第一章 第三話
新しい学校での生活は、緊張と違和感の中で続いた。教室で怒鳴り散らす先生、そして、わたしと同じように心に影を抱える真央と沙織との、微妙な関係。
わたしは、二人と一緒にいるのが辛いと思いながらも、それが唯一の居場所だったから、必死でしがみついていた。優子たちに嘲笑されるより、ずっとよかったから。
放課後、靴箱の前で、沙織がわたしにぽつりと告げた。
「ねえ、亜矢ちゃん。真央が、亜矢ちゃんのこと嫌いなんだって」
「……え?」
わたしは、一瞬、何を言われたのか理解できなかった。真央は、いつもわたしに笑顔で話しかけてくれて、まるで一番の親友のように振る舞っていたのに。
嫌い。
わたしは、彼女たちと友達でいたいと思っていたわけではない。彼女たちの「普通じゃない」部分に、わたし自身の「普通じゃない」部分が引き寄せられただけだ。だから、友情に執着しているわけではない、はずだった。
それなのに、その言葉を聞いた瞬間、鋭いガラスの破片がまた心臓に刺さったような痛みが走った。
「どうして……?」
わたしは、震える声で尋ねるしかできない。
沙織は、感情の読めない、虚ろな目をわたしに向けた。
「わかんない。でも、真央、この前ね、私に言ったんだよね。『亜矢ちゃんの、ああいうところ、本当にイライラする』って」
「……ああいうところって、どこ?」
「さあ?でも、わたしも、最近亜矢ちゃんといると、ちょっと疲れちゃうんだ」
沙織の声は小さく、冷たかった。彼女の言葉に、わたしは初めて気づいた。最近、沙織は、わたしと目を合わせる回数が減っていた。話しかけても、すぐに意識がどこか遠くへ飛んでいってしまうような、拒絶のサインを見せていたのだ。
真央に嫌われ、沙織にも冷たくされる。
わたしは、絶望的な気持ちになった。
優子たちのような「普通の子」の集団から嫌われるのは、仕方がない。それでも、わたしと同じように傷つき、逃げているはずの「普通じゃないふたり」にまで嫌がられるなんて、わたしはもっと──。
わたしは、優子たちに嫌われたから「普通じゃない」のではない。わたしが、根本的に嫌われる要素を持っているから、どんな場所に行っても嫌がられるのだ。
「わたしは、普通じゃないふたりにも嫌がられるほど、普通じゃないのだ。」
この自己認識が、わたしの心を深い孤独に突き落とした。わたしは、新しい学校に来ても、以前よりもさらに深い、根本的な拒絶に直面していた。
わたしは強いストレスを感じるようになった。教室の冷たい先生の怒鳴り声、真央の偽りの笑顔、沙織の冷たい視線。全部が、わたしを追い詰める。
わたしは、そのストレスから逃れるために、小さなウサギのキーホルダーに執着するようになった。
白い毛並みで、目がボタンになっている、手のひらにすっぽり収まる小さなぬいぐるみ。このキーホルダーは、母がわたしの九歳の誕生日に買ってくれたもので、優子の「残酷なパーティー」の後に買ってきてくれたプレゼントだった。
わたしは、毎日、登校前にランドセルにつけたウサギを、手のひらで何度も握りしめるようになった。その柔らかい感触と、母が優しかった日の記憶が、わたしをかろうじて現実に繋ぎ止めてしまう。わたしは逃げたいのに、逃げるのが怖くて自分から一本の糸を切ることができない。
キーホルダーは、わたしが唯一、無条件の安心を感じられる対象になっていた。
学校の校則には、キーホルダー禁止とは書かれていない。けれど、誰もやっていないのにキーホルダーを付けるのはやはり「普通の子」の行動ではないと思う。
わたしは、それでもこのキーホルダーに、すがっていた。
だが、それはすぐに先生の目についた。
「北崎さん。その飾りは何?必要のないものは外してきなさい」
登校してすぐに、担任の先生に怒鳴られた。先生の怒鳴り声に、わたしはビクッと体を震わせる。
「先生すぐに外します」
わたしは、そう答えたものの、外すことができなかった。キーホルダーを外すことは、わたしを支えている唯一の柱を引き抜くことに感じる。わたしは、やり過ごせないほどの痛みを感じているのに、自分から壊れる勇気はない。
わたしは、先生の目を盗んで、キーホルダーをランドセルの横の小さなポケットに隠したり、登下校中だけ外側につけ、教室に入るときは内側に隠したりと、何とか隠そうと必死だった。
注意された時点で、辞めようと思った。けれど、一度執着してしまった心は、もうそれを手放すことが出来ない。わたしは、この小さなウサギに守ってもらわないと、あの怒鳴り声や、真央や沙織の冷たい視線に耐えられない気がしたのだ。
