第20話 ジム友
それから数日後。
仕事終わりのサラリーマンたちがちらほら歩いている時間帯に、いつものようにジムの自動ドアをくぐった。
「いらっしゃいませー」
受付に会員証をかざしてから、ロッカーで着替える。Tシャツにジャージ。鏡を見ると、まだ「イケオジ」と胸を張れるほどじゃないけど、少なくとも「疲れ切ったお荷物おじさん」ではない顔が映っていた。
「……よし」
自分にだけ聞こえる声で気合を入れて、フロアに出る。
今日は上半身の日だ。軽くランニングマシンで汗をかいてから、ベンチプレスとラットプルの予定。
「あっ……!」
視界の端で、誰かが小さく息を呑む気配がした。
振り向くと、そこに彼女がいた。この前、筋肉タンクトップに絡まれていた女性、あの時お礼を言われて名前を教えてもらった。
「……えっと」
イヤホンを片耳だけ外して、彼女はおそるおそる近づいてきた。
肩くらいの長さの髪をひとつにまとめて、Tシャツにレギンス。いかにも「仕事帰りのOLが頑張ってトレーニングしてます」という雰囲気だ。
よく見たら、ジム支給の会員リストバンドには「TOKUNO」と書いてある。
「あの、この前は、本当にありがとうございました」
ぺこりと頭を下げられて、慌てて手を振る。
「あ、いえいえ! たまたま近くにいただけで……」
またそれ言ってるな、俺。偶然だけど、声をかけたのは自分の意思だ。
「いえ、本当に助かりました。あの時、怖くて……何も言えなくて。落合さんが間に入ってくれなかったら、たぶん、ずっと嫌な思い出になってました」
落合、って名字をちゃんと覚えてくれていたことに、変なところで驚く。
「えっと……徳野さん、でしたっけ」
「はい。
桜が春っぽい。彼女の柔らかな雰囲気と相まって似合っている。
栗色の髪がカールしていて、ふわふわでかわいい女性だと思う。
「いつも、ランニングマシンの端っこにいる人ですよね? わたし、ジム初心者で……あの日、ちょっと調子に乗ってダンベルに手を出してしまって」
はにかみながら笑う。その笑い方が、危なっかしくて、見ていてちょっとドキドキする。人懐っこいと言えばいいのか、警戒を解いてくれたんだろうな。
【新規人物データ】
氏名:徳野桜
職業:OL(推定/スーツ率高)
年齢:20代半ば(推定)
ジム歴:新人
印象:真面目/ちょっと不器用/人に遠慮しがち/警戒心は強いが頼りになる相手を見つけると後に突いてくるタイプ。
【感情ログ(相手側推定)】
・救ってもらったことへの感謝:高
・安心感:中〜高
・恋愛感情:未判定(※まだ早い)
【コメント】
・モテないお荷物おじさん、いきなり「ヒロイン扱い」するな。落ち着け。
システムのログに殴ってやりたい気持ちになる。
「筋肉の人……その、どうなりました?」
口に出していいのか迷っている顔で訊ねてくる。
「ああ、剛田さんですか?」
篠田トレーナーがそう呼んでいたのを思い出す。
「スタッフの人がちゃんと注意してくれて、今は出入り一旦止めてるって聞きましたよ。会員規約に引っかかってたみたいで」
「……よかった」
徳野さんの肩から、目に見えて力が抜けた。
「それも、落合さんがちゃんと声出してくれたからですよね。わたし、多分、一人だったら、ただ怖かったってだけで終わってました」
真正面から礼を言われると、こっちが照れる。
「あ、いや、その……俺も、昔、似たような場面で何もできなかったことがあったので。今度は、ちょっと頑張ってみようかなって、それだけで」
「……すごいです」
即答だった。目をキラキラとさせて、嬉しそうな顔をしている。
「わたし、いつも『怖いから』って逃げちゃうので……。ちゃんと動ける人って、尊敬します」
【行動評価】
・異性から「尊敬」のラベルが貼られました。
【好感度解析(暫定)】
徳野桜 → 落合昂
・安心感:+
・感謝:++
・尊敬:+
・恋愛:0(※まだだ。焦るな)
【報酬】
・努力ポイント+10(確定)
・「異性からのポジティブ評価」補正フラグ:ON
【コメント】
