プロローグ 第五話

誕生日は、いつもわたしの世界が一番不安定になる日だ。母は、わたしを産んだ日の苦労を延々と語り、「あなたのためにどれだけ犠牲を払ったか」をわたしに理解させようとする。そして、父がわたしにプレゼントを渡すと、「こんな安物で、美和ちゃんの将来に何になるの?」と必ず文句を言う。



だから、わたしは自分の誕生日が、一年で一番嫌いだ。

来ないで欲しいと、誕生日が近づく度に思うのが、今年で九回目になる。


それでも、来ないはずもなく、誕生日を迎えてしまった。


そんな誕生日当日、学校で信じられないことが起こった。

昼休み、美里と恵が、クラスメートの視線を集める中央の席で、わたしを待っていた。美里の顔には、いつもの冷たい嘲笑や、獲物を見つけた獣のような輝きは、全くなかった。代わりにあったのは、妙に甘ったるい、優しげな笑顔だった。

なにかやられる。そう思う。


「美和ちゃん、ちょっと」

美里が、わたしを教室の隅に呼んだ。わたしは、心臓がバクバクと脈打つのを感じる。きっと、また何か新しい意地悪が始まるのだ。母のヒステリーをネタにした、さらに陰湿な報復が待っているに違いない。

「……何?」わたしは、喉が張り付いたようにかすれた声で尋ねた。

美里は、両手をわたしの方へ差し出した。その手のひらの上には、小さくて可愛らしい、リボンで結ばれた小包が乗っていた。

それを見て、美里たちがニヤリと笑った。

「これ、誕生日プレゼントだよ」

「え……?」

わたしは、目を疑った。

美里が、わたしにプレゼントを渡した。いじめることにかけては天才的な彼女が、こんな「普通の親切」をするなんて、ありえない。わたしの警戒心は、最大級に跳ね上がる。

中を開けたら、変な虫が入っていたりしないだろうか。開けるのが怖くて手がプルプルとする。

「変なこと、考えてないからね?」恵が、わたしの表情を読んで、クスクスと笑った。「わたしたち、もう仲直りしたいなーって思ってるんだよ。だってさ、いつまでも美和ちゃんのママを怒らせるのも、わたしたちだって疲れるし。この前もさあ」

それは、わたしにとって一番の「餌」だった。母が怒る状況がなくなるなら。わたしが「ヒステリーの娘」と嘲笑されることがなくなるなら。

「ね、美和ちゃんさ、今日夕方からうちでパーティーするの!クラスの女の子何人か誘ってるんだけど、美和ちゃんは絶対来てよね。せっかくの誕生日なんだし、みんなでお祝いしようよ」

美里の言葉は、あまりにも魅力的で、そしてあまりにも恐ろしかった。

パーティー。みんなと仲直り。一瞬、わたしの頭の中で、「普通の子」に戻れる幻想がチラついた。しかし、すぐに、わたしの内側の「ガラスの破片」が鋭く叫んだ。

「罠かも……たぶん」

この優しさは、偽物だ。彼女たちが、わたしを泥沼に突き落とした後で、簡単に手を差し伸べるはずがない。この親切は、次にわたしをどれだけ深く傷つけるための、準備段階なのだろう。

それでも、断るのが怖くて戸惑う。

「あ、あのね。今日ままが……家にいてって」

わたしは、とっさに母を言い訳にした。母のヒステリーは、美里たちにとって最強の武器だが、時にはわたしを守る盾にもなる。

美里は、少し悲しそうな顔をした。

「そっかぁ。残念だなあ。でもさ、もうお母さんも落ち着いたんじゃない?大丈夫だよ、わたしたちがいるんだから。ね、やろうよ。プレゼントの続きもあるんだよ?」

「プレゼントの続き」その言葉が、背筋をぞくりと凍らせた。

それは、物理的なプレゼントではないかもしれない。


美里たちの企み。報復の第二ラウンド。

「大丈夫だよ、美和ちゃん。もう誰も、いじめたりしないって。約束する」


恵が、美里と腕を組みながら、甘ったるい声で言った。「ね、せっかくの誕生日なんだからさ。楽しく過ごそうよ」

わたしは、断り切れなかった。

拒否すれば、彼女たちの「優しさ」を拒絶したことになり、報復はさらに激しくなるのだろう。美里たちの世界では、「仲直り」を拒否するわたしの方が「空気が読めない、いじめられて当然の奴」にされるに決まっている。そして、また母のヒステリーをネタにされ、教頭先生に怒鳴られ……その恐怖に、わたしは耐えられなかった。

