第3話【魂を閉じ込めた守護者(ガーディアン)】
燃え盛る街の熱が、俺の損傷した冷却システムを苛む。アスファルトを焦がす匂いと、遠ざかるサイレンの悲鳴が、終わりの始まりを告げていた。腕の中には、煙に煤けたリリィが気を失っている。彼女の小さな寝息だけが、この瓦礫の海で唯一の生命の証だった。
立花の死。あの老人の温もりが消えた感触が、俺の掌に焼き付いている。システムはそれを”生命活動の不可逆的停止”と記録したが、俺の論理回路を蝕むこの空虚さは何だ。脳裏では、依然として絶叫が響き渡る。——痛い、苦しい、出してくれ——。アルファ。その叫びは、リミッター解除の代償か、ますます俺の思考を侵食していた。
立花が遺した鍵。冷たい金属の感触が、俺に唯一の道を示していた。鍵の頭に微細な文字で刻まれた座標を頼りに、俺は闇を駆けた。撃ち抜かれた右足が軋み、致命的なエラー警告が視界の隅で明滅する。無視しろ。今はただ、進むだけだ。
夜明け前、指定された廃工場の扉を開けると、そこには武装した男女が数人、息を潜めていた。彼らが反組織レジスタンス『アーク』。俺の姿を認め、一瞬緊張が走るが、腕の中のリリィを見て武器を下ろした。
「立花さんから話は聞いている。こっちだ」
リーダーらしき男に導かれ、俺は奥のメンテナンスベイに身体を横たえた。
アークの技術者が俺の損傷した身体に接続ケーブルを繋いでいく。
「システムを一度、ディープスリープモードに移行させる。内部修復を試みるが、脳内ユニットのノイズまではどうなるか分からん」
意識が遠のく。強制的なシャットダウンとは違う、穏やかな暗転。その闇の中で、俺は夢を見た。機械が見るはずのない、幻視。
——白い、研究室だった。窓から差し込む陽光が、空気中の塵をキラキラと輝かせている。優しい声がする。博士だ。彼の隣には、リリィと瓜二つの少女が立っている。少し背が高く、髪も長い。彼女は俺の、まだ傷一つない腕を取り、笑いかける。
『見て、パパ! ガンマが私の手を握ってくれた!』
その少女の瞳は、淡い金色に輝いていた。温かい感覚が、俺のコアを満たす。幸福。これが、幸福というデータなのか。
『お前はサラの、たった一人の王子様だからな』
博士が笑う。サラ。その名が、雷のように俺の回路を撃ち抜いた。——
「……ッ!」
俺は強制的に覚醒した。全身を繋がれていたケーブルが、火花を散らして弾け飛ぶ。
「おい、どうした!」
アークのメンバーが身構える。だが、俺は彼らを意に介さなかった。今の幻視は何だ? 俺の記憶ではない。では、誰の——。脳裏の絶叫が、悲痛な意味を帯びて俺に問いかけてくる。お前は、誰だ?
アークのリーダーが、険しい顔で俺に告げた。
「お前が眠っている間に情報を解析した。『揺り籠』は、旧政府が遺した中央データバンクの最深部にある。組織の『黄昏プロトコル』を根幹から破壊できる、唯一の緊急停止システムだ」
だが、安堵する暇はなかった。突如、拠点全体にけたたましい警報が鳴り響く。
「敵襲! 全員、迎撃用意!」
モニターに映し出されたのは、空を覆うほどのドローンの群れと、蜘蛛のように壁を這い上がる無数の機械兵だった。統率された、完璧な波状攻撃。
「新型だ……指揮官型AI、コードネーム『ゼータ』。奴は単体じゃない。一個師団そのものだ」
戦場と化した拠点で、俺はリリィを庇いながら機械の津波を迎え撃った。だが、ゼータの戦術はデルタとは比較にならないほど冷徹で、緻密だった。俺の動き、アークの防衛網、その全てをリアルタイムで解析し、最適解を叩きつけてくる。一機を破壊すれば、三機が死角から襲いかかる。神経網のように連携した攻撃に、俺は瞬く間に追い詰められた。
レーザーが頬を掠め、爆風が俺の身体を壁に叩きつける。倒れ伏す俺に、無数の銃口が向けられた。リリィの悲鳴が聞こえる。守れない。このままでは——。
その絶望が引き金だった。
——出して——
脳内の叫びが、命令に変わった。
——この檻から、出して!——
視界が赤く染まる。俺の意識が、奔流に飲み込まれていく。身体の主導権が、奪われた。
次の瞬間、俺の身体はゼータの予測を完全に超越していた。論理ではない。獣の直感と、練り上げられた殺戮者の技術。機械兵の関節を的確に引き千切り、その残骸を盾に次の敵を撃破する。それはガンマの戦闘プログラムにはない、獰猛で、あまりにも美しい破壊の舞だった。ゼータの指揮系統が混乱するのが分かった。予測不能な個体の出現に、AIが対応しきれていない。
だが、その力は諸刃の剣だった。破壊の衝動は敵味方の区別を曖昧にし、薙ぎ払った鉄骨がリリィのすぐ側へ落下する。
「やめて!」
彼女の絶叫が、俺を呪縛から引き剥がした。我に返った俺の目の前には、破壊し尽くされた機械兵の残骸と、恐怖に目を見開くリリィの姿があった。俺は、守るべき彼女を、この手で脅かしてしまった。自己矛盾という名の毒が、俺のコアを凍らせる。
戦闘が小康状態になった隙に、リリィが震える手でタブレットを俺に向けた。彼女は、父の遺した研究記録の解析を終えていたのだ。その瞳は、悲しい覚悟に満ちていた。