・女性から好意を寄せられるには、「まず人として安心感」と「行動」が大事です。外見だけじゃダメです。
……おい、お前、なに勝手に解説してんだよ。
思わず小声でツッコんでしまう。
「え?」
「あ、いや、なんでもないです」
いかんいかん。徳野さんの前でシステムに話しかける変なおじさんになってしまうところだった。
「あの、もしよかったら……」
徳野さんが、もじもじと手元のタオルをいじりながら、視線を上げたり下げたりしている。
やめろ、その仕草はおじさんの心臓に悪い。
「わたし、ほんとに初心者で……マシンとかも、いまだにちょっと怖くて。トレーナーさんに聞けばいいんだろうけど、なんか忙しそうだし……」
「まあ、手いっぱいそうですね」
篠田さんは他の人の指導にあたっていた。
「その、落合さん、もしご迷惑じゃなかったら、マシンの順番とか教えてもらってもいいですか? どこからやるのがいいとか……。同じ初心者同士、ってことで」
同じ初心者。その言葉が、妙に嬉しかった。
ジムにいると、いつも周りが「できてる人」に見える。筋肉の量も、ランニングマシンの速度も、フォームも、全員が自分より何歩も先を行ってるような気がしていた。
その中で、「同じ」と言ってくれる人がいる。
「もちろん。俺も、まだ最近始めたばっかりなんで、大したことは言えないですけど……一緒に回ります?」
「はいっ」
ぱっと顔が明るくなる。さっきまでの遠慮がちモードから、一瞬だけ素に戻ったみたいな笑顔に、心臓がまた一つ跳ねた。
【新クエスト】
タイトル:ジム友を作れ、イケオジ候補。
【内容】
・同じ初心者仲間として、徳野桜さんと一緒にトレーニングを行いなさい。
・筋肉マウントではなく、「分かる範囲で」を徹底しなさい。
・ドヤり禁止。褒め方と励まし方を学びなさい。
【報酬】
・努力ポイント+20
・「人間関係スキル」経験値
・徳野桜さんの好感度:上昇の可能性大
【コメント】
・これぞ「ラブコメの入口」です。調子に乗るな。いいか、絶対に調子に乗るな。
お前、ナレーションがうるさい! 心の中で殴りつけてから、俺は笑顔を作った。
「じゃ、まずはウォーミングアップからですね。ランニングマシン、いつもどれくらいの速度で歩いてるんですか?」
「えっと、いつも時速5キロくらいで、30分歩いてます」
「じゃあ、今日は最初の10分だけ、一緒に9キロで軽くランニングをしてみますか? キツかったらすぐ落としましょう」
「9キロ……わ、未知の領域です」
なぜか楽しそうに言う。二人で並んでランニングマシンに乗る。
スタートボタンを押して、ベルトが動き出す。速度を揃える。
「あ、意外と……いけます」
「きつくなったら、ちゃんと言ってくださいね。無理しすぎると続かないので」
自分で言って、ちょっと笑いそうになる。以前の俺なら、「続ける側」ではなく、「三日坊主側」のセリフだったはずだ。
「落合さん、なんか、トレーナーさんみたいですね」
「いやいや、まだ自分のことでいっぱいいっぱいですよ。日々、勉強しているだけです」
そんな会話を挟みながら10分歩いて、10分走って、また10分歩く、体温と心拍が上昇するのを感じて軽く汗が出てきた。
続けて、マシンのエリアに移動する。
「胸や背中とか、大きい筋肉から鍛えるといいって聞いたので、俺はいつもこの辺からやってます」
「へぇ……。わたし、いつも適当に空いてるところに座ってました」
「まあ、それでも動かないよりずっといいですけどね」
ベンチプレスのマシンに座り方を教えたり、ラットプルダウンのバーの握り方を確認したり。
俺が教えられることなんて、本当に基礎の基礎だ。それでも、徳野さんは「なるほど……!」「分かりやすいです」と、いちいち真面目に反応してくれる。
「すごい……。ちゃんと効いてる感じがします」
ラットプルのバーを引きながら、彼女が小さく唸る。肩甲骨のあたりを意識して、って教えた通りにやろうとしているのが分かる。
「その調子です。あと2回、いけそうですか?」
