第19話:神崎くん、あのね
――外はあっという間に真っ暗だ。
さっきまでは窓の外から話しながら歩いてく声も聞こえていたけど、今はもう車の音くらいしか聞こえてこない。
どうやら夜が来たらしい。いや、夜が、来てしまったらしい。
私、佐藤花。虹ヶ丘高校に通う、ただの高校2年生。好きなものは唐津くんち。
中学生の頃に少し事件はあったけど、それなりに、なんとかここまで生きてきた。
しかし、私はスマホの画面とにらめっこしながら、はや5時間。この人生で最大の悩みを抱えていた。
そもそも事件の発端は、今日の夕方頃のことだった。
***
【5時間前】
私のスマホが、ピコン、と、静かな部屋に通知音を響かせた。
表示された通知バナーに、私の心臓は、跳ね上がった。
いや、ほとんど、喉から飛び出しそうになった。
『神崎 怜:おつかれ。来週の図書館のことだが』
ひゃ、ひゃい! おつかれさまです!
私は、ベッドの上で、誰に言うでもなく、裏返った声で叫びながら正座した。
来週の、図書館のこと!
そうだ、私たちは、約束をしたんだった。夏休みの、宿題を、一緒に。
どきどきする心臓を、ぎゅっと押さえつけながら、メッセージアプリを開く。
深呼吸を、一つ。
『おつかれ。来週の図書館のことだが』
その、短い文章の下に、新しいメッセージが表示されていた。
『佐藤さんは、海は好きか?』
「……………へ?」
私の、思考が、完全に停止した。
海?
うみ?かい?
seaのこと?ねえ、あのseaのこと?
なぜ、ここで、海?
図書館の話、をしていたはずだ。それなのに、なぜ、急に、海?
文脈が繋がらない。あまりにも脈絡がなさすぎる。
これは、一体どういう意図の質問なんだろう。
パニックに陥った私の頭の中に、いくつかの仮説が、高速で浮かび上がっては消えていく。
仮説①:これは、心理テストの一種なのではないか?
仮説②:あるいは、私の知らない高度な暗号なのではないか?
仮説③:もしかして、送信する相手を間違えている…?
――最後の仮説に至った瞬間、私の血の気がさーっと引いていくのを感じた。
ど、ど、どうしよう!?
こんな、超難問、私一人で答えられるわけがない!
私は、震える指で、すぐに二人の最高の味方に助けを求めた。
まずは、大親友、美咲。
『美咲! 大変! 神崎くんから、意味不明なメッセージが来た! 助けて!』
よし。次は、いま一番頼りになる存在。
私は、すがるような気持ちで、『ラブサポ』のアイコンをタップした。
だが、画面に表示されたのは、無慈悲な絶望の宣告だった。
『現在、サーバーメンテナンス中です。ご迷惑をおかけします』
「そ、そんな……!」
嘘でしょ!?
よりにもよって、なんでこのタイミングで!信じられん!
絶望する私のスマホに、追い打ちをかけるように、美咲からの返信が届く。
『ごっめーん! 今、合宿中でミーティングしてる! マジでそれどころやないと! また後で! 頑張れ!』
「……………」
終わった。
私の命綱が、二本とも同時に、断ち切られた。
静まり返った部屋の中、私は一人だった。
誰の助けも、借りられない。
スマホの画面に表示された、神崎くんからのあの謎のメッセージ。
『佐藤さんは、海は好きか?』
その、たった11文字と向き合う、孤独な、孤独な戦いが、今、始まったのだった。
孤独な戦いは、あまりにも過酷を極めた。
私は、スマホのメモ帳を開き、返信の候補をいくつもいくつも書き出しては消していく。
候補①:『好きだよ!』
(ダメだ、これじゃがっつきすぎてる! 質問の意図も分からんのに、好きって答えるのはあまりにも軽率すぎる!)
候補②:『別に、嫌いじゃないけど』
(ダメ! これは塩対応すぎる! また、あの氷の王子様モードに戻ってしまったら、どうすると!?)
候補③:『なんで、そんなこと聞くと?』
(あー! これもダメ! 質問に質問で返す女は、ウザいってネットに書いてあった!)
候補④:『どちらかと言えば、山よりは海派かな! 神崎くんは?』
(うーん…無難すぎる…。こんな、誰にでも送れるような、平均点狙いの返信で本当にいいと…?)
