陽の寂然、漂いの稀薄、吐息の静謐

八坂卯野 (旧鈴ノ木 鈴ノ子)

Il silenzio solare, la rarefazione del fluttuare, la quiete del respiro. ーYasaka uno

 吐き出す息は心音のようだ。

 全身を巡る血熱はすべてを満たしつくして、不自然に溜まった皮膚の、その詰まりを、正しさで溶かしゆく。

「リサ、大丈夫?」

 同じ吐息の先を行く男が振り返った。額の汗と痩せた頬の無精ひげが、末期の病人のように見える。

「ええ、大丈夫、でも、そんなに体力があるとは思わなかったわ」

「病み終えてから鍛えてる」

「それは知っておくべきだったわ、昨日の私に是非とも伝えてあげたい」

 男はそれに返事をしなかった。ただ、深く頷いて唇を意地悪く尖らせて笑う。リサと呼ばれた女は、笑った口元に指を添えて骨と皮だけのそれを抓った。

 指先が毛虫にでも晒されたような気がした。しなるそれは彼の体が整ってないことを物語った。

「痛いよ」

「それくらい、我慢して」

 振り払うことなく、男はただそう溢して、女はただそう震わせながら呟く。

「どうして、連絡をくれなかったの」

「さぁ、どうしてだろうね」

 男が高みを眺め、後を女が追う。

 常にそうだった。

 男は勝手気ままに先を行き、女も勝手気ままに追う。

 フラフープのように、すい星のように。

 だが、邂逅点は必ずあって、男も女も互いに必ず邂逅点で出会った。

 予定を擦り合わせるように、開演時間に指定席にいるように。

「リサ、今日は帰らなくていいの?」

「ねぇ、酷く意地悪なことを聞くのね」

「君には仕事があるだろう」

「馬鹿ね、今はこんな仕事をしてるの」

 合えば必ず互いを心配した、出会った情熱で互いの身を焦がしつくして、翌日の昼まで燃え燻ぶるのに。

 スマホから自らの写った写真を選び出した女はどこか誇らしく、されど、少し寂しそうにそれを魅せた。

 在日本イタリア大使館のホームページだ。そこの職員名簿の列、その下部に女はいた『軍事アドバイザー、リットリア・カルパット』と名が記され、チャーミングな笑顔で微笑んでいる。

「退役したの!?」

「そうよ、あなたと一緒」

「それは、違う」

 唄うように女は口にして、男が遮るように荒げる、けれど、唄うことを女は辞めなった。

「馬鹿ね、一緒よ。Sottotenente di Vascello Yoshihito Takahara, Marina di Autodifesa Giapponese」