そして、今日。
わたしは、昼休みにトイレに行こうと、静まり返った廊下を歩いていた。いつ気づかれるか分からないから、安心できる瞬間がない。安心のために着けていたのに、余計に辛い。それでも外せない。廊下を曲がろうとしたその瞬間、向こうから一人の先生が歩いてくるのが見えた。
保健室の先生だった。
この新しい学校の保健室の先生は、前の学校の優しかった先生とは大違いだ。彼女は、体格が大きく、表情が常に硬い。生徒からは恐れられていて、特に規則に厳しいことで知られている。
わたしは、すぐに立ち止まろうとしたが、遅かった。彼女は、わたしのランドセルにチラリと目をやった。
わたしのランドセルのファスナーの金具には、うっかり外側につけたままにしていた、ウサギのキーホルダーが揺れていた。
「北崎さん」
保健室の先生の声は、低く、威圧的だった。その声だけで、わたしの心臓は凍りついた。
わたしは、顔を上げることができない。
「あなたのランドセルについているものは何ですか。以前、担任の先生からも注意があったはずですね。校則違反ではないにしても、ここは私立です。周りの生徒の模範となる行動を取りなさい」
先生の説教が始まった。わたしは、何も言い返すことができない。ただ、その場に立ち尽くし、冷たい視線を浴びるしかなかった。
わたしが、ようやく謝る言葉を絞り出した時、保健室の先生は、突然わたしのランドセルに手を伸ばした。
「規則を守れないものを持つ資格はありません」
わたしが止める間もなく、ブチッ、という嫌な音と共に、ウサギのキーホルダーは、ランドセルから引きちぎられた。キーホルダーを留めていた小さな金属の輪が、先生の力によって引き伸ばされ、ちぎれてしまったのだ。
「あ……」
わたしの口から、小さな声が漏れた。先生は、ちぎり取ったキーホルダーを、何の感情も込めずに、手のひらで握りつぶした。
「こういうものは、もういりませんね」
そして、先生は、そのままウサギのぬいぐるみを、廊下の隅に置いてあった、ゴミ箱の中に、何の躊躇もなく投げ入れた。
わたしは、その光景を、ただ呆然と見ていることしかできなかった。足元がぐらつく。視線が回る。立っていられない。
その場に倒れそうになるのを必死でこらえた。
わたしを支えていた、唯一の、最後の安心の拠り所。母の優しかった日の記憶。そのすべてが、無機質なゴミ箱の中に、一瞬で消え去った。
先生は、わたしを一瞥することもせず、冷たい声で言った。
「もう二度と、規則を破るようなことはしないでください。行きなさい」
わたしは、その場から動けなかった。わたしの意識は、もうその場にはなくて、わたしは沙織以上に「普通じゃなく」なった。ただ、ゴミ箱の奥底に投げ込まれた、白いウサギのぬいぐるみを、虚ろな目で見つめ続けていた。
わたしは、先生の冷たい背中が遠ざかるのを確認すると、よろめきながら、近くのトイレに逃げ込んだ。
個室のドアを内側から閉め、鍵をかけた。そして、その冷たい、狭い空間の中で、わたしは、張り詰めていたすべての緊張の糸が切れるのを感じた。
わたしは、声を出すこともできず、ただ膝を抱え、涙を流し続けた。大粒の涙が、制服のスカートを濡らす。
壊された。
わたしを支えていた、最後のものが、無慈悲に、何の悪意もなく、どこにも書かれていない「規則」という名の下に壊された。優子たちのいじめは、わたしを精神的に攻撃したが、この先生の行動は、わたしの「心の安全地帯」そのものを物理的に破壊した。
わたしは、もう、立ち直る方法を思い出せない。できない。外で怒鳴る先生も、笑顔の友達も、冷たい視線の沙織を気にする余裕ももてない。わたしは、わたしを支えるすべてを失った。
わたしは、ただ、その冷たいトイレの床の上で、下校時間まで泣くのを辞められなかった。 涙は、枯れることなく、わたしの頬を伝い続けた。わたしが、この個室から出て、あのウサギを取り戻そうとすれば、また先生に怒られる。そして、周りの生徒に「普通じゃない子」だと笑われる気がした。
だから、わたしは、ここにいるしかなかった。どんなに辛くても、わたしは普通を手放せない。誰にも見つからない、この狭くて暗い空間で、ただ、わたし自身が壊れてゆく音を聞き続けるしかなかったのだ。
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