第5章:心理崩壊――言葉という凶器


 午前4時15分。


【残り時間:1時間30分】


 瞳は五階の旧放送室にいた。


 扉を開ける。埃っぽい匂い。古い機材が並んでいる。


 病院内放送の設備――十年前、毎朝、音楽と共に「おはようございます」という声が流れていた。入院中の子どもたちを励ますための、優しい放送。


 あの頃の記憶がよみがえる。


「瞳ちゃん、今日もお薬頑張りましょうね」


 看護師の声が、放送で流れた。


 温かい記憶。


 しかし今夜、この放送設備は――


 瞳は機材を確認する。マイク、アンプ、スピーカー。


 電源は――幸い非常用電源で動く。


 配電盤のスイッチを入れる。


 ブーン……


 機材が起動する。ランプが点灯。


 動いた……まだ使える!


 そして、モニター画面。


 病院内の監視カメラの映像を表示する古いシステム。


 画面は白黒。画質は粗い。しかし――


 麗華の位置が分かる。それで充分だ。


 画面に映る麗華。四階の廊下。


 その姿は――もはや最初の余裕はない。


 ボロボロの服。焼け焦げた髪。全身に疲労の色。


 壁に手をついて、息を整えている。


 ハァ、ハァ、ハァ……


 限界に近い。


 瞳はマイクの前に座った。深呼吸。


 物理的な攻撃だけではない。今度は精神への攻撃。


 資料で学んだ心理戦術。暗示。誘導。恐怖の植え付け。


 言葉で相手を追い詰める。


 瞳はマイクのスイッチを入れた。


 カチッ。


 赤いランプが点灯。放送開始。


「神代麗華さん」


 瞳の声が、病院中に響く。


 静かな声。しかし、病院の隅々まで届く。


 モニター画面の麗華が――顔を上げる。


 驚きの表情。


「あなたは疲れています」


 麗華の目が虚空を彷徨う。


「そしてあなたは怯えています」


 瞳は言葉を続ける。冷静に。科学者が事実を述べるように。


「事実として、傷の回復が遅くなっています。最初は一分で治っていた傷が、今は数分かかっている」


 事実を突きつける。


「そしてスタミナが限界に近づいています。呼吸が乱れています。心拍数も上がっている」


 モニター画面の麗華が――壁にもたれかかる。


 


