度に保つ方法を生まれつき知っている人たち。あの目に私は一生選ばれない。だから、嫌いでいるのが楽だった。嫌いでいれば、顔色を読まなくて済む。嫌いという言葉の隅に、羨望と恐怖と敬語がくっついていることは、できるだけ見ないふりをして。
彼女は膝を抱えていた。裸足の足裏がアスファルトの白線に乗っている。爪はうっすらピンクに塗られて、ところどころ剥がれて、そこだけ過去形だ。髪は切り立ての観葉植物みたいに軽い。制服は私の学校のものではない。もっと高いところの布だ。
胸ポケットに刺繍された小さな紋章が、照明に反射して弱く光る。つい最近までテレビの中にいた人たちの記号。家が崩れた、という噂を私は廊下の角で拾っていた。破綻、清算、差し押さえ。形のいい言葉が人の口の中で転がるとき、意味はやわらかくなる。
「寒くないの」
口を開くと、声が落ちた。彼女は顔を上げる。目は、湖の遠いところの色。焦点は私を通り過ぎて、サッカーゴールみたいに形だけ残っている何かを見ている。
「寒いって……言っていいですか」
「言うのは自由」
「じゃあ、寒いです」
素直さというより、取扱説明書の言語だと思った。温度を渡すような会話。私はなんとなくカーディガンの袖を引っ張って、貸すふりをしてやめた。貸したあとに返してもらえない未来まで想像して、一気に疲れる。想像はいつも現実より重い。
「ここ、いつまで座ってるの」
「やめられないんです」
「何を」
「待つことを」
彼女の声は新しい靴箱みたいに空気を区切る。待つ。何を。誰を。私の舌の上で言葉がつまずく。それで思い出した。落ちているものを拾うときの、私なりの手順。五つの感情を捨てる。これは私が勝手に作ったルールだ。中学生のときに拾った子猫で学んだ。あのとき私は過剰に泣き、過剰に怒り、過剰に期待して、過剰に疲れて、最後に母に怒鳴られた。だから、私は決めたのだ。
一つ目、怒りを捨てる。世界の不公平へ噛みつきかけた歯を戻す。
二つ目、羨望を捨てる。自分の貧しさを鏡に映して相手を切るのは、刃物の使い方ではない。
三つ目、羞恥を捨てる。見知らぬ他人に手を伸ばすときにまとわりつく、みっともなさを脱ぐ。
四つ目、憐れみを捨てる。上から覗き込む目は、相手より先に自分を壊す。
五つ目、期待を捨てる。結末を予約しない。
紙袋に入れて、口をぴったり閉じる。そうすれば、少なくとも手は空く。両手が空いていれば、人の肩くらいは支えられる。理屈の上では。
「家、どこ」
私は訊いた。訊いた瞬間、自分の声が少し優しすぎたことに気づいて、舌の裏を噛んだ。彼女はゆっくりと首を左右に振る。正確な拒否というより、情報の在処が見つからない仕草。
「……上の音がする家」
「上の音?」
「夜、天井の向こうから、器が当たる音がする家。それで、やっと眠れる」
変だ。けれど、変じゃないものなんて今どきどこにあるのだろう。彼女は掌の上にプラスチックのカードを持っていた。割れたチャージカード。磁気が剥き出しになって、黒い筋が皮膚に汚れのように移っている。あの家の人間でも、電車は乗るのだ。当たり前の事実が妙に新鮮だった。
「立てる?」
「立ちたくないです。でも立ちます」
彼女は立った。体重の置き方がぎこちない。片方の足裏が直接地面を踏む感覚にまだ馴染んでいないのだろう。私がほんの少しだけ肩に指を触れると、彼女の肩は石鹸みたいに滑った。匂いはしなかった。金木犀みたいな香水の残り香を想像した私の負けだ。
「警察行く?」
「届けられるのは、嫌です」
「届けられる?」
「拾得物の扱い」
言い回しが、やっぱりお嬢様だった。丁寧で、他人ごとで、法律が先にある。でも、その言葉の角はどこか丸くなっていて、子どもが危うい玩具を抱えるみたいに不似合いに見えた。私は息を吐いた。吐いた息が白くなりかけて、途中で透明に戻る。
橋の下を風がくぐる。そのたびに薄い水の匂いが置いていかれる。河川敷の芝は冬と春の境目の色で、踏むとちょっとだけ音がした。夜更け前の犬の散歩が一本通り過ぎる。飼い主の会釈。目が合う。私の隣の彼女を見て、ほんの少し視線を逸らす。わかりやすい距離。これなら安全だと思える距離。
「うち、狭いけど」
言ってしまってから、それが五つ目の袋の口を緩める音だったと気づく。期待は袋の口から逃げ足が早い。私の声の温度に呼ばれて、すぐ顔を出す。私は袋の口をもう一度固く結び直すふりをしながら、彼女の顔をなるべく見ないようにした。