「わ、わかった。わかったから、行くよ……!」

わたしの口から出た言葉は、まるで自分の意思とは無関係に、勝手に飛び出したようだった。

美里は、勝ち誇ったように、ニッコリと笑った。昨日までの嘲笑よりも、もっと冷たく、底知れない、恐ろしい笑顔だった。

「じゃあ、放課後、うちまで一緒に行こうね」

放課後。

わたしは、心臓が胸を突き破りそうなほど激しく脈打つのを感じながら、美里の家に向かって歩いていた。彼女たちの家の前まで来ると、わたしは足がすくんで、一歩も前に出られなくなる。

美里の家は、大きく、モダンな造りだった。家の前の庭には、季節外れにもかかわらず、手入れの行き届いたバラの木が並んでいる。

美里は、そんなわたしを振り返ると、首を傾げた。

「どうしたの?美和ちゃん。ここで立ち止まっちゃったら、ママにまた何か言われるよ?」

その言葉が、最後の後押しだった。母に怒られることへの恐怖が、わたしの足を踏み出させた。わたしは、深呼吸をして、美里の後に続いた。

玄関に入ると、美里の母が、穏やかな笑顔で迎えてくれた。美里の母は、教頭先生に激しく怒鳴りつけたわたしの母とは正反対で、優雅で落ち着いた雰囲気の人だった。

この人にも、わたしの母のように何か影があるのだろうか。

わたしは美里の意地悪を想像して、そんなことを考える。

「美和ちゃんよね?いらっしゃい。美里から聞いたの、今日がお誕生日なんだね」

その優しさが、ますますわたしを不安にさせた。この母親の裏で、美里がどれだけ陰湿なことをしているか、この人は知らないのだろうか。それとも、知っていて黙認しているのだろうか。

美里の部屋は、二階だった。部屋に上がると、すでにクラスの女子が五人ほど集まっている。全員が、わたしをいじめてきた美里のグループの主要メンバーたちだ。

「美和ちゃん、遅いよー!」

「早く座りなよ!」

みんなが、異様に明るい声でわたしを迎えた。その明るさが、わたしの体温を一気に奪って行く。教室での孤立とは違う、「悪意に満ちた歓迎」の空気が、部屋全体を支配していた。

美里が、中央に置かれた大きなテーブルを指差した。テーブルの上には、豪華なケーキと、数々のプレゼントが並べられていた。そして、そのケーキの横に、わたしにとって最も異質なものが置かれていた。

それは、古くて薄汚れたビデオカメラだった。

「さ、美和ちゃん。主役はここに座るの」

美里が、わたしを椅子に座らせた。わたしは、座り心地の悪い椅子に身を預けながら、ビデオカメラから目が離せなかった。なぜ、誕生日パーティーにビデオカメラがあるのだろう。記念のビデオを撮るのだろうか。無理やり、そう思おうとする。

美里は、手に持っていたリモコンをカチリと押した。

すると、部屋の隅に置かれた大きなテレビの画面が、突然、明るくなった。

画面に映し出されたのは、わたしの家の玄関だった。

「え……?」

わたしは、息を飲んだ。映像は、少し離れた角度から、わたしの家の前を捉えている。どこかから隠し撮りされたようだ。

そして、その映像の中には、昨日の夜の美里が映っていた。筆箱を持って、ポストに押し込み、インターフォンを連打し、窓を叩く、あのシーンだ。

わたしの背中に、冷たい汗が伝った。美里たちは、昨日の行動を、全部記録していたのだ。

次の瞬間、画面の中の美里が、わたしの部屋の窓に向かって、唇を動かした。

「見ーつーけーた」

美里は、無音の口パクでそう言いながら、満足げに笑っていた。そして、その映像が終わると、テレビ画面には、次のような大きなテロップが表示された。

【美和ちゃんママのヒステリーをまとめました】

そして、新しい映像が始まった。

それは、数日前の、わたしと母がリビングで言い争っている様子を、隠し撮りした音声に合わせて編集された映像だった。母が怒鳴りつける声。わたしが、小さな声で言い訳をする声。そして、床に落ちたホコリを、母がヒステリックにわたしに突きつける、あの日常の光景だ。

わたしは、心臓が破裂しそうだった。

「や、やめて……!」

わたしは、思わず立ち上がろうとした。けれど、両隣に座っていた恵ともう一人の女子が、わたしの腕を掴んで、力強く椅子に押し戻した。

「美和ちゃん、せっかくの誕生日でしょ?わたしたちからのプレゼントなんだから、ちゃんと見なきゃ……」


「ゆるさないからね」


小さくそう聞こえた気がした。

美里は、ビデオカメラのリモコンを手に、冷たい笑顔を浮かべている。彼女たちの「プレゼント」とは、わたしの最も触れられたくない部分、家庭内の恥を、みんなの前で晒すことだったのだ。

わたしは、絶望と屈辱で、体が震えて止まらない。

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