【極限サバイバルアクション短編小説】夜明けまで生き延びろ! ――廃病院デスゲーム:5時間の悪夢――(約22,000字)
藍埜佑(あいのたすく)
第1章:絶望の始まり――追跡者
息つくひまもなく、山道を駆け下りていた。
足が絡まりそうになる。枝が顔を打つ。それでも白河瞳は走り続けた。背後から追ってくる気配が、確実に距離を詰めている。
心臓が喉から飛び出しそうだった。陸上部で鍛えた脚力が、今は唯一の命綱だ。月明かりが木々の間から差し込み、不規則な影を作り出している。
なぜこんなことに――。
山岳部の合宿から一人で下山していただけだった。メンバーより一日早く下山する予定で、装備も十分。サバイバルキット、予備バッテリー、非常食。山岳部の顧問から渡された「万が一」のための装備品一式。
途中、廃墟となった聖ヶ丘総合病院の前を通りかかったとき、あの光景を見てしまった。
白いワンピースの女性が、登山客らしき男性の首に手をかけていた。男性の身体が宙に浮き――物理法則を無視して、ゆっくりと浮かび上がり――そして、首が、ありえない角度に曲がった。
ゴキリ、という音が夜の静寂を破った。
女性がゆっくりと振り向いた。月明かりに照らされたその顔は、息を呑むほど美しかった。整った目鼻立ち、滑らかな黒髪。そして――笑みを浮かべた唇。まるで芸術作品のような完璧な顔立ち。
「見てしまったのね」
女性の声は静かだった。まるで友人に話しかけるような、穏やかな口調。その不気味な落ち着きが、かえって恐怖を煽る。
瞳は反射的に逃げ出した。スマートフォンを取り出し、走りながら110番。指が震える。画面がぼやける。
「聖ヶ丘総合病院跡地……殺人……追われて……」
息も絶え絶えに状況を伝える。GPS位置情報を送信。警察の声が聞こえる。
『すぐに向かいます! その場から動かないで――』
「無理です! 山道で、距離があります……聖ヶ丘総合病院に向かいます。夜明けまで逃げ切ります!」
その瞬間、バッテリー切れの警告。予備バッテリーはザックの中だが、走りながら交換する余裕はない。画面が暗転した。
「くっ……!」
もう連絡は取れない。だが警察は来る。GPS情報は送信できた。山道だから到着には時間がかかるだろう。この辺りは携帯の電波も不安定だ。
問題は――それまで生き延びられるかだ。
背後から、規則正しい足音。走っているのに、まるで散歩でもしているかのような余裕のある足音。タン、タン、タン……機械的なリズム。
距離が縮まっている。明らかに。
瞳の脳裏に、あの廃病院の姿が浮かんだ。幼少期、難病で長期入院していた場所。十年前に閉鎖されたが、建物は残っている。あの頃の記憶が、鮮明に蘇る――。
◆
十年前のあの日がフラッシュバックする。
八歳の瞳は、病室のベッドで天井を見つめていた。
「完全記憶能力」――医師たちはそう呼んだ。
ハイパーサイメシア。
一度見たもの、経験したことを完璧に記憶できる能力。
「素晴らしい才能ですね」と大人たちは言った。
でも、瞳には呪いだった。
痛い治療の記憶。注射の痛み。孤独な夜。すべてを、一秒たりとも忘れることができない。楽しい記憶だけでなく、辛い記憶も、すべて鮮明に残る。
病院の廊下を歩きながら、瞳はすべてを記憶していった。どの部屋に何があるか。薬品庫の位置。非常口。隠し通路。職員用の階段。
知識が、唯一の友達だった。
看護師や医師から学んだ医療知識。図書室で読んだ科学の本。化学。物理。生物学。
「知識があれば、怖くない」
それが、瞳の支えだった。
◆
そして現在。
完全記憶能力――ハイパーサイメシア。今、この能力が瞳を救うかもしれない。
病院の構造は、今でも完璧に頭の中にある。隠し通路、使える部屋、すべて。三階の薬品庫。地下のボイラー室。屋上への階段。
「あそこなら……地の利がある!」
方向を変え、廃病院へと走った。森の中の獣道を抜け、崩れかけたフェンスを飛び越える。
心の中で、カウントダウンが始まる。
夜明けまで、何時間? 今は……午前0時過ぎ。夜明けは5時45分頃。約5時間半。警察の到着も、それくらいかかるだろう。
5時間半。300分以上。18000秒以上。
生き延びるための、18000秒。
◆
エントランスホールに飛び込んだとき、時刻は午前0時30分だった。
瞳は腕時計を確認する。山岳部の訓練で身につけた、時間管理の習慣。
【残り時間:5時間15分】
月明かりが、割れた窓から差し込んでいる。受付カウンター、待合室の椅子、掲示板――すべてが十年前のまま放置されていた。埃と黴の匂い。崩れかけた天井。剥がれた壁紙。
瞳は深呼吸した。身体は震えている。恐怖で思考が麻痺しそうになる。指先が冷たい。汗が額を伝う。
