第三章:影の命名

(寛永二年・江戸)


家光が五人の非人を蔵人と薄雲に預けてから、一年が経過していた。


その間、家光は「表」の将軍として、春日局を巧みに操り、大奥と幕政の両方で着実に実権を掌握しつつあった。


そして今宵、家光は再び、蔵人の手引きで城を抜け、あの打ち捨てられた廃寺(=影のアジト)の本堂に立っていた。


一年前、五人が恐怖に震えながら引き渡された場所。


本堂の暗闇の奥から、二つの人影が静かに現れ、家光の前に深く膝をついた。


「刃」の師、蔵人。 そして、「毒」の師、薄雲。


蔵人は変わらず、生ける屍のような無感動な空気を纏っている。


だが、家光は、その隣に控える薄雲の姿に、目を細めた。


彼女は、すっかり梅毒が緩解し、一年前の、死を待つだけの「腐肉」の面影は欠片もなかった。


家光がペニシリンと共に定期的に与えていた「未来の薬」(現代のビタミン剤や栄養剤、あるいは基礎的な美容薬)のおかげか、全盛期とはいかないまでも、病み上がりのはかなさと、内側から発光するような輝く美しさを取り戻していた。


ただれた痕が残る顔半分すら、今は妖あやしい「影」として彼女の美貌を引き立てている。


家光は、その変貌ぶりに、フッと口の端を上げた。


「美しいな、薄雲。……夜伽よとぎに呼びたいくらいだぞ」


それは、この「影の軍団」の頭領あるじにしか言えない、支配者の冗談だった。


薄雲は、顔を上げぬまま、その赤い唇で妖艶に微笑んだ。


「……めっそうもございません」


その声は、かつての太夫が男を惑わした甘さか、あるいは「師」としての冷徹な謙譲か。


「上様のお命、この身に代えまして、あの『娘』たちに注ぎ込んでおりますゆえ」


「期待している」


家光は、それ以上は踏み込まず、蔵人に向き直った。


「……で、見せられるか。お前たちの『作品』を」


蔵人は、乾いた声で答えた。


「……上様。お呼びいたしました」


「ごろうじろ。我らが『作品』にございます」


蔵人が手を叩くと、本堂の暗闇の五カ所から、五つの影が音もなく「滲み出し」、家光の前に一列に並んだ。


家光は、その五人を見て、目を細めた。


そこに、かつて畳に額をこすりつけ、失禁していた「非人」たちの姿は、もはや欠片もなかった。


男三人、女二人。


全員が黒装束に身を包み、その顔は、感情というものを一切剥ぎ落としたかのような、冷たい「無」に支配されていた。


鍛え上げられた肉体は、生きるためのものではなく、ただ「任務」を遂行するためだけの研ぎ澄まされた道具ツールと化している。


彼らは、家光の姿を認めると、一糸乱れぬ動きで音もなく片膝をつき、深く頭を垂れた。


狂信は、一年間の地獄のような訓練を経て、完璧な「忠誠」という名の鋼はがねに鍛え上げられていた。


「……見事だ、蔵人、薄雲」


家光は、満足げに言った。


「良い『道具』に仕上がった」


家光は、玉座からではなく、彼らと同じ床ゆかに立ち、一人目の前に進み出た。


かつて、腕の腱を切られた男の前に立つ。


男は、右腕を失った代わりに、その左腕は常人の倍近くに膨れ上がり、全身が「殺気」の塊と化していた。


「お前は、力を失い、妹のために『牙』を剥いた」


家光は、静かに告げた。


「その牙、今やこの国の法のりを喰い破る毒牙となった。 ……今日より、お前の名は『きば』だ。 俺の敵の喉笛を、その左腕で確実に喰い千切れ」


「……御意」


『牙』と呼ばれた男は、床に額がつくほど深く頭を下げた。


次に、無実の罪で拷問され、足を引きずっていた男の前に立つ。


男は、今やその足の不自由さを感じさせない、むしろそれを「型」として利用する独特の体捌きを身につけていた。


「お前は、理不尽にすべてを奪われ、その存在を『かすみ』のように消された」


「その霞、今や誰の目にも映らぬ真の『影』となった。 ……今日より、お前の名は『霞』だ。 城の壁も、人の心の隙間も、霞かすみのごとくすり抜け、俺の『目』となれ」


「……御意」


『霞』が、音もなく応えた。


三人目。五人の中で最も体格の良い男の前に立つ。 彼は、かつてどのような非人であったか、その面影は微塵もない。ただ、純粋な「殺意」だけがそこにあった。


「お前は、社会(システム)から打ち捨てられた『くい』だ」


「その杭、今や徳川の世を揺るがす巨悪の『心臓』に打ち込むためのものとなった。 ……今日より、お前の名は『杭』だ。 俺が指し示した『悪』を、一撃の下に仕留めよ。二度打つことは許さぬ」


「……御意」


『杭』の重い声が、床を震わせた。


家光は、次に、女たちの前に進む。


まず、心中未遂で顔に傷を負った女の前に立つ。


彼女の顔の傷は、薄雲の化粧によって、もはや「傷」ではなく、男を惑わす妖しい「文様もんよう」へと昇華されていた。


「お前は、男との愛に溺れ、その『みつ』の甘さゆえに死を選んだ」


「その蜜、今やこの国の大名を狂わせる、極上の『毒』へと変わった。 ……今日より、お前の名は『蜜』だ。 その体、その唇、その言葉のすべてをもって、俺の敵を内側から甘く溶かせ」


「……御意」


『蜜』の、吐息のような声が応えた。


最後に、家光はもう一人の女の前に立った。


彼女は、五人の中で最も「普通」に見えた。だが、その「普通」さこそが、彼女の最大の武器であることを家光は見抜いていた。


「お前は、人々の噂に紛れ、その声は誰にも届かなかった」


「その声、今や江戸中の情報を集め、あるいは偽りの『うわさ』を流して世を操る『せみ』の音となった。 ……今日より、お前の名は『蝉』だ。 どこにでも潜み、あらゆる音を聞き、そして、俺のために『世論』を操れ」


「……御意」


『蝉せみ』は、まるで鳴いているのかいないのかわからぬほどの、かすかな声で応えた。


家光は、五人――牙、霞、杭、蜜、蝉――を見渡し、静かに宣言した。


「お前たちは、非人として死んだ。 今日、お前たちは、俺の『影』として、俺の『道具』として、ここに生まれた。 その名こそが、お前たちの新たな『命』だ」


五人は、一斉に、畳に額をこすりつけた。


それは、一年前の「恐怖」の土下座ではない。 自らの存在を「神」に承認され、明確な「役割なまえ」を与えられたことへの、絶対的な「歓喜」と「忠誠」の礼だった。


家光は、彼らに背を向け、蔵人に告げた。


「蔵人。最初の『任務』だ」


「……はっ。お待ちしておりました」


蔵人の目に、初めて「獣」の光が戻っていた。


家光の「影の軍団」が、その研ぎ澄まされた五本の「刃」を、初めて江戸の闇に向ける時が来た。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る