断章 最初の子


その日、サクは庭の片隅で、一羽の小鳥を見つけた。

美しく真っ白な羽を持った鳥だった。


しかし翼を痛めたのか、飛ぶこともできず地面にうずくまっている。パン屑をやってみても、一口も食べようとしない。

サクはその小さな命が、自分の手のひらの上でゆっくりと冷たくなっていくのを感じていた。


──死んでしまう?


そう思った瞬間、彼女の心に遠い昔…幼い頃の痛みが蘇った。病に伏した母の、日に日に冷たくなっていく手を。ただ握りしめることしかできなかった、あの無力感を。


「…いやだ」


彼女はその小鳥をそっと両手で包み込むと、屋敷の中へと駆け込んだ。


コルヴァンに見つかったら、どうなるか。殺されてしまうかもしれない。「くだらん」と、踏み潰されてしまうかもしれない。


恐怖に震えながらも、彼女は自室のクローゼットの奥に、小鳥のための小さな巣を作った。サクの召物はコルヴァンが別の部屋から持ち出してくるので、ほとんどこのクローゼットは使われていないのだ。


しかし、この屋敷で彼に隠し事ができるはずもなかった。


その夜、コルヴァンは音もなく彼女の部屋に現れた。

サクがクロゼットを開けて鳥の状態を確認している時に。


「…主よ。そのような汚れたものを部屋に持ち込んで、何をされている?」


サクは凍りついた。しかし、諦めきれなかった。小鳥を隠すように、塔のように高い家臣の前に立ちはだかった。



「お、お願いです、コルヴァンさん…!この鳥を、助けてあげたいんです…!」


コルヴァンは、サクの腕の中にいる瀕死の小鳥を一瞥した。興味がないと言うような、冷ややかな視線だった。


「羽が折れている。飛べない鳥など、生きていく価値はありません…哀れなものですな」


その、あまりにも冷たい言葉に、サクの瞳から、涙が溢れた。


「そんなこと、ありません…!この子は生きています…!」


コルヴァンはその涙を、奇妙なものでも見るかのようにじっと見つめていた。そして、ふと。まるで面白い遊びでも思いついたかのように、美しい唇に妖しい笑みを浮かべた。


「…ほう。主は、それを助けたいと?」


サクは、何度も必死に頷いた。


「ならば、試してみるといいでしょう」


彼は、サクの目の前に跪くと、その黄金の瞳で、彼女の魂を覗き込むように囁いた。


「あなたがそのちっぽけな命に、心を込めて世話をすれば…あるいは、再び生きる力を取り戻すやもしれません」


サクは涙のたまった瞳を見開いた。コルヴァンに優しく涙を拭われ、何度も必死に頷いた。



その日から、サクの甲斐甲斐しい看病が始まった。


コルヴァンはそれを止めるどころか、「主のなさることですから」と、むしろ手伝うそぶりまで見せた。


鳥のために滋養のついた薬草を煎じてくれたり、傷口を清めるための、清浄な水を湧かせてくれたり。


サクは彼の意外な優しさに…喜ぶと言うより、戸惑った。何か裏があるはずに違いないが、今は鳥が元気になればなんでもよかった。


彼女は、毎日、その小さな鳥を優しく撫で、そして、語りかけた。


「大丈夫だよ」「元気になってね」「またきっと、お空を飛ぼうね」


それはまるで母のようだった。コルヴァンはそれを静かに眺めていた。



7日目ほど経った。


鳥はまだ、何も口にしない。しかしサクが触れると、前よりも少しだけ温かい気がした。


サクがいつものように鳥を優しく両手で包み込み、早く治るようにと祈りを込めていた──コルヴァンに、そうすると良いでしょうと言われたのだ──その瞬間。


鳥の身体が、びくん、と、大きく痙攣した。


「え…?」


驚き手を離そうとするが、もう遅い。


鳥の身体は、まるで内部から破壊されるかのように、バキバキと、嫌な音を立て始めた。


「いやっ…!?コルヴァンさん!」


サクが悲鳴を上げて、コルヴァンに助けを求める。


サクの声に応えて音もなく現れたコルヴァンは、その光景を見て目を僅かに見開くと、すぐに恍惚とした笑みを浮かべた。


「素晴らしい!主よ、よくご覧なさい」


彼は、震えるサクの肩を、後ろから抱きしめる。


「あなたの願いが今、叶うのです」


鳥の、美しい白い羽が、まるで焼け落ちるかのように、抜け落ちていく。そしてその下から、濡れたコールタールのような漆黒の羽が、バキバキと音を立てて生え揃っていく。

小さな頭は、ありえない形に歪み、くちばしはカラスのように黒く、鋭く裂けていく。


「…!?」


サクは目の前で起きているおぞましい光景に、真っ青な顔で口を押さえた。

やがて、痙攣が収まる。そこにいたのは、もはや、鳥ではなかった。


カラスのように黒い羽を持ちながら、その瞳だけがコルヴァンと同じ(そして実はサクとも同じ)、不気味な金色に爛々と輝く…異形の何か。


それはゆっくりと立ち上がると、黒い羽を羽ばたかせた。そのまま不気味な羽音を立てて、天井をぐるりぐるりと飛び回り始めた。


「そんな…あなたの、魔力が…?」


「ふふふ。わたくしと、あなたの魔力だ、主」


コルヴァンはサクから手を離し、その美しく白い指を一本伸ばした。すると、その指に黒い怪物が優雅にとまった。


「毎日撫で、抱いて、愛でた甲斐があったというもの…なぁ、見ろ、この美しい羽を」


コルヴァンは機嫌が良さそうに、その黒い怪物を見つめた。怪物は彼の指に甘えるように、頬をすり寄せた。コルヴァンは心から嬉しそうな表情である。


サクは、その光景から目が離せなかった。


自分が、この怪物を生み出してしまったという恐怖。


しかし、それと同時に。

初めて見る、コルヴァンの、子供のような、純粋な喜びの表情。そして、自分たちによって生まれたという、黒く美しく、そしてどこか誇らしげな、あの小さな命。


その倒錯したおぞましさと、美しさ。

あまりにも強烈な光景に、サクの心は完全に囚われてしまっていた。

彼女はこの日、初めて人間ではないものの「母」になったのだ。

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