違う。落ち着け。パニックになれば終わりだ。
深呼吸。吸って――吐いて。心拍数を落とす。思考を整理する。
ポケットから小さなメモ帳を取り出す。いつも持ち歩いている、科学実験のメモ。そして――最近趣味で研究していた、サバイバル術のノート。
山岳部の合宿用に準備していた知識。最悪の状況で生き残る方法。化学薬品の応用。心理戦術。トラップの作り方。
「使えるものは、すべて使う」
瞳は呟いた。ザックから装備を確認する。
ライター。予備の懐中電灯。ロープ。ナイフ。応急処置キット。そして――小さな化学薬品のサンプル瓶。実験用に持っていたもの。
そのとき、エントランスの扉がゆっくりと開いた。
女性が入ってきた。白いワンピースには、返り血が染み込んでいる。しかしその表情は穏やかで、まるで患者を見舞いに来た友人のようだった。
「ここに逃げ込むなんて。なんて愚かなの」
女性はゆっくりと歩いてくる。足音が、静寂を切り裂く。
瞳は待合室の椅子を掴み、力いっぱい投げつけた。
椅子が宙を舞う。女性に直撃する――はずだった。
椅子が、空中で止まった。
まるで見えない手に掴まれたかのように、空中で静止している。そして、ゆっくりと横へ移動し、ガシャンと床に落ちた。
「テレキネシス……念動力……!?」
瞳の科学的な頭脳が、現実を受け入れようと必死に働く。
ありえない。
物理法則に反している。
しかし――目の前で起きている。
「正解」
女性が微笑んだ。その笑顔は、恐ろしいほど美しかった。
「神代麗華。それが私の名前。覚えておくといいわ。まあ、あなたの人生、あと数分だけだけどね」
瞳は古いロッカーの陰に飛び込んだ。心臓が爆発しそうだ。
念動力。実在するのか。いや、今はそれが問題じゃない。相手が何であれ、生き延びる方法を考えなければ。
科学的思考。観察。仮説。実験。検証。
まず、相手の能力を理解する。そして――弱点を見つける。
足音が近づいてくる。ロッカーの隙間から、白いワンピースが見える。血の染みが、月明かりに黒く見える。
「隠れても無駄よ」
次の瞬間、ロッカーごと身体が浮き上がった。
「え――」
世界が回転する。ロッカーが横倒しになり、瞳は床に叩きつけられた。痛みが全身を駆け巡る。肩を強打。呼吸が止まる。
麗華が近づいてくる。その手が、瞳の首に伸びる。
細い指。しかし――力が、尋常じゃない。
「がっ……!」
首が締まる。呼吸ができない。視界が暗くなる。星が見える。
これで終わりなのか。自分もまたあの男性と同じ末路を辿るのか。
違う。まだだ。まだ終わらせない!
瞳の手が、近くに転がっていた消火器に触れた。完全記憶が教えてくれる――この位置に消火器があることを。
ピンを引き抜き、麗華の顔面に向けて噴射。
シュゴォォォ!
白い粉末が麗華の顔を覆った。
「くっ……!」
麗華の手が離れた。一瞬の隙。
瞳は転がるように逃げ、階段へと駆け上がった。背後から、麗華の怒りの声が聞こえる。
「逃がさない……!」
二階へ。三階へ。肺が悲鳴を上げる。しかし止まれない。
階段を上りながら、瞳は数える。一段、二段、三段――十五段で踊り場。完全記憶が、正確な情報を提供する。
廊下の角を曲がり、瞳は壁に背を預けた。時計を見る。午前0時45分。
【残り時間:5時間00分】
警察が来るまで――あと5時間。
それまで、あの化け物から逃げ切らなければならない。
瞳は震える手で、メモ帳を開いた。サバイバル術。化学反応。心理戦術。
「勝てない……でも、逃げ切ればいい」
ページをめくる。罠の作り方。化学薬品の応用。相手の心理を読む方法。
完全記憶が、十年前の病院の構造を鮮明に蘇らせる。薬品庫の場所――三階東棟。隠し通路――二階と四階を繋ぐ職員用階段。使える部屋――検査室、手術室、MRI室。
「ここは私の庭だ。化け物相手でも――知恵で対抗できる」
瞳は深呼吸し、作戦を立て始めた。
まず、情報収集。敵の能力を観察する。
次に、罠の準備。薬品庫で材料を集める。
そして――持久戦。相手を消耗させる。
瞳は走り出した。まず向かうべき場所は決まっている。
旧薬品庫。三階東棟。そこには、まだ使える化学薬品が残っているはずだ。
廊下を走りながら、瞳は計算する。
距離は約五十メートル。障害物を避けて、一分以内。麗華の位置は――階段を上っている音。二階にいる。時間的余裕は二分。
角を曲がる。右へ。左へ。完全記憶がナビゲーションする。
十年前と同じ。変わっていない。
薬品庫の扉が見えた。
そして――背後から、足音。
麗華が、追いついてきた。
【残り時間:4時間58分】
生き残るための、長い夜が始まった。
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