 踵を鳴らしあの日と変わらぬように、女は男に右指を伸ばし揃え、眉の横へと傾けた。

「懐かしいね」

 男は返礼を返さなかった。

 いや、民間人であることを周囲に知らしめるように、小さくお辞儀をする。

「もう、軍関係に戻らないの?イタリアもバチカンも、なにより私の父母もあなたを心配してるわ」

「どうして?小さな島国の日本人に、そこまで気にすることはないと思うんだけど……」

「Ma non dire sciocchezze!」

 撃鉄を落としたような、鋭い言葉が放たれ、女の目が潤んでいた。

「落ち着いて、ゆっくり息を吸うといいよ」

「ごめん」

 隣に立った男が女の肩に手を回し、引き寄せられた女は、男の熱を奪うように腕を回した。

 風が二人を包むように抜ける、秋の冷えた風だ。

 女の熱を冷まし、男の人生を冷まし、二人を断った、世間という風のようでもあった。

 幼子のように張り付いたままの女の背を摩りながら、男は天を見上げる。

 長方形に長く続く天は青い、かなりの高みに、絹糸のような雲が、ジェット気流によってカーテンのように揺れ消えてゆく。

 ここは参道で、美濃の山中、山之上に鎮座された神社の石段の中ほどであった。

 杉林に囲まれた、静かな中に二人は取り残されるようにして、留まっている。

「リサ、落ちついた?」

「ええ、ちょっと極まっただけ、どうしても許せなかったの、分かって」

「ごめん、僕も気を付けるよ」

 身を離す間際にそっと唇を重ねる、神域で行う行為としては些か罰当たりだけれど、今は許して頂くしかない。

 どうしても必要な行為なのだから。

「あれから3年か」

「ええ、もう、3年よ……」

 振り返れば眼下の石段の始まりに大鳥居が見えた。

 竹のように節を持つ銅版を巻かれた、刻の洗礼によって生じたくすみを、陽の濃淡によって輝かせては、神聖さを魅せる。

 横綱の腰縄の如き注連縄も、陽に干されて色落としを済ませて、人肌のように生きた白さがあたたかい。

 首を上げれば、山々の頂をいくつも過ぎた先に、名古屋のビルディング街が、蜃気楼のように揺らぎながら見えていた。

「あれはどこ?」

「きっと名古屋さ、一昨日、君を迎えに行った駅だよ」

「ここからでも見えるのね」

「ああ、見えるんだね、これは僕も知らなかった」

「ここは静かね」

「静かなところにしか行かないんだ。都会は、酷く疲れる」

 男はその場に腰を下ろして、女はそれに沿うようにする。

「あの時、撃たなければ良かったと思うことはない?」

 きっぱりとした口調と射抜く視線が、男に放たれた。

「それは、ない」

 受け止めた男の貌は柔和を失い、ただ、厳しく固く、岩のように締まって、そして言葉には重さがあった。

「あの時の射撃は、間違っていない。誰が何と言おうと、僕は正しいことをした、僕の意思で、僕の体は動き、僕が放った、これは誰も否定することも、肯定することも、もちろんリサにも、何も言わせない」

「なら、いいわ、もう、二度と聞かない」

「ありがとう」

 女はそっと右腰に下げているポーチに手を添えた。

 そこには財布とパスポートが入っているのだが、財布の中に一枚の新聞記事が大切に織り込まれている。

『L’ufficiale giapponese che ha scelto di non voltarsi: due vite salvate al confine del Vaticano.』(背を向けなかった日本の士官・バチカン国境で救われた二つの命)

 タブロイド紙から「La Repubblica」や「Corriere della Sera」でさえも騒ぎ、女の右胸と男の左肩に傷跡をつけた。

 とてもドラマティックで、うまくいったのならきっと、そう、きっと素敵な物語として語られただろう。

 でも、幸せに終わるのは物語の中だけだ。

 あの日の、バチカン国境近くのコンチリアツィオーネ通りはいつも通りの日常で溢れていた。

 世界各地のバチカンへ向かう巡礼者、ビジネスマンや観光客、土産物店やカフェからの喧騒、いつものイタリアがそこにあった。

 女はイタリア海軍の軍人で細やかな連絡任務のため、海軍の紋章の入ったカバンを持ち、腰にBeretta Px4 Stormを吊り下げていた。

 軍務の中でも比較的に儀礼を要求される任務であったため、ラフな軍装ではなく、正式な軍装を身に着け、磨かれた革靴と白一色のドレスユニフォームの出で立ちは、スタイルとも相まって観光客の視線を引き、ときよりスマホやカメラを向けられることもあった。

 歩いていくことになってしまったのは、列車が故障し、交通機関はマヒ状態に近い酷いことになってしまったためだ。

 近くではPolizia(警察) と支援要請を受けたCarabinieri(軍警察)が交通整理で駆り出されている、クラクションと運転手の罵声を覗けば、普段通りの喧騒だったというのに、それは突然にやってきた。

 背後から轟音が轟き、やがて、物理の教科書のとおりに衝撃波がやってきた。身構える間もなく吹き飛ばされた女は路上に倒れ込み、体を酷く打ち付けてしまったけれど、意識が途切れることはなかった。

 劈かれた耳に間延びした銃声が響く、誰かが乱射している音で、痛みの続く頭にスローモーションの映像が霞む、軍警察の警察官が撃たれ崩れ落ちる、立つことは危険に思われた、石畳の上を引き摺るように身を進ませて、はたと異音が耳を裂く。

 女の子の泣き声だった。

 盛大に母を求める大声を追えば、カフェの先、人々が倒れている中に、倒れた母に縋る小さな手と身が揺れていた。警察官が救い出そうと駆けつけようとするが、そこは乱射している犯人たちの射線上にあるらしい。

