伊那の庭には人が咲く
ゆいゆい
第1話 1日目
運転席から春先の陽が傾きかけた伊那谷が目に入った。空気はきりりと冷え、遠くの煙突から上がる白い煙が、まっすぐ天に昇っていく。
この町には派手なものも、急ぐものもない。町を歩く人々の姿を見て勘助はそう感じた。都会では決して味わえない景色に見とれている、助手席の幸子もそう思っていることだろう。長野県伊那市には、ただただ暮らしの匂いと、四季が重なってゆく音だけがあるのだと。
「上田。確か前に、退職したら長野に住みたいって言ってたよな。よかったら実家をもらってくれないか。汚いとこだけどな」
あり得ないような話を勘助に持ちかけてきたのは先輩警官の浜脇巡査長だった。もうかれこれ2年も前の話になる。
「浜脇さん。嬉しいですがなんでまたそんなお話を?」
「あぁ。実は俺はがんが進行しててな、もう寿命が1年って言われてんだ。たまに長野に帰ったら綺麗にしているが、俺が死んだら住む奴は誰もいやしねぇ。そんなの寂しいじゃねえか。なら、俺が信頼できる奴に譲り渡すってのが粋ってやつじゃねえか」
唐突に反応に困るカミングアウトをし、ガハハと笑いながら浜脇はタバコを吹かした。署内の端の端に小さく設けられた喫煙所にいるのは上田と浜脇の2人だけだった。いつもはもっとガラの悪そうな警察官がごろごろ集っているのだが、昨日発生した強盗事件に追われて署内の人員のほとんどが出払ってしまっている。
「それによ、俺は死ぬまで釣り人でありたいんだよ。長野じゃ海釣りが出来やしねぇ。もう警察手帳は手放すことになるだろうが、釣り道具だけは手放すつもりはねぇぜ」
「浜脇さんほど釣りがお好きな人は間違いなくいませんよね」
どう感情を示したらよいのかわからぬまま、勘助は浜脇の話にそれとなく反応した。
この時の浜脇の話を半ば冗談と捉えていたいたのだが、後日浜脇は本格的に話を進めるべく勘助の自宅へやってきた。ノンアポで。勘助も妻の幸子も浜脇の話を断ろうと必死になったが、結局は浜脇のゴリ押しに屈する形になってしまった。売買契約の締結やら登記申請やらを税理士介入のもと終え、浜脇が所有していた土地は勘助名義のものとなった。
浜脇がこの世を去ったのが去年8月のこと。享年61歳。彼は警官を辞めて以降も動けなくなるまで釣り人ライフを謳歌し、浜ちゃんのあだ名にふさわしい生き様を貫いてみせた。身寄りがいなかったが、多くの同僚に慕われていた彼の葬儀には多くの警察関係者が足を運んだ。もちろん、上田夫妻も。
そして今年3月。60歳で定年を迎えた上田勘助はおよそ40年に渡る警察人生に幕を下ろした。警視庁にて身を捧げていた勘助は、刑事課のみならず生活安全課、地域課など様々な部署を回ってきた。彼の警察官としての半生は、まさに順風満帆なものだと言えた。その一方、家庭を省みないで仕事に打ち込んだこともあって2人の息子との関係は良好とは言えず、もう何年も彼らは実家に足を踏み入れていない。もっとも、長野に引っ越す手前、32年住んでいたその借家を手放すことになるのだが。
「本当に綺麗なところねぇ」
「ああ、そうだな」
4時間以上かけて運転をした勘助が、疲労を感じながらも景観を視野で捉える。ここは伊那市の中央部にあたり、南北を貫く飯田線からはそこそこに離れている。国道152号線沿いに譲り受けた平屋があるのだが、周囲には林や畑が目立ち、そしてそばには県を代表する一級河川の藤沢川が蛇行している。目視できる家屋は数えられるほどであり、店は一軒たりとて視野に入らない。生まれて60年都内で住み続けてきた勘助にとって、まさに異郷とも言える世界であった。
「あなたぁ、これ持ってぇ」
「ちょっと待ってろ」
「あ……あとこっちも!」
近所(とは行っても3件しかないのだが)に挨拶を済ませた夫妻は、車内に積んでいた荷物を住居に運んだ。業者に頼んでほとんどの荷物を発送済であったので、その量は大したことはない。
ただ、高齢にもなると、こんな些細な作業でさえ身体に堪える。まして幸子は変形性膝関節症を患って右膝に人口膝関節を入れている。勘助と同年齢なのだが、体格が大きいからか膝に相応の負荷がかかり続けていたらしい。幸子は手術により歩行が楽になったものの今度は左膝を痛め始めている。これまでは鎮痛薬をクリニックで注射してきたが、いつ手術適応となってもおかしくはない。散歩が好きな幸子にとって辛い状況だ。
「あなた、見て。ほらぁ」
「わかってるわ」
一息ついた幸子が指さして興奮していた。もう何度も来ているというのに、幸子は来るたびに傷んだ膝をぴょんぴょんさせてはしゃいでいる。
浜脇から譲り受けた平屋の最大の魅力は、その広大な庭にある。2.0ヘクタールを超えるその広さは管理こそ大変だが、農業家畜ゴルフ……やろうと思えば何でもできてしまう。浜脇が若い頃は様々な家畜を育てていたらしい。この広すぎる庭を使い、一足早い老後生活で何をやろうか……勘助は妻同様、わくわくを隠せなかった。
食材は自宅から南に走ったところにあるスーパーで買い、幸子が鮭の塩焼きやきんぴらごぼう、豆腐の味噌汁を作った。勘助には卵焼きさえ作ることができない。
食器洗いや風呂の準備も幸子がこなしており、勘助は茶の間で新聞を開きながらコーヒーを嗜んでいた。幸子がすべての家事を担うのは東京にいた頃となんら変わりない。これが上田家にとっての当たり前だった。
「じゃあ、おやすみなさい」
「ああ」
膝をかくかくさせながら幸子がベッドに入る。もともと布団であったが、膝を悪くしてからベッドを購入したのだ。勘助は布団を変わらず使用しているので、同じ部屋にいながら寝具は異なることになる。いつか勘助もベッドを使うことになるだろうが、それは今ではない。度々勘助は自分にそう言い聞かせていた。
午後10時、明かりを消して二人は眠りに就いた。寝入りが早い二人は、すぐに夢の世界へ飛んでいった。
これが、伊那市に移り住んだ二人にとって、平穏な最初で最後の一夜となった。
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