断章 抉るなら目玉から(2)
「ル、ミ……?」
サクが掠れた声で呼ぶ。
ルミはコルヴァンから放たれる尋常ではない殺気に耐えかねたのか、「ピィッ」と短く鳴くと、白い閃光のように彼の肩から飛び立った。
そして真っ先にノクスの巨大な影の背後に隠れ、ぷるぷる震え始めた。
ノクスはちらりとルミを一瞥したが、特に追い払うこともなく。ただ主人の様子を窺っていた。
「……う、ああ、あ……」
青年は恐怖と激痛で失禁し、ずるずると後ずさり、バランスを崩して倒れた。
目の前に立つ男の、この世のものとは思えない美しさと圧倒的な禍々しさに、本能が死を悟っているようだった。
コルヴァンは青年に一瞥もくれなかった。 ただ、血と泥にまみれてへたり込むサクの元へ歩み寄り、優雅に跪いた。
「主よ。散歩にしては、随分と遠出をされましたな?」
その声は低く優しかったが、金色の瞳は笑っていなかった。彼は懐からハンカチを取り出し、サクの頬についた青年の返り血を丁寧に、愛おしげに拭い取った。
「こ、ルヴァン、さん…わたし。あの…」
彼は冷たい指をサクの唇に当てた。
「弁明は後ほど」
サクは冷たい指の感触に閉口し、冷や汗をかいた。
コルヴァンはようやく、虫を見るような目で泥の上をのたうつ青年を見下ろした。
「わたくしの教育が行き届いた息子が、少々やりすぎてしまったようだ。…主よ。この騒がしいゴミは、如何いたしましょう?」
「た、助け…許してくれ、俺は村長の…」
青年が涙と鼻水を垂らし懇願する。
サクは、震えながら立ち上がった。
そして、血まみれで這いつくばる青年とコルヴァンの間に、そっと立ちはだかった。
「……む、村に…返して、あげてください…」
サクは震える声で、しかしはっきりとそう告げた。
コルヴァンは、ゆったりと。優雅に、微笑んだ。
「聞き間違いですかな?」
美しい笑顔のまま、彼の金色の瞳だけが、すう、と冷えていく。
「命だけは、助けてあげてください」
サクが重ねて懇願すると、コルヴァンの顔から完全に表情が抜け落ちた。 温度のない能面のような美貌が見下ろす。
「お前は……この脆弱で、穢らわしい生き物に、情けをかけるというのか」
低く、地を這うような声。
「それとも」
コルヴァンが一歩、サクに近づく。殺気が膨れ上がる。サクは鳥肌がたった。
「久々にこれ(人間)に触れた拍子に、人であった頃の未練でも湧き出したか?」
森がしんと静まり返った。 ノクスさえも身を低くし唸るのをやめた。ルミはさらに震えてノクスに寄り添った。
それでもサクは、青年の前から退かなかった、
「み、未練なんか、ありません」
サクは涙目で、必死に首を横に振った。 コルヴァンは、ゴキ、と不気味な音を立てて首を傾げた。
「ならば、なぜ?」
サクは息を整えた。
「コルヴァンさんに……ひとを、殺してほしくないんです」
サクの悲痛な願いは、セレスティナの願いを聞いてから変わらない。しかし、それは今のコルヴァンには響かない。
彼の金色の瞳が、昏くドロリとした嫉妬で濁る。
「……サク」
彼は、嘲るように口の端を歪めた。
「この男と逢瀬を繰り返しているのを……わたくしが、知らぬとでも思ったか?」
サクは息を呑んだ。心臓が凍りつくようだった。知っていたのだ。彼が部屋に籠もっていた間も、ずっと…。
「わたくしが喪に服している間、お前は庭先でこれと楽しげに言葉を交わしていたな? ……花を受け取り、笑いかけ、その汚らわしい視線を受け入れていた」
コルヴァンの身体から、どす黒い魔力が噴き出した。
嫉妬。怒り。独占欲。それらが混じり合った殺気が、物理的な風となって、コルヴァンの濡羽色の髪を不穏に揺らした。
「わたくしが、どれほど……殺意を抱いていたか……わかるか?」
まるで不義を責め立てられているような様子だった。一般的なそれと違い、あまりにも不穏で絶望的な空気だったが。
「ち、ちがいます、わたしは!」
「黙れ。どけ」
短く、絶対的な命令。コルヴァンは殺気を抑えなかった。サクは立っているだけでいっぱいいっぱいだったが、必死に立ち、膝をつかなかった。
「いやです…!おねがいします」
「サク」
コルヴァンのこめかみに、青筋が浮かんだ。 美しい顔が歪み、その瞳が黄金色に、昏くぎらつく。
「お前は……今宵。よほど、わたくしの神経を逆撫でたいようだな?」
コルヴァンが苛立ちを露わにして腕を伸ばした。
邪魔なサクを掴み、力ずくでどかそうとする手。鋭い爪が、サクの肩に食い込もうとした、その瞬間。
サクは、その手を振り払うのではなく──両手で包み込んだ。
「っ……?」
コルヴァンの動きが止まる。サクはその氷のように冷たく、強大な暴力そのものである手を、自分の頬に寄せた。そして、真っ直ぐに彼の瞳を見つめた。
「あなたのことが、一番好きです」
サクの瞳が、涙で潤みながらも、金色に揺らめく。
「あなた以外、なにもいりません…だから、お願い。誰も殺さないで」
その言葉はどんな強力な魔術や呪いよりも深く、コルヴァンの魂に届いたのうだった。
殺意に染まっていた黄金の瞳が、揺らぐ。目の前の少女が、自分だけを見ている。自分だけに縋り、自分だけを愛していると言った。その事実が、沸騰していた彼の脳髄を、甘い痺れと共に鎮火させていく。
「……はぁ」
長い、長い溜め息がこぼれた。 コルヴァンはサクに包まれていた手を解くと、逆にその手でサクの顔を覆い、指の隙間から覗く瞳を昏い瞳で見下ろした。
「興が削がれた………」
コルヴァンは、サクの腰を抱き寄せると、そのまま抱き上げる。背後のノクスに冷たく言い放った。
「捨ててこい」
「ギッ?」
「殺す価値もない。村の近くにでも転がしておけ……ただし」
コルヴァンはサクを抱き上げたまま、瞳をぎらつかせ、地を這うような声で続けた。
「次、この森へ近付いたなら…その目玉を抉り出し、四肢をもいで腐肉の山にしてやる」
青年は、もはや悲鳴を上げる気力もなく、ただ激しく首を縦に振って気絶した。
ノクスは不満げに鼻を鳴らしたが、主人の命令には逆らわず、青年の残った左足を咥えて引きずり、闇の奥へと消えていった。
ノクスに隠れていたルミは怯えながらも、彼が青年を引きずっていくのを、ちょこんと首を傾げて見送っていた。
森に静寂が戻る。
コルヴァンは、腕の中のサクを静かに抱きしめ直した。
「コルヴァンさん、ごめんなさい」
腕の中でぽつりとつぶやくサクを、コルヴァンは静かに見下ろした。そして金色の瞳を細めた、
「…主よ。今宵は、覚悟をしていただけますな」
彼は、びくっと震えるサクの耳元に唇を寄せた。
「他の雄の匂いなど、二度と思い出せぬよう。わたくしで、塗り潰して差し上げます」
サクは、ぞくりと背筋を震わせながらも、その胸に顔を埋めた。もう、逃げ場所などどこにもない。そして、逃げるつもりもなかった。
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