序章・第二幕:毒と師

(元和7年・江戸)


蔵人(くろうど)を、徳川家光ただ一人の「影」として手駒に加えてから、六年が過ぎた。 元服を二年後に控えた十三歳の竹千代(家光)は、この世の「力」には二種類あることを(転生者として)熟知していた。 一つは、父・秀忠や乳母・春日局が操る「法」と「権威」という名の、表の力。 もう一つは、蔵人が体現する「恐怖」と「暴力」という、裏の力。


城の奥深く、自室の書院で書物を開いていたが、竹千代の意識は遥か江戸の闇の底にあった。


(蔵人は、手に入れた)


彼は(転生者として)冷徹に自らの手札を分析する。 蔵人は、最強の「刃(やいば)」だ。人を殺し、拷問し、闇に潜む技術。彼が将来集める素材を、無慈悲な暗殺者や諜報員に鍛え上げるには、蔵人以上の適任者はいない。


(だが、刃だけでは足りない)


竹千代の脳裏には、すでに元服後の青写真が描かれている。 春日局を手玉に取り、大奥を掌握する。そして、その大奥の女たちを、あるいは蔵人が育てた「影」たちを、諸大名の奥深くに送り込み、内側から幕府の「礎(いしずえ)」とする計画。 その時、必要なのは「刃」ではない。


人の心を、甘く溶かし、内側から支配する「毒」。 笑顔という仮面。涙という武器。枕元で交わされる吐息に紛れて「情報」を引き出し、男を意のままに操る、もう一つの「力」。


(蔵人は、殺し方は知っている。だが、愛し方は知らない)


「女の武器」と呼ばれる、その最強の技術。その「師」が必要だった。 竹千代は、すでに蔵人に命じていた。 「この江戸で、人の心を最も巧みに操った『伝説』の女を探せ。金や権力に屈した女ではない。金と権力を、その身一つで支配した女だ」


蔵人の調査結果は、無情だった。 その女は見つかった。 名を、薄雲(うすぐも)。 かつて吉原(よしわら)の遊郭で、大名や大商人がその一夜を競い、蔵を空にしたという伝説の太夫(たゆう)。 だが、彼女は、今。


「……梅毒(ばいどく)にございます」 闇に潜む蔵人の報告は、いつも通り淡々としていた。 「病(やまい)が肌を食い破り、もはや太夫の面影はありませぬ。今は吉原の最下層、『切り見世(きりみせ)』の奥にある病棟に、半ば捨てられております」 「……そうか。会う」


蔵人は、初めて主君の言葉に反論した。 「なりませぬ。若君。あの場所は……『穢れ』そのものにございます。病が、若君のお体に触れるやも」 「蔵人」 竹千代の静かな声が、忍びの言葉を遮った。 「お前の『影』は、病に触れただけで死ぬのか?」 「……っ。滅相もございません」 「なら、道を作れ。今夜だ」


その夜、竹千代は「若君」の装束を脱ぎ捨てた。 裕福な薬問屋の若旦那(わかだんな)風の、上等だが目立たない小袖。蔵人の手引きで、春日局の厳重な西ノ丸の警備を(まるで存在しないかのように)すり抜け、二人は夜の闇に紛れた。


吉原の入り口である「お歯黒どぶ」を渡る。 表通りの、見せかけの華やかさには目もくれず、蔵人は竹千代を連れて裏道へと進む。 そこは、地獄だった。 酒の匂い、汚物の匂い、そして、安い白粉(おしろい)の下に隠された、病と死の匂い。


(……これが、この時代の『繁栄』の裏側か) 竹千代の目は、その地獄を冷徹に観察していた。 彼がやがて救い、そして「道具」とする「非人」たちと同じ、あるいはそれ以上に、この「しきたり」の犠牲者たちがここにいる。


案内されたのは、粗末な長屋の一室だった。 「切り見世」の中でも、もはや商品にすらなれぬ女たちが、死ぬためだけに押し込められる部屋。 かび臭い布団と、薬湯の匂い。そして、肉が腐る微かな甘い匂いが、竹千代の鼻をついた。


「……若君。あれにございます」 蔵人が、部屋の最奥を指した。 そこには、一枚の薄汚れた布団が敷かれ、何かが、かろうじて「人」の形を保って横たわっていた。


竹千代は、蔵人に目配せし、入り口で見張るよう命じた。 一人、部屋の奥へと進む。


「……また、坊主か」 布団から、声がした。 しゃがれた、ひび割れた声。 「死に損ないの顔でも拝みに来たかね。それとも、物好きか。……ふふ。今のあたしを抱けるなら、大したもんだよ」


薄雲が、ゆっくりと顔を上げた。 「伝説」の面影は、どこにもなかった。 梅毒が、彼女の顔を無残に食い荒らしていた。鼻は欠け落ち、肌は紫色の斑(まだら)に覆われている。かつて男たちを虜にしたであろう唇は、ただれ、めくれ上がっていた。