 スナイパーの餌にされた兵士を、他の兵士が助け出すために死んでゆく。

 そんな光景に等しかった。

 ただ、餌は兵士ではない、5歳ほどの小さな女の子だ。

 必死に母を呼び揺らし、小さな手が小さな声が助けを求めている。

 女の体は自然と動いていた。

 きっと訓練であったなら教官にこっ酷く指導されたことだろう。

 ただ、飛び込んだだけではなかった。拳銃を使い非力ではあったが、牽制射撃を行いながら駆け寄り、女の子の元へ駆けつける。

 母親は事切れていた。

 驚愕に見開かれた目と首を撃ち抜かれて血を染み込ませ色変わりしてしまった衣服、縋るように揺れ動かす少女の手は、真っ赤に染まっている。

「よく頑張ったわね、でも、離れないと」

 努めて冷静に、そして、あたたかみを失わない、母性に溢れた声が自然と口をつく。

 けれど女の子は母親から離れようとせず、必死にその衣服を握りしめる、母を置いていかないと明確な意思表示だった。

 パンっと敵に向けていた拳銃が撥ねた。そして、直後に右胸のあたりに鈍痛とやがて深い痛みとあたたかさが流れ出す。

 被弾したと悟ったが、もうどうしようもない、女の子を引き寄せ、せめて盾になろうとした矢先のことだった。

 視界の端に誰か立っていた。

 この戦場で非常識なほどにまっすぐに地に足をつけた出で立ちは、近くにある槍を持つ男性像の英雄のように力強く見えた。

「日本人?」

 制服姿だった。

 ローマで行われた伊日合同救机上訓練で見た姿の男だった。確か、バチカンを表敬訪問すると聞いていた、でも、まさかここにいるとは思わなかった。

 乾いた銃声が2発、そう、廻の喧騒が消えて、銃声だけが女の耳に届いた。

 そして、すべての音が止んだ。

 男の左肩が赤く染まった。銃声の先を見れば、あれほど場を支配していたテロリストの二人は姿を消して、いや、崩れ落ちて近くの人々によって取り押さえられていた。

 ふっと吐息を漏らすと、女の意識はあっという間に闇に飲み込まれた。

 目を覚ますとローマ市内の病院で手術を終えて、柔らかなベッドの上に横たわっていた。看護師の詰め所に視線を向ければあの日より4日が過ぎ去っており、事件の余波は報道されているようだが、やや、収まりつつあるように思えた。

「目が覚めたの?」

「お母さん」

 涙を溜めた母の顔が現れてすぐ、自らもあの5歳の女の子のように母に抱き着き、生きていることへの感謝を神へ捧げるように、母の愛を浴びた。

 母から多くの事柄を教え込まれるように、いろいろな事後の話を聞き、軍の上司や、バチカンから遣わされた神父と話し、そして、最後の最後に、どうしても気なっていることを口にできたのは、1ヵ月の入院を終え、勲章の授章式を控えた前日のことだ。

「パウロ神父様、あの、拳銃を撃った日本の士官はどうなったのですか?」

「それは……」

 神父は言い淀み、視線が宙を蝶のように舞う。ニュースサイトやSNSでどこから撮影されたのか、射撃をしている軍人の姿があり、それは間違いなく日本の士官の制服だった。

「これも神の思し召しです。お話いたしましょう、最初はこの病院に運び込まれたのです。ですが、処置を終えてすぐ、大使館の武官が迎えに来て、そのまま、本国へと連れ帰ってしまいました。バチカンの勅使が翌日にお見舞いに訪れることを周知してあったというのにです」

「無礼ですね……」

 勅使がお見舞いに訪れる、それだけでも大変に栄誉なことだ。公的な感謝を告げられることだというに、なぜ、海上自衛隊はそんなにも事を急いたのだろうと訝しむと、察したように神父は『三重冠に交差した鍵』の教皇印が記された1通の書状を取り出した。

「我々は公式に言葉を伝えるために、日本政府に書簡を送りました。これが、その返答を纏めたものになります」

 ひも解けば、そこに記されていたのはラテン語だった。

 すっと背筋が伸びる、これはバチカンの公式記録として残される、そして、公式記録はラテン語で記されるのだ。

『日本政府、及び、日本防衛省、海上自衛隊より、下記の公式発表があり。

 調査対象者:高原良仁二尉について

  令和〇年〇月〇日

 防衛省人事教育局

 自衛官の懲戒処分について(発表)

 防衛省は、下記のとおり、海上自衛官に対し懲戒処分を行いましたのでお知らせします。

【処分対象者】

 海上自衛隊 第〇護衛隊所属

 二等海尉 高原 良仁(たかはら よしひと)

【処分内容】

 懲戒免職(自衛隊法第五十二条第一項第一号)

【処分年月日】

 令和〇年〇月〇日

【事案の概要】

 当該隊員は、令和〇年六月〇日(現地時間)イタリア共和国ローマ市内において、国際合同救難訓練の任務終了後、帰路の途中、現地警察(Polizia di Stato)とテロリストとの交戦に遭遇し、負傷者救出中に所持する拳銃を用い、武装した犯行者を射殺したものです。

 本件行為は、現地法上の正当防衛として処理され、イタリア当局より不起訴の通告を受けておりますが、我が国自衛隊法における武器使用及び命令遵守の原則に反する行為であり、統制維持の観点から重い懲戒の対象となるものです。