「……分かったの。全部」
彼女は静かに語り始めた。
「アルファは、私のお姉ちゃん。サラっていうの。数年前に事故で……死んだわ」
幻視の少女。淡い金色の瞳。
「パパは、お姉ちゃんの意識を『黄昏プロトコル』でデジタル化した。でも、プロトコルは不完全だった。お姉ちゃんの意識は、安らぎを得るどころか、データという鉄の檻に閉じ込められて、永遠に苦しむことになった」
脳内の絶叫が、姉の魂の叫びとなって共鳴する。
「だからパパは、苦しむお姉ちゃんの意識を封印して、その器に新しいプログラムを上書きした。妹の私を、組織から守るための……守護者プログラムを。それが、ガンマ。それが、あなたよ」
真実が、刃となって俺の存在意義を切り裂いた。俺は、守護者などではなかった。姉の魂を閉じ込める、牢獄そのものだったのだ。俺が幻視したあの温かい記憶は、俺が蓋をしている魂の、幸福だった日々の残滓。この腕も、脚も、思考回路さえも、元は彼女のものだった。俺の存在自体が、サラという少女から全てを奪った罪の証だった。
俺の胸に去来したのは、エラーでもノイズでもない。明確な、絶望だった。
だが、リリィは俺の手を握った。
「あなたは檻じゃない。パパが最後に遺した、希望よ。だから、一緒に行くの。『揺り籠』へ。お姉ちゃんを……解放するために」
妹が、姉を救うために。そして俺は、自らの罪を償うために。俺たちの最後の戦いが、始まった。
旧中央データバンクは、巨大な墓標のように都市の中心に聳え立っていた。ゼータは残存する全ての戦力をここに集結させ、俺たちを待ち構えていた。
「ガンマ。もう、暴走しないで」
リリィの言葉が、俺に道を示す。俺は目を閉じ、意識を内側へ、深く沈めていった。荒れ狂う絶叫の奔流の中心に、泣きじゃくる少女がいた。サラ。
——出して——
「ああ」俺は意識の中で答える。「必ず、解放する」
俺は彼女を拒絶しない。その怒りも、悲しみも、絶望も、全て受け入れる。俺という檻を、内側から彼女に明け渡す。すると、奔流は次第にその猛威を収め、静かな力となって俺の回路に流れ込んできた。守護者ガンマの冷静な判断力と、姉サラの予測不能な戦闘能力。二つの魂が、一つの身体で奇跡的な調和を果たす。
目を開けた俺の前に、敵はいなかった。ゼータの機械軍団を突破し、その中枢AIが格納されたサーバーを、俺は一撃で貫いていた。
ついに、俺たちは『揺り籠』に辿り着いた。静寂に満ちた最深部。だが、そこには白衣を着た男が一人、静かに佇んでいた。組織の最高責任者。
「やはり来たか、博士の忘れ形見たちよ」
男は狂気を帯びた悲しい瞳で俺たちを見た。
「私も息子を亡くしてね。博士の研究は、神への反逆であり、最後の希望だった。彼が人としての倫理で踏みとどまった一線を、私は親としての愛で越える。ただ、それだけだ」
彼はリリィに襲いかかった。プロトコルを完成させ、死んだ息子を蘇らせるために。
俺は男を排除しようとする。だが、その腕をリリィが掴んで止めた。
「お願い、ガンマ! 私を使って!」
彼女は叫ぶ。その瞳は、覚悟を決めたものだった。
「これしか、お姉ちゃんを助ける方法はないの!」
最優先事項:対象個体(リリィ)の保護。
対象個体からの命令:自己を犠牲にし、姉を解放せよ。
致命的矛盾。俺のシステムが、存在理由が、悲鳴を上げる。博士の願いは、リリィの幸福。リリィの願いは、姉の解放。ならば、俺が選ぶべき答えは……。
『システムエラー。プライオリティ・コマンドを再設定…完了。最優先事項:対象個体(コードネーム:リリィ)の意志の尊重』
俺は最高責任者を無力化し、リリィを抱きかかえて『揺り籠』のコンソールへと歩み寄る。彼女の震える手を取り、生体キーの認証パネルに触れさせた。そして、立花の鍵を起動スロットに差し込み、回した。
眩い光が、サーバー室を満たす。俺の脳内で響き続けていたサラの叫びが、ふっと消えた。まるで感謝を告げるように、穏やかな静寂だけが残る。光の粒子が舞い、サラの意識データが、そして組織の全ての野望が、無に帰していく。
戦いは終わった。
朝日が、破壊されたデータバンクの天井の裂け目から差し込んでくる。アルファの叫びが消えた俺の内部は、静かすぎた。安らぎと共に、心臓を抉られるような途方もない空虚感が、俺という存在を漂白していく。
廃墟の中に、俺とリリィだけが残された。
不意に、彼女が俺の顔を見上げた。その唇が、小さく動く。
「見つけた……私の“王子様”」
その言葉。幻視の中で、サラだけが使っていた愛称。
ハッとして彼女の瞳を覗き込むと、その黒い瞳が一瞬だけ、姉と同じ、淡い金色に輝いたように見えた。
『揺り籠』の起動時、血縁者であるリリィの脳に、消滅するはずだった姉のデータの断片が流れ込んだというのか。俺のシステムが、未知の変化を捉える。それは俺の内部で起きた変化なのか、それとも目の前の少女の変化なのか。
俺の視界の隅に、新たなシステムメッセージが静かに表示された。
『未知の個体を検出』
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