「あなたは今、四階にいますね。呼吸が荒い。足が重い。身体が言うことを聞かない」


 実際、監視カメラの映像で確認済みだ。古いカメラだが、いくつかはまだ動く。


 完全記憶が、全てのカメラの位置を教えてくれる。


「夜明けまであと1時間半。午前5時45分には、太陽が昇ります」


 これは事実。季節から計算した日の出時刻。


「警察はもう、近くまで来ています。山道を登ってきています」


 これも事実。GPS情報を送った。警察は必ず来る。


 山道は険しい。車では登れない場所もある。しかし、徒歩なら――5時間もあれば十分。


「あなたの時間も、残り少ないのでは?」


 沈黙。


 モニター画面の麗華の表情――焦り。


 明らかに目が泳いでいる。


 よし。


「あなたは今まで、誰にも負けたことがなかったのでしょう?」


 瞳は言葉を続ける。


「圧倒的な力で、すべてを支配してきた。念動力という、人間を超えた能力。再生能力という、死なない身体」


 相手を持ち上げる。


 そして――


「でも今夜、たった一人の女子高生に、こんなに手こずっている」


 突き落とす。


「なぜだと思いますか?」


 沈黙。


 モニター画面の麗華が――拳を握りしめる。


 悔しさ。怒り。


 感情的になっている。良い兆候。


「力だけでは、勝てないからです」


 瞳は立ち上がった。


 次の場所へ移動する時間。


 しかし、放送は続ける。マイクを持って、廊下へ。


 ワイヤレスマイク――放送室の引き出しにあった。まだバッテリーが生きている。


「知恵があれば、力を凌駕できる。それが人間の強さです」


 階段を上る。屋上へ。


「神代麗華さん、あなたは強い。本当に強い。でも――」


 ここで瞳は焦らすように間を取る。


「完璧ではない」


 屋上の扉を開ける。


 冷たい風が顔を打つ。


 夜明け前の空気。


 東の空――明るくなっている。


 地平線近くが、藍色から紺色へ。そして――わずかにオレンジの気配。


 夜明けが近い。


「あなたには弱点がある。力を使うために集中が必要なこと。一度に一つしか物を操れないこと。そして――スタミナが有限であること」


 瞳は屋上の中央へ歩く。


「私は、その全てを見抜いた」


 最後の罠の準備。


 これは、一時間前――午前3時頃に、少しずつ準備していたものだ。



 瞳は一時間前に意識を戻す。


 地下駐車場での爆発の後。


 瞳は一旦、五階に上がっていた。


 小児科病棟の罠を準備する前に――屋上へ。


 最終決戦の舞台を整える。


 屋上には、様々なものが放置されていた。


 古い給水タンク。アンテナ。鉄骨。


 そして――ガラス片。割れた窓ガラス。


 瞳はガラス片を集めた。大小様々なサイズ。


 これを――鏡として使う。


 ガラスの裏に、アルミホイルを貼る。非常用の保温シートから剥がしたもの。


 簡易的な鏡の完成。


 これを、屋上の各所に配置する。


 様々なサイズ、様々な角度。


 月明かりが反射する位置を計算。


 準備時間:20分。


 そして――閃光弾の代用品を用意する。


 カメラのフラッシュユニット。これは古い一眼レフカメラから取り外したもの。


 病院の倉庫にあった、職員のものだろう。


 充電式バッテリーも発見。まだ充電可能。


 準備時間:10分。


 花火。


 これは本物。非常用の信号弾。遭難時用。


 山岳病院ならではの装備。


 準備時間:2分。


 音響装置。


 放送設備のスピーカーを、屋上に延長。


 長いケーブルを繋いで。


 準備時間:8分。


 合計:40分。


 その後、小児科病棟へ移動。



 そして現在。午前4時30分。


【残り時間:1時間15分】


 瞳は準備した罠を確認する。


 鏡――15枚。様々な位置に配置済み。


 フラッシュユニット――3台。充電完了。


 信号弾――5発。


 スピーカー――最大音量に設定済み。


 そして――最後の仕掛け。


 金属片。ボルト、ナット、針金。


 屋上の縁に、バネ式投擲装置を設置。


 ワイヤーを引けば、一斉に麗華に向かって飛ぶ。


 準備時間:わずか10分。


 すべてが整った。


 瞳はワイヤレスマイクに向かって言う。


「神代麗華さん、最後の舞台へ、どうぞ」


 そして――階段から、足音が聞こえた。


 ズル……ズル……


 引きずるような足音。


 来る。


 瞳は鏡の迷路の中に身を隠す。


 完全記憶が、配置を完璧に把握している。


 どの鏡がどこにあり、どの角度で何が映るか。


 全て記憶している。



 階段の扉が開いた。


 麗華が現れる。


 その姿――もはや、最初の美しさはない。


 ボロボロの服。焦げた髪。疲労困憊の顔。


 しかし――目には、まだ光がある。


 狂気の光。


 まだ戦える。まだ諦めていない。


「そこ……にいたのね……」


 麗華の声は掠れている。


 しかし――怒りに満ちている。


「もう……終わりにしましょう……」


 麗華が手を伸ばす。


 テレキネシスで瞳を捕らえようとする。


 しかし――瞳の姿が見えない。


 鏡に映る、無数の反射像。


 どれが本物か分からない。


「どこ? どこにいるの?」


 麗華の声に、焦りが混じる。


 今だ。


 瞳は閃光弾――フラッシュユニットを起動した。


 パァンッ!


 強烈な光。


 夜の屋上が、一瞬昼間のように明るくなる。


 その光量は約100万カンデラ相当。


 鏡がその光を反射し、増幅する。


 無数の光の矢が、麗華を襲う。


 キラキラキラキラ……


 まるで光の嵐。


「くっ……!」


 麗華が目を閉じる。視界を奪われる。


 テレキネシスには集中と視界が必要。


 今、そのふたつを同時に奪った。


 テレキネシスが解除される。


 次に、瞳は音響装置を起動した。


 放送設備から――最大音量で、音を流す。


 音源はMRI装置の騒音を録音したもの。


 ゴォォォォン!


 耳を劈く騒音。屋上全体が震える。


 120デシベル以上。


 麗華が両手で耳を塞ぐ。


 集中が乱れる。


 そして――信号弾。


 シュゴォォォ!


 赤い光が空に上がる。


 パンパンパン!


 連続する爆発音。


 信号弾が爆発し、さらなる光と音を生み出す。


 視覚と聴覚を完全に麻痺させる。


 麗華は鏡に映る無数の瞳の像に囲まれている。


 右にも、左にも、前にも、後ろにも――瞳の姿。


 どれが本物かわからない。


「どこ……どこなの……!」


 麗華が叫ぶ。


 手当たり次第に腕を振る。


 テレキネシスが暴走する。


 制御を失っている。


 鏡が次々と砕ける。


 ガシャン! ガシャン! ガシャン!