「汚くないところがいいです」
「汚くはない、と思う」
「じゃあ、そこが、上の音のする家なら、なお良いです」
「鍋はよく落ちる」
「いいですね」
会話が、どこかで釘を打たれたみたいに定着しない。そこが安心だった。流れ続けると、どこかに流れ着いてしまうから。
歩き出すと、彼女の歩幅は私より少し小さくて、右足の運びが遅れがちだった。アスファルトの凹凸に足裏を刻みつけるたび、顔がわずかに歪む。痛みは顔に正直だ。彼女の口元の形が、いくつかの形を覚えては忘れる。笑顔は、思っていたより遠い場所に置かれているらしい。
商店街を抜ける。シャッターが半分だけ閉まり、内部の蛍光灯が埃っぽい昼間の光を布団のように包んでいる。パチンと電気を落とす音。パン屋の看板だけはまだ光っていて、パンの絵の丸みが空腹をからかう。私は小銭がないことをもう一度思い出し、その貧しさを誰にも見られていないことにほっとする。くらしの隙間は見せない方がいい。見せた分だけ、穴は広がる。
「どうして、ここにいたの」
歩きながら訊く。彼女は考えるふりをして、考えられないと答える。
「ここだと、音が少ないから」
「音?」
「大きい音が、来るか来ないか、わかる場所」
私は、何かから逃げている人の歩き方を、テレビでしか知らない。現実の逃げ足はもっと普通で、もっと遅い。追跡者の影はない。けれど、彼女の耳はいつも遠くのタイミングを測っているようだった。交差点の信号の切り替わる気配、配達バイクのクラッチ、列車の踏切の予備電源の低い唸り。音は重なり、世界の薄い膜を震わせる。彼女はそれを指先でなぞるみたいに歩く。
「学校は?」
「行けません」
「明日も?」
「明日、学校は私のことを思い出すのかな」
「忘れるの、早いよ」
「だから、いいです」
私の学校でも、噂の寿命は短い。昼休みから放課後まで持てば長生きだ。彼女の名字はもう少しだけ延命されるだろう。刺繍の紋章は、見た目がいい。話の持ちが違う。噂は見た目に弱い。
マンションの前に着く。三階建て。エントランスのオートロックは壊れていて、鍵は力で開く。階段は薄い鉄板で、雨の日にだけ音楽家になる。今日の階段は沈黙している。踊り場の壁に貼ってある掲示の剥がれかけた角が、空気の流れに合わせてぴくぴくと動く。私はその小さな動きに視線を止めて、ほっとする自分に気づいて、ちょっと嫌になる。生き物より、紙の端を安心して見られる。そういう自分が、嫌いだ。
「三階」
「上ですね」
「うん。上の音、するから」
玄関の前で、一拍置く。鍵を回す前のこの一瞬が好きだったり嫌いだったりする。家の中の自分と、外の自分の境目に立って、今日の境目がどれだけ薄いか分厚いかを確認する作業。今日は、分厚い。靴の中の足の指がこわばって、階段の鉄の冷たさを思い出している。
扉を開ける。空気がいつもの形で私の顔に触れる。洗濯物の柔軟剤の香り。ガス台の金属の匂い。生活は積み木だ。上に積むのが下手だと、すぐ崩れる。私の積み木は低いけど、倒れない。倒れないように毎日、少しずつ角度を直す。
「入って」
彼女は玄関の敷居の手前で止まった。礼儀ではなく、境界線の観察だ。裸足の片足で、床の木目を探る。猫みたいな、でも猫より遅い動き。
「汚すかも」
「汚れない」
私は、瞬間、言葉を選び損ねたという敗北感を味わう。汚れ、という語は危険だ。私は急いで言い換える。
「砂、落ちるかも。後で掃けばいい」
「掃かないでください」
彼女が小さく言う。声の温度が変わった。初めて、私の温度と擦れ合った。
「そこに、いる印になるから」
私は頷いた。なるほど、と言いそうになってやめる。私は、彼女が脱いだ片方しかない靴を揃えて、失われた片方のために隙間を空けたまま置く。見た目は悪い。けれど、それでいい。
台所の蛇口をひねる。コップに水。透明を確認する儀式。彼女はソファの端に腰を下ろし、背もたれに背をつけない。逃げ道を確保する座り方。コップを差し出すと、両手で受け取る。手のひらの線が淡い。誰かが丁寧に守っていた皮膚。そこに、今日一日で付いた細い擦り傷が新しく並ぶ。
「ありがとう、ございます」
「いい」