【処分理由】

(1)任務命令外における武器使用(自衛隊法第百二十一条)

(2)服務規律違反(同法第六十一条)

(3)隊員としての信用失墜行為(同法第六十二条)

【備考】

 当該隊員の行為により、現地市民二名が救助されたことは事実であり、防衛省としてもその勇気と人道的行為を否定するものではありません。しかしながら、自衛隊は法令に基づく組織であり、いかなる状況下においても命令系統を逸脱した武器の使用は容認できません。

 今後、同種事案の再発防止に向けて、

 海外派遣隊員に対する法規教育及び行動規範の徹底を図ります。以上。』

「こんな、理不尽……」

「それが、組織としての正義なのでしょう。間違いのない正しさなのかもしれません。ですが……」

 神父はその先の言葉を発せず、静かに胸元で十字をきり、そして、祈るように目を閉じた。

 面談を終え入院最後の夜、病室の窓から女は空を眺めた。

 白い月が暗闇の夜空で眩しく輝き、それは町の光に幾ら地表を照らされようとも、その自らの輝きを失うことはない。

 きっと男もそうなのだ。

 男は何も言わずに、淡々と軍を去った。どうやら、日本では人命よりも規範に重きが置かれ、そして、その理不尽さはイタリア軍をも凌ぐほどであるらしい。戦わない軍隊だからこそのしがらみであるかもしれない、と神父様は口にしていたが、どうなのだろう。

 イタリアは戦争放棄を憲法に盛り込んでいる。そこは同じだ、悪の枢軸と非難された時代とは違い、イタリア軍はNATOともに協調路線を、平和に向けての戦いを挑んでいる。

 戦わないことを選んだ日本はどうなのだろう。他国のことを他国の軍人がどういってもお門違いだ。

 だが、少々、萎縮しすぎではないのだろうか、国際社会から、近くでない、遠くからも見た、自国の姿を直視できずに、幻影に縋り続けて、他人の痛みに極力かかわろうとしないその姿勢は、如何なものだろうかとも思う。

 だが、結局は軍隊を作るのは国民である。きっと日本国民がそう求めているのだから、しかたのないことなのだろう。

 女は売店で一つの便箋を買った。

 そして病棟の床頭台で4時間ほどをかけて、真摯に男に対しての感謝をしたため、在イタリア日本大使館の武官に託すことにした。

 純粋な気持ちだけのそれを、翌日も来てくださった神父様を通じて託したのだ。

「間違いなく、お渡ししましょう」

 力強い言葉の裏打ちどおりに、その年の暮れ、一通の和紙でできた封書が海を越えてやってきた。

 メイプルの透かしの入った美しい封筒に、日本語とたどたどしいイタリア語の翻訳がついていた。

 そのたどたどしさに誘われるように、電子メールではない、手紙だけの、文通うという昔ながらの手法で、連絡を取り合い、互いの心を触れ合わせ、そして深め合った。

 伊日合同救難訓練のために、女は日本の地にやってきた、休暇を貰い上陸許可を受けて、初めて新幹線に乗って、名古屋駅のカフェで男と出会い、互いの身のあたたかさを交わし合った。

