第13話 恩讐のトーナメント

社内トーナメント当日。普段は雑談室として使われている大部屋に、将棋盤が4面並べられていた。社員数十名が見守る中、初戦が始まった。


健人の初戦の相手は、田中浩二。将棋の楽しさを教えてくれた恩人であり、企業対抗戦の敗北の責任を感じている先輩だ。


対局開始前、健人は田中さんと目を合わせた。田中さんは少し緊張した顔で、「佐藤くん、お手柔らかに頼むよ」と冗談めかして言ったが、その瞳の奥には、レギュラーの座を譲れないという強い意志が宿っていた。


「田中さん。今日は、僕の『正しい手順』を最後まで追い込みます」


健人はそう宣言し、一礼した。


先手番の健人が選んだのは、木村から教わった相掛かり ▲9六歩型。


健人「▲2六歩」

田中「△8四歩」

健人「▲2五歩」

田中「△8五歩」

...


飛車先を交換した後、健人は定石通りに端の歩(▲9六歩)を突き、静かな布石を敷いた。


田中さんは、健人の堅実すぎる指し手に驚いたようだった。彼は、健人の将棋が玉を大切にする傾向を持ちつつも、勝負所では強引な攻めを好むことを知っていた。田中さんは、序盤は堅実でも、どこかで健人が無理な急戦を選ぶと予想していたはずだ。


田中さんは、健人の▲9六歩に対し、しばらく考慮した後、△5二玉と玉を引いて囲いを優先する構えを見せた。


健人の心の中で、木村の声が響いた。「後手が玉を囲い始めたら、安易に攻めるな。主導権を握り続けろ」


健人は、次の手を迷わず決めた。


健人「▲7七角」


観戦していたユイや高谷課長の間から、わずかにどよめきが起こった。


「おお、本格的な囲いを目指すんだな」と高谷課長が小さく呟いた。


健人の▲7七角は、田中さんが得意とする中央からの急戦筋を遠回しに封じ、将来の本格的な囲いを宣言する一手だった。


田中さんは、時間をかけて考えた。彼ならここで、自身の得意とする中央からの攻め、具体的には▲4六歩と突いて主導権を奪いに来るだろうと、健人は予想していた。


田中「…△7二銀」


田中さんは、予想に反して攻めを急がず、自陣の銀を上げて堅実に受けた。彼の指し手には、企業対抗戦で負けた経験からくる「堅く指さなければならない」という強いプレッシャーが見て取れた。


しかし、健人は知っていた。田中さんが求めているのは、▲4六歩という積極策なのだ。


木村のメモが脳裏をよぎる。「玉の堅さは攻めの基盤」。これは、守りが攻めにつながるという大局観であり、田中さんの目先の守りとは意味が違った。


田中さんが堅実に指せば指すほど、健人は自玉の安全を確保し、盤面全体への支配力を高めていった。


中盤、駒組みが一段落したところで、健人は、木村から教わった通り、「最も速く、将来の支配権を握る手」を放った。それは、田中さんの玉の急所を突く一手だった。


そこからの健人は、まるで別人だった。以前のような、一手のミスで崩れる脆さは消えていた。すべての攻めが、▲7七角という堅い土台から放たれており、無理がない。


田中さんは焦り始めた。自分が得意とする激しい攻め合いに持ち込めないまま、じりじりと自陣が圧迫されていく。


田中さんが放った最後の望みの反撃も、健人は落ち着いて受け止め、確実な寄せに入った。


そして、終盤。健人は、田中さんの玉を絶妙な手順で追い詰めた。


田中「…まいった」


田中さんは、静かに投了を告げた。時計の針が、昼休みの終わりを知らせる1時を指していた。


一局を終え、田中さんは健人に笑顔を見せた。


「いや、佐藤くん、完敗だよ。まるでプロの棋譜をなぞっているみたいに、一手のミスもなかった。特に、序盤の▲7七角。あれで僕のやりたいことが全部潰された。正直、驚いたよ」


健人は、田中さんの温かい言葉に胸が熱くなった。


「ありがとうございます、田中さん。でも、これも、僕が教えてもらった『正しい手順』のおかげです」


健人は、恩人を破った罪悪感よりも、「正しい手順」を最後まで追い込みきった達成感に満たされていた。


その瞬間、健人は、観戦席の奥にいる木村の姿を捉えた。木村は、いつものように無表情だったが、健人の勝利を見届けると、静かに談話室を後にした。


健人は、次の対局に目を向けた。次の相手は、愛好会の女王、ユイだった。

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