「いけますっ……2回、がんばります……っ」
最後の1回で、顔をしかめながらもちゃんと引ききる。その瞬間、隣で見ている俺のほうまで、なぜか嬉しくなる。
【人間関係ログ】
・一緒に「がんばる」経験:共有
・共通話題:「筋肉痛」「ジム初心者あるある」など:増加見込み
【好感度変化(推定)】
徳野桜 → 落合昂
・「一緒に頑張れる人」フラグ:ON
・安心感:+
・楽しさ:+
【報酬】
・異性からの好意を伴う「共同作業」達成により、努力ポイント+30(大)
【コメント】
・女性からの好意を含んだ評価は、あなたの自己救済において非常に大きなブーストとなります。
・※ただし「勘違い暴走モード」に入ると即ペナルティです。落ち着いてください、お荷物おじさん。
……努力ポイント大って、なんか生々しいな。
心の中で苦笑する。
でも、分かる。
誰かと一緒に笑いながら頑張ってるだけで、さっきよりも世界が少し広くなった気がするからだ。
ひと通りメニューを回り終わったところで、ストレッチスペースに移動する。
床にマットを敷いて、太ももと肩を伸ばす。
「はぁ〜……明日、絶対筋肉痛ですよ、これ」
「じわじわ来ますよね。でも、その痛み、ちょっと気持ちよくなってきません?」
「分かります……! あれ、なんか変ですよね? 『あ、ちゃんと生きてる』って感じがして」
その言葉に、胸の奥が少しだけ温かくなった。
「分かります」
本気で。この痛みを感じていると、屋上から落ちたときの「何も感じない真っ暗」とは、全然違う。
ちゃんと、今、生きてる。
「もしよければなんですけど」
ストレッチをしながら、徳野さんが少しだけモジモジし始めた。
再び、おじさんの心臓に悪いやつだ。
「な、なんでしょう」
「その……わたし、ほんと続かないタイプで。英会話も、ヨガも、だいたい三ヶ月くらいで自然消滅しちゃって……」
それ、昔の俺そのまんまだな。
「だから、その……」
徳野さんは、一度深呼吸してから、えいっとばかりに言った。
「よかったら、またこの時間帯に来ます! 落合さんも、同じくらいの時間に来てることが多いですよね? お互い、サボりそうになったら『今日行きます?』的な、そういう……」
「ああ、ジム友みたいな」
「はい! 新人ジム仲間として、一緒に頑張りましょうね!」
最後の一言に、ぱっと笑顔が弾けた。
その笑顔を真正面から浴びて、俺は、少しだけ遅れて頷く。
「……はい。よろしくお願いします」
【新たな関係性】
・「ジム友」:成立
・「お互いに新人として、一緒に頑張る」約束:締結
【長期予測】
・一人で頑張るより、継続率:大幅アップ
・徳野桜との距離:少しずつ縮小見込み
【コメント】
・「女性から好意を寄せられて努力ポイント大」とは、こういう小さなところから始まります。
・この関係を大切に育てなさい。焦って一気に距離を詰めると、フラグが折れます。
「分かってるよ……分かってるって」
心の中で苦く笑う。
でも、たしかに、その通りだ。大恋愛とか、ドラマチックな出会いとか、そんなものは今の俺には似合わない。
ジムの隅っこで、初心者同士として「一緒に頑張りましょうね」と言い合える関係。それだけで、十分すぎるくらいだ。
「じゃあ、また来ますね。この時間に」
「はい。また」
最後はストレッチを一緒にして、徳野さんが、軽く手を振って更衣室のほうへ歩いていく。その背中を見送りながら、システムのウィンドウがそっと開いた。
【今日のまとめ】
・筋トレ:良好
・武術:今日はオフ
・栄養:これから
・人間関係:大きな進展あり
【総合評価】
・「お荷物おじさん」→「ちょっと頼りになるジムのおじさん」への第一歩
俺は、思わず笑ってしまった。
「……悪くないな、そのクラスチェンジ」
もう一度だけ、ダンベルラックの前に立つ。いつもより少しだけ背筋を伸ばして、今日のトレーニングの締めを始めた。
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