 しかし――それがかえって、光を乱反射させる。


 ガラスの破片が、キラキラと舞う。


 まるで――ダイヤモンドダストのよう。


 瞳は鏡の迷路の中を移動した。


 完全記憶が、配置を完璧に把握している。


 右に3歩。鏡Aの裏側。左に2歩。鏡Bの陰。


 麗華からは見えない。でも、鏡越しには声が届く。


「ここよ」


 背後から声をかける。


 麗華が振り向く。


 しかし――それも鏡像。


 鏡Cに映った、瞳の姿。


「あら、もしかしてこっちかしら?」


 別の方向から。


 鏡Dに映った姿。


「あなたはもう負けている」


 また別の方向。


 鏡Eからの声。


「力だけでは、勝てない」


 鏡Fから。


 麗華の表情が――恐怖に歪む。


 初めて見る、完全な恐怖の表情。


 圧倒的な力を持っていたはずの殺人鬼が、今は――


 怯えている。


「やめて……やめてよ……!」


 麗華が叫ぶ。


 声が震えている。


 テレキネシスで鏡を破壊しようとする。


 しかし、疲労と混乱で制御できない。


 自分が浮かせた鏡の破片が、逆に自分の方に飛んでくる。


「あっ……!」


 破片が麗華の頬を切る。


 血が流れる。


 腕を切る。


 さらに血が。


 自傷。能力の暴走による、自分へのダメージ。


 瞳は観察を続ける。


 再生能力は? 傷が塞がる速度は?


 数秒後――傷が塞がり始めるが……。


 さっきまでと比べて――


 明らかに遅い。10秒以上かかっている。


 最初は1分。次は4分。そして今は――個々の小さな傷でさえも10秒かかっている。


 スタミナが、ほぼ底をついている。


 そして――


 東の空が、明るくなっている。


 オレンジ色の光。


 地平線が、輝き始めている。


 夜明けだ。


 瞳は最後の言葉を放った。


「終わりです」


 その言葉と共に――


 太陽が、地平線から顔を出した。


 オレンジ色の光が、屋上を満たす。


 午前5時45分。日の出。


 暖かい光。希望の光。


 麗華は――崩れ落ちた。


 膝をつき、両手を地面につく。


 ガクッ……


 全身から力が抜ける。


「負けた……の……?」


 麗華の声は、信じられないという感情に満ちていた。


 私が……人間を超えた力を持つ私が……


 たった一人の、女子高生に……


「確かにあなたは強かった」

「!?」


 鏡の陰から姿を現した瞳は麗華の背後に立った。


 瞬間、麗華の頸動脈に注射器を突き立てる。麻酔薬だ。


 極限まで見開かれた麗華の双眸が、瞳をとらえる。


 朝日に照らされた、瞳の姿。


 疲労困憊。服は汚れ、髪も乱れている。


 しかし――目には、強い光がある。


 勝利の光。


「でも――


 瞳は言う。


「力には限界がある。能力にも、弱点がある」


 遠くから、サイレンの音が聞こえる。


 ウーウーウーウー……


 警察だ。


「ゲームオーバーです」


 瞳はそう宣言して――


 ドサッ。


 


 瞳も限界だったのだ。身体も、精神も。


 心拍数200超。脱水症状。低血糖。


 でも――


 勝った。


 夜明けまで、生き延びた。



 八歳の瞳。


 病室で、一人。


 これは、フラッシュバックだ。


 私は夢を……過去の記憶を見ている。


 そのまま窓の外を見る。


 夜明け。


 太陽が昇る。


 新しい一日。


 今日も生きている。


 明日も、生きていける。


 医師が言っていた。


 「瞳ちゃん、君の病気は治るよ。必ず治る」


 「諦めなければ、道は開ける」


 その言葉を信じた。


 そして――今も、信じている。



 屋上に倒れたまま、瞳の意識が遠のいていく。


 でも――幸せだった。


 生き延びた。


 知恵で、力に勝った。


 視界が暗くなる。


 しかし――心は、温かかった。


000


【目標達成】



 しかし。


 瞳の意識が完全に失われる直前――


 麻酔で倒れているはずの麗華の指が、わずかに動いた。


 うそ……? まだ――意識がある?


 完全記憶が、警告する。


 危険。まだ終わっていない。


 瞳は必死に、意識を保とうとする。


 起きろ。まだ終わりじゃない。


 しかし――身体が動かない。


 そして――

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る