1章 紅茶はいかが

目を覚ました時、サクは豪奢なソファの上にいた。

暖炉の穏やかな火で、身体が温められている。こんな温もりは久しぶりだった。

また嗅いだことのない、古い木と芳しい花の香りがした。


──……ここは?


ぼんやりと顔をあげたサクは、自分の身体が、柔らかな布…厚手のリネンで、丁寧に巻かれていることに気づいた。そして、その下に、あの、泥だらけだったはずの粗末な服の感触がないことにも。


──服は…? まさか…


血の気が引く。リネンの下は、丸裸だった。サクは目を白黒させる。


「目が覚めたか、小娘」


低くよく通るが、どこまでも冷たい声だった。サクはびくりと肩を震わせ、リネンを手で押さえつけながら顔を上げた。


そこにいたのは、雷光の下で一瞬みとめたあの男だった。 彫像のように美しい、彫りの深い顔立ち。だが、相変わらず鋭く射抜くような眼(まなざし)が、威圧的にサクを見下ろしている。


長い濡羽色の髪は高く黒いリボンで結い上げられ、黒を基調とした装いは、まるでカラスを模したかのようだった。燕尾服のように裾が長く、袖は羽のように広がり、青や緑に反射する不思議な羽が飾られている。 不吉で、それでいて優雅な出で立ち。


とかく人間的ではない男だった。少なくともサクの暮らす村には、こんな異質な存在はいない。 男はサクの視線をうざったそうに受け止め、赤黒い紅の引かれた美しい唇を開いた。


「どんなにみすぼらしくとも、久々の客人」


男は手にしていた銀のトレイを、アンティークのテーブルの上に静かに置いた。湯気を立てる紅茶のカップが、ソーサーに擦れて僅かに音を立てる。


「もてなせと、主は仰せだ。…それを飲んだら帰れ」


サクは戸惑いながらも、テーブルの上のカップを両手でとった。温かさが、冷え切った指先にじんわりと染み込んでくる。


サクは、もちろんこれ以上、この威圧的な男にご厄介になるつもりはなかった。できることならば、すぐにでも紅茶を飲み干してお礼を言い、逃げ帰りたい。蛇に睨まれた蛙のような心地だった。


だがふと窓の外に目をやると、雨はまだ激しく降り続いていた。雷鳴が、遠くで唸っている。サクは眉を下げて視線も下げ…暖かな紅茶、そして正面の暖炉を見つめる。


サクは紅茶を飲み終えた後、カップをぎゅっと掴んだまま勇気を振り絞って目の前で腕を組み(早く目の前から消えろ)といいたげな金色の瞳を見上げた。


「あの…すみません…物置でもお外の屋根下でもよいのです…一晩だけ、おいてもらえませんか…?」


男は案の定、あからさまにものすごく嫌そうな顔をする。サクは心臓が竦む思いだった。やはりダメですよね、すぐに出て行きます…そう言おうとした時、大きなため息がサクの出かけた言葉を遮った。


男は一度天井を仰ぎ、彫刻のように美しい横顔を晒しながら「主よ、なぜこんな小娘を…」と物憂げに小さくぼやいた後、眉を寄せ不愉快そうな顔を隠しもせずサクに向き直った。


「客室へ案内する」

「え?」


ポカンとするサクにくるりと背を向けた男は、腰までかかる長い髪を翻してとっとと歩き出す。サクは慌ててカップを置き、リネンを抑えながらソファから飛び降りた。


「主の命令だ、客を無碍にはできん。雨がやんだら帰れ」


男は振り返らずに言って、廊下へ出た。サクはその背を必死に追う。


「あっ!ありがとうございます!わ、わたしはサクと申します!その、たいへんご迷惑をおかけして..!あの、でもその、お構いなく、わざわざそんな、わたし、お外でも…!」


男が突然立ち止まり、さっと振り返った。


「やかましい、囀るな!」


突然ぴしゃりと怒鳴られて、サクは飛び上がりそうになる。男は高い塔のようにサクの前に立ちはだかりながら、長く美しい指を一本立てた。その指先の爪はやや尖り、鉤爪のように艶やかな黒色だった。


「まず…お前の声と、その鎖の音がひどく耳障りだ。黙れ。音を立てるな」


サクは冷や汗をかき、首元でじゃらじゃら暴れる鎖を抑え、口を引き結んだ。それを見てふんと鼻を鳴らした男は続けた。


「そしてまさかと思うが…我が主の厚意を無碍にするつもりではあるまいな?みすぼらしい客人よ」


サクが冷や汗をかき、ブンブンと首を振る。鎖が音を立てないように、首もとを押さえながら。すると男は満足したように、再びサクに背を向けた。


長い長い大理石の廊下を、男は黙って歩き続ける。サクはただその背中を、小さな足で必死に追いかけることしかできなかった。やがて、一つの扉の前で、男が立ち止まる。


「ここだ」


彼がそう言って、肩越しに振り返った。


「私の名はコルヴァン。…覚えなくてもよい」


そっけなく一言を残して彼は音もなく、闇の中へと消えていった。文字通り、闇に溶けるように。サクは腰を抜かしそうになる。確定だった。彼は、人間ではない。


──ま、魔物…?使い魔さん…?やっぱりここは…魔女の館…?