言ってから、私は自分の心の中にある五つの袋のうち、どれが破れ始めているかを確認する。四つ目。憐れみの袋の口が、少し湿っている。濡れると緩む。指の腹で押さえて、結び直す。私は自分に言い聞かせる。これは拾うことではない。一晩、置くこと。朝になったら、別の言葉を選び直せばいい。
「シャワー、浴びる?」
「音がするなら」
「うるさいよ」
「助かります」
私はバスタオルと、まだ新しいうちに分類されるTシャツと、ジャージの下を持ってくる。彼女は立ち上がって、恐る恐る受け取り、浴室へ向かう。ドアの蝶番が鳴る。水の音が始まる。上の音も、下の音も、横の音も、今日は全部ここに集まる。
浴室の外に座って、私はスマホを開く。通知が並ぶ。グループチャットの未読。母から来た「夕飯ある?」の簡素な文。私は親指で「ある」と打ち、送信せずに画面を閉じる。誰にも説明したくない夜がある。説明は、持ち物を別の名前にする作業だから。
水の音に混じって、鼻歌が聞こえる。音程のない、でもリズムだけは正確な鼻歌。彼女の鼻歌だ。歌詞のない音は、ここに来る前の彼女の言語より、ずっとまっすぐだ。私はうっかり笑ってしまい、その笑いの形が自分でも知らない筋肉を使っていることに驚く。そんな顔、いつからしてなかったろう。
やがて水が止まり、湯気が戸の上で丸くなる。彼女が出てくる。髪はタオルの中にしまわれていて、耳だけが見えている。耳の縁が赤い。ジャージの裾が長すぎて、片方の足の甲を隠している。もう片方の裸足は、まだ少し震えている。
「借りました」
「返さなくていい」
「返します」
「じゃあ、返す相手を、あとで決めよう」
彼女は首を傾げる。意味が通じていないときの、わずかな間。私はソファの床に、薄いマットを敷く。枕を出す。上の音は、夜の九時に一度鳴る予定だ。上の階の住人がフライパンを落とすか、天井裏の配線が風で軋むか。どちらでもいい。音が鳴れば、眠れる子がここにいる。
彼女は横になり、ひざを少し抱える。目を閉じない。天井の角を見ている。角は、人を安心させる。不思議だ。丸いものは甘くて、角は安全だ。
「名前、聞かないのですか」
彼女が唐突に言う。私は天井の角を見ながら答える。
「聞かない」
「どうして」
「名前は、私の中の袋を破るから」
「袋」
「うん。怒り、羨望、羞恥、憐れみ、期待。捨てる用の袋」
「全部、捨てられるのですか」
「捨てられないから、袋に入れておく」
「ずるい」
「ずるい」
私たちは同時に言って、少しだけ間が空いて、同じタイミングで笑う。笑い声はまだ細い。糸みたいだ。切れやすいけれど、光にかざすとよく見える。
「……私も、捨てたいです」
彼女が言う。声の奥で、水が一滴、落ちたみたいな音がした。
「何を」
「今日の、音のこと」
私は頷いた。何も知らないふりをして、今、何かを知った。今日の彼女が聞いた音。家が崩れるときの音。電話が一斉に鳴る音。誰かが呼ぶときの名前の響きが、突然意味を失う音。私には想像しかできない。想像で作った音は、現実よりいつも小さくなる。だから、彼女の耳の中の大きな音の隣には、しばらく静かにいてあげるしかない。
部屋の時計が、九時を告げる一分前に、二階のどこかで皿を伏せる音がした。彼女がぴくっとして、次の瞬間、ふっと肩の力を抜く。布団が体を受け止める音まで、可視化されるみたいだ。目が、半分閉じる。半分、開けたまま、眠りの方向へ傾く。
私はキッチンで水を飲み、洗い場にコップを置く。とても小さな金属音が出て、すぐ消える。部屋に戻ると、彼女はもう眠っていた。呼吸は背の高い草を撫でる風みたいだ。起きている間に彼女が纏っていた立派な言葉の衣は、眠りと一緒に畳まれて、姿勢の脇に置かれている。
拾うつもりはなかった。拾うという言葉が、私の中で正しい音を持つようになったのは、今この瞬間だ。拾うのは、重さを受け取ることだ。形じゃなく、重さ。私は座り込んで、床の木目を指でなぞる。指先に伝わるささくれ。生活の手触り。そこに、見知らぬ誰かの体温が一つ、加わる。
だから、最初に捨てるべきだった憐れみを、私は捨て損ねる。袋の口がぴったり閉まらなかったせいで、夜の部屋にほんの少し甘い匂いが滲んでいく。甘い匂いは虫を呼ぶ。虫は、噛む。噛まれてから気づくだろう。期待が、袋の一番底で、眠ったふりをしていることに。
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