だが、その瞳だけが、濁った水底で光る石のように、恐ろしいほどの知性を保っていた。


「……小僧?」 薄雲は、近づいてきたのが僧侶ではなく、身なりの良い少年であることに気づき、怪訝な顔をした。 「迷子かい。こんな場所は、お前さんの来るところじゃあないよ。お帰り」


「お前が、薄雲か」 竹千代は、彼女の目の前に、ためらうことなく座った。 「……」 「伝説の太夫。男たちの心を弄び、大名すら手玉に取った、その『技』を買いに来た」


薄雲は、一瞬、虚を突かれた顔をした。 そして、次の瞬間、喉の奥から引き絞るような声で笑い始めた。 「……ひ、ひひ。あははは! 『技』だと? 小僧、お前、毛も生えそろわぬうちから、女の『技』が欲しいのかい」 「笑うな。俺は本気だ」 「本気? あたしが、こんな姿で、何を教えられるってんだい!」 彼女は、自嘲するように、崩れた自分の顔を覆った。 「……もう、あたしには何もないよ。この病(やまい)が、全部持っていっちまった。夢も、欲も、男も……そして、この顔も」


「だから、お前を選んだ」 竹千代は、静かに言った。 「……何?」 「すべてを失い、死の淵にいるお前だからこそ、信じられる。お前は、俺を裏切れない。 ……お前は、俺に『仕える』しかない」


「……小僧。お前、自分が何を言ってるか、わかって……」 薄雲が、その傲慢な物言いに、残ったプライドで反論しようとした時。 竹千代は、懐から「それ」を取り出した。


(転生者としての「力」。それは「知識」と、それを具現化する「特権」)


竹千代の小さな手が、懐の暗闇から引き抜いたのは、この時代に存在するはずのない、冷たい輝きだった。 ガラスの筒。銀色の針。その中に満たされた、透明な液体。 ペニシリン水溶液の満たされた注射器だった。


「……なんだい、そりゃあ?」 薄雲は、警戒した。


「薬だ」 竹千代は、短く答えた。 「南蛮(なんばん)よりも、遥か西の『未来』から来た、万能薬だ」 「……」 「お前の病。梅毒(ばいどく)は、目に見えぬほどの小さな『虫』が、お前の血を食い荒らしているからだ」 「……虫?」 「そうだ。そして、この薬は、その虫を殺す」


竹千代は、注射器の針を光に翳した。 「これで、薬を、毎夜、お前に打つ」


薄雲は、その異常な光景に、息を呑んだ。 目の前の少年は、子供ではない。人ならざる「何か」だ。 「……毒じゃないだろうね」 「かもしれんな」と竹千代は冷ややかに言った。 「だが、お前はどちらにせよ、あと半月もすれば、この腐肉(ふにく)の痛みの中で死ぬ。違うか?」


「……」 薄雲は、何も言い返せなかった。 「俺に賭けろ、薄雲」


竹千代は、ためらうことなく彼女の病んだ腕を取った。 ただれた皮膚が剥がれ、膿(うみ)が滲むその腕を、この国の誰もが『穢れ』として忌避するその肌を、目の前の少年は、まるで貴重な焼き物でも扱うかのように、素手で、なんの躊躇もなく、しかし驚くほど丁寧に握った。


その、ありえない感触に、薄雲の息が止まった。 この病にかかって以来、触れられたのは、殴られるか、突き飛ばされるか、あるいは同情の目で薬湯の椀を置かれるか、それだけだった。 人間としての「肌」に触れられたのは、何年ぶりか。


「俺は、お前に『命』をやる。お前が失った『美しさ』も、いずれ取り戻してやろう。 ……その代わり、お前の『伝説』のすべてを、俺に差し出せ」


「……あたしが、生き延びたら……あんたは、その『技』で、何をするんだい」 「決まっている」


竹千代は、もう片方の手で、その腕に寸分の迷いもなく針を突き立てた。 冷たい液体が、伝説の太夫の身体に流れ込んでいく。


薄雲は、腕に走るかすかな痛みも、目の前の少年の異常性も、もはやどうでもよかった。 彼女は、ただ、自分のただれた肌を素手でなんの躊躇もなく丁寧に握るその小さな手と、ガラス管の不思議な液体が自分の体に入っていくのを、眺める以外なかった。


それは、死の淵からの生還か、あるいは、新たな地獄への契約か。


「……毎夜、来な。約束だよ、若」 彼女が、その夜、絞り出した最後の言葉だった。


竹千代は、蔵人の待つ闇へと戻りながら、冷たく決意する。 「刃」は手に入れた。 「毒」も手に入れた。 (あとは、元服の日を待つだけだ) この二人の「師」が鍛え上げる「影」を投入するための、表の舞台を掌握する日を。

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