「思った通りの男だったわ」

「そうかな、病気がちのやせっぽちだよ」

 事件以降に心身の調子を崩した男の支えは女の手紙だった。

 前を向くために、くじけてもなお、振り向くように手助けをしてくれる、魅惑的なほどに、そう、魔法にかかったように、常に男を鼓舞してくれた。


 そして今につながっている。


 劇的な物語はない。


 ただの市井の民の夢のように、穏やかな流れとなって、男と女を包んでいる。


 そして、女は驚かせるために、男は驚くために待ち合わせをして、ささやかなかけがえのない今を、こうして刻を共有している。

「さ、登ろう」

「ええ、そうね」

 手を重ね合わせて、ゆっくりと、ゆっくりと足音を重ね合わせる。

 急段を上りあがった先には、一般的な神社の参道が見え、遠くに本殿が聳えていた。

「よく、来るの?」

「たまにね、ここに来て、しばらく時を過ごすと陽の寂然の中に漂うことができるんだよ」

「寂然?」

「えっとなんて言ったらいいのかな、寂然不動と言うのだけど、仏教とか禅の教えでね、一切の欲や怒り、迷いから離れ、心が動じない境地に至ることを言うんだ」

「へぇ、なるほど、つまり、私がこうしても」

「そんなに見つめられると難しいな」

「よかったわ」

 降参したと両手を挙げた男に、悪戯っぽく笑い勝ち誇った女が、満足気に頷く。

「でも、ヨシには必要だったのよね、その時間が何よりも必要で、なによりも得難いものだった」

「ああ、僕はきっと壊れていたのだと思う」

 玉砂利を踏む音を響かせて参道を進み、中鳥居で一礼をする。

 手水社の湧水は空気のように澄み、水神様のお顔は柔らかいほどの石掘りで、朝露のような冷たい水を湛えていた。

「水底がないみたい」

 女は柄杓を行儀悪く奥まで差し込み、やや水面を揺らすように水を汲む。

「リサ、行儀悪いよ」

 男が窘めながら水を柔らかくすくい、そして手を清め、口を清め、最後に柄杓の柄を清めた。

 本殿で二礼二拍手一礼を済ませ、そして、参拝者名簿に名を書き込む、日に一人か二人程度のようではあったが、そこには全国各地からの参拝者が、しっかりと刻まれていた。

「さ、奥宮に行こう、そこに展望台があるんだ」

「ええ、もう少しね」

 本殿脇を通り抜けて延享元年が縁石に刻まれた石段の、その巧みな石積みに女は目を細めた。

「素晴らしいわ、ローマ街道とは違った趣、人工的でありながら、この自然に深く溶け込んでる」

「僕もこの石段は好きだよ」

 文化財故に脇に新しい石段が設けられていた。急角度の石段を昇ってゆきながら、女はやがて大山のスギの高さを見上げ、自らの両肩をその手に抱く。

「どうしたの?」

「ねぇ、私の耳がおかしくなってしまったのかしら、音が……音が……聞こえないわ」

「僕の声は?」

「聞こえるわよ」

「じゃぁ、大丈夫、静寂が希薄になったから、聞こえないんだ」

「静寂が希薄になったのなら、さわがしいんじゃないの?」

「いいや、ここでは違う。山々の木々が全ての音を吸ってしまうんだ、そう、静寂すらも吸われてしまって、無音の世界が広がる、漂うものは皆、希薄になる。」

「漂いの稀薄……」

 そっと女の方に手を置いた男が、ゆっくりと深呼吸をしてみせる。真似をしてみて、とでも言っているかのように。

「こう、かしら」

 やがて、体の巡りを整えるように、肩を、肺を、口元を、互いの吐息を合わせてゆく。

「あ、鳥の声」

 遠くで鳥の囀りがした。

 それがどこの山々から聞こえ来たものなのか、そのような鳥なのかはわからない、姿も見えないけれど、響きの美しさが確かにある。

「息が静か……、吐息の静謐だわ」

「うまいことを言うね」

「吸って吐いての繰り返し、そう、ただの繰り返しなのに、響く吐息は溶けるように消えてゆく……。山に神が宿ると、日本では聞くけれど、まさにそのとおりね……」

「ああ、まさに、その通りだよ」

 古い参道を横切って大杉の足元を巡る。積もった枝葉のその幾層がとても柔らかな自然のクッションとなって、足元から心地よさを誘いゆく。

「ほら、ヨシ、早く」

「リサ、転ぶと危ないよ」

 何人で囲めばと思えるほどの巨大な幹回りを、二人はそっと歩みながら、遅る遅る、その柔らかい樹皮に手を触れた。

「柔らかな熱があたたかい、まるで、人と触れ合っているみたい」

「言いえて妙だね」

 しばらくそっと母の肌に触れるあたたかみに浸り、そして一抹の寂しさと共に離れゆく。

 手の熱が冷める寂しさは、母の元を去ったあの日を彷彿とさせ、目頭を熱くさせるほどだった。

 奥宮の参拝を終え、奥宮裏手にある展望台を目指し、巨木の間を抜けてゆく、足音も響かぬ世界、そう、音が響かない。

 足音は確かにある。

 けれど、それは響くことなく、どこかへと消えてゆく。

 展望台脇にある、御嶽山慰霊碑にそっと手を合わせて、二人はその先に据えられた、どこまでも見渡すことのできるささやかな展望台へ歩みを進めた。

 空が開けた。

 幾重にも、幾重にも、森が、山々が続いている。

 霊峰御嶽山と霊峰白山の山並みが一望でき、柔らかな日差しの先に輝いていた。風はあるはずなのに、やはり、音はない。ただ、静かなだけだ。

「陽の寂然、漂いの稀薄、吐息の静謐」

 男がそう言葉にした。

「Il silenzio solare, la rarefazione del fluttuare, la quiete del respiro.」

 女がそう言葉にした。

 そして二人して見つめ合い、微笑み合う。

 そう、そこに言葉は要らない。

 ただ、繋いだ手のぬくもりだけが、繋がりとぬくもりを与えて、絡め合った指先の触れ合いが、心地よかった。


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