サクは恐る恐る、部屋の中を見渡した。そして、息をのんだ。

そこは部屋というより、絵本に出てくるお姫様の寝室そのものだった。


柔らかな毛足の長い絨毯、細かな装飾のついたアンティークの家具たち。

そして部屋の半分を占めるかのような、巨大な天蓋付きのベッド。厚手のカーテンが、ベッドの四隅を優雅に覆っている。藁の寝床しか知らないサクにとって、現実とは思えない光景だった。


──わたしが…ここで…?


奴隷であり、汚れた自分がこのような場所にいることは、おかしなことのように感じられた。


壁際には大きな姿見が置かれていた。その黒檀の枠には、カラスの翼を模した繊細な彫刻が施されている。サクはなんとなくその彫刻を眺めていた。先ほどの家臣…コルヴァンと名乗った男を思い返した。


サクは静かで暖かな部屋の空気にうとうととしてきた。外は相変わらず豪雨だが、乾いて清潔な屋敷の中は魔法がかかっているかのように居心地が良い。


リネンを纏ったまま、傷だらけの身体をベッドにそっと横たえる。ほどなくして、泥のように眠った。夢を見ることもなく、深く深く眠った。



サクは鳥の囀りで目を覚ました。

頬に触れるのはちくちくとした藁ではなく、すべすべの白いシーツ。鼻腔を擽るのは家畜の糞の臭いではなく、古い木の香り。


まだ夢のような心地で覚醒する。朝日に照らされた、美しい客室が目に入る。やはり夢なのかもしれない。こんな清潔で素敵な場所で自分が目覚めるなんておかしいから…。


するとサクの覚醒を待っていたかのようにドアがノックされ、サクは飛び上がった。


「客人よ。目覚めたか」


相変わらず冷えた調子の、コルヴァンの声だ。サクは慌てて「はい!」と寝起きの掠れた声で答えた。


「お前のボロ布…服はキャビネットにある。用意ができたら出てこい」


そこで区切り、


「急かしてはいない…どうぞごゆっくり」


と棒読みで伝えると足音もなく気配が消え去る。最後の言葉が本心ではないということはもちろん伝わっていたので、サクは慌ててベッドから飛び降りて、両開きのキャビネットを開けた。

すると中には丁寧に畳まれた衣服が。完全に乾いているし、清潔で良い匂いがする上にほつれたり穴ぼこがあいているところは綺麗に修復されていた。サクは目を白黒させながら、見違えるようになった服をかぶって身につけた。別の服になったみたいだった。



廊下に出ると、コルヴァンが音もなく現れた。相変わらず無表情で冷ややかな空気を纏っていたが、朝日の中のせいか昨晩ほどの恐怖は感じなかった。

彼はサクのぼさぼさの頭を見て眉を寄せたが、「朝食の用意ができている」と言ってさっさと歩き出した。


サクは服のお礼を言おうと口を開いたが、コルヴァンの言葉に驚いて「ちょうしょく?」と呟いて思考を失ってしまった。


昨日と同じ応接間に連れられ、ソファに座らされる。

テーブルの上には湯気の立つ温かいスープと、柔らかそうなパン、黄金色のジャム、艶のあるハム…

村ではカビの生えたパンか残飯か雑草しか与えられない彼女にとって、それは王様の食事のようだった。


「あ、あの!昨晩は泊めていただいただけでなく、お洋服も直してもらって、お食事まで…本当にありがとうございます!」


残さずきれいに食べたサク(食事中の記憶はない)は、コルヴァンへ丁寧にお礼を言った。コルヴァンがゴミを見るような目で自分を見ていても、1秒でも一緒にいるのが嫌そうなそぶりを見せていても、彼はサクに極上の衣食住を提供してくれた存在だ。サクは心から彼に感謝した。


「あの、お部屋、とても素敵で。こんなお食事もはじめてで…」


サクがまごまごと感謝と感想を述べようとするのを、コルヴァンは興味なくうんざりした様子で、片手をあげて遮った。


「私は身も心も主…セレスティア様のもの。主の命令で、お前を客として扱っただけだ。勘違いをするな、気色が悪い」


サクは、この屋敷の主人の名前を初めて知った。セレスティア。綺麗な名前だ。きっと素敵な女性に違いないと思った。


「セレスティア様にも、コルヴァンさんにも感謝しています。何かお礼にできることがあれば…」


サクは心から言ったが、コルヴァンは腕を組んで痩せっぽちでみすぼらしい小娘…サクをみて、これ以上ないほど大きなため息を吐いた。

お前になにができるという、というような様子で。それでも生真面目なのか、一度面倒そうに天井を眺めた後、ソファで手を膝上で揃え自分を見つめているサクを見下ろした。


「主は、久々の客人に喜んでおいでだった。そして花が好きだ…それくらいなら、お前でも用意できるか」


サクは目を輝かせた。


「はい、もちろんです!かならずお持ちしますね!」


コルヴァンは答えなかった。本当にどうでよさそうだった。



雨上がりの朝だというのに、鬱蒼とした木々の茂った霧の森は薄暗い。

コルヴァンはサクを渋々といった様子で玄関まで見送り、サクが門を出る前に振り返った頃には屋敷の中にさっさと消えていた。

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