私の脳内で、無限の会話シミュレーションがぐるぐると回り続ける。
ああでもない、こうでもないと、うんうん唸っているうちに、時間は、刻一刻と、無情に過ぎていった。
***
そんなこんなで今に至る。
部屋の時計が、夜の9時を指す。
メッセージが来てから、もう5時間以上が経っていた。
既読をつけずに耐えているけど、これもいつまで持つか分からない。
ああ、もう、無理かもしれない。
私はベッドの上に、大の字になって倒れ込んだ。
たった11文字に、こんなに苦しめられるなんて。
恋って、なんて、難しくて、めんどくさいんだろう。
まちがいなく、今季私を最も苦しめているベストイレブンだ。
時間だけが、過ぎていく。
私が、半ば意識を失いかけていた、夜の22時過ぎ。
ピコン、と、スマホが希望の光を灯した。
『【ラブサポ】サーバーメンテナンスが終了しました』
―――きた!
私は、ベッドから飛び起きた。
まるで、砂漠でオアシスを見つけた旅人のように、震える指で、ラブサポを起動する。
『ラブサポ! 大変! 助けて! 神崎くんから、意味不明なメッセージが来たと!』
『「海は好きか?」って聞かれたんやけど、もう5時間も返せんままなんよ! どうしたらいい!?』
ヤケクソ気味に、SOSを打ち込む。
すると、ラブサポは、少しの間を置いて、冷静な、しかし、どこか悪魔の囁きのようなアドバイスを返してきた。
『ポムポム、遅くなってすまない。落ち着いて聞いてくれ』
『彼に、正直な気持ちを、今すぐ伝えるんだ。メッセージでは、君の本当の気持ちは伝わりきらない』
『電話をかけてみると、どうだろうか?』
「―――で、電話!?」
私は、思わず、声に出して叫んだ。
深夜22時に、男子に、電話!?
ハードルが高すぎる! 無理! 絶対に無理!
しかも神崎くんにだよ???
こんな時間に電話なんて迷惑がられるんじゃ...
だが、今の私は、正常な判断能力を完全に失っていた。
5時間以上も悩み続け、思考はショート寸前。そこに現れた、唯一の蜘蛛の糸。
それが、AIのアドバイスだったとしても。
もはや、私には、それにすがるしか道はなかった。
「……………わかった」
私は、幽霊のような足取りでスマホの連絡先を開く。
そして、その名前を、見つけ出す。
【神崎 怜】
心臓が、今にも張り裂けそうだ。
指が、震えて、言うことを聞かない。
はー、はー。
なんとか呼吸はしているが、肺に酸素が届いている感じが全くしない。首周りには力が入り、呼吸の数も普段の倍は速い。上半身が異常なまでに緊張しているのが自分でもわかる。
――よし。
意を決してチャットを開いた。
電話マークのアイコンが見える。
神崎くんにも既読したことが分かっただろう。
指をアイコンへと伸ばしていく。しかし、伸ばしていくが、まるで石になったかのように動かない。
む、無理だ。できるわけない。電話なんて...。
ぐすっ。
頬を滑り落ちる涙のせいで、スマホの画面の青白い光がいくつにも割れて揺れる。その光の欠片が、部屋の静寂と、今の自分の惨めさを強調しているようだった。
なんて情けない。ただ電話をかけるだけなのに。やはり、無難な返信にしようか...。
でも、もはや、メッセージに返信するだけでは私の心は満足しない。
――声が聞きたい。神崎くんの、あの声が。
私は、目を、固く、固く、閉じた。
電話マークのアイコンを押す。画面が変わった。
【神崎怜と音声通話を開始しますか?】
【開始】【キャンセル】
そして。
ふー、ふー。
祈るような気持ちで、【開始】を、タップした。
Pululululu、Pululululu、Pululululu...
コール音がスマホから鳴り響く。
それは永遠とも感じる時間だった。
神崎くんは出てくれるだろうか?迷惑じゃなかろうか?
やはり、無難な返信にすべきだっただろうか?
わずかな時間に、私の脳内はフルスピードで思考する。
5コールほどなっただろうか。プツッと、コール音が消えた。
「...もしもし」
――でた!神崎くん!出てくれた!
「ご、ごめんね。こんな時間に。大丈夫やった?」
「うん、大丈夫。もう寮の部屋にいるし。夕食も終わったから」
「そ、そっか...」
「…………………」
2人の間に気まずい沈黙が流れる。
や、やばい、何か話さないと。
でも、何も言葉が思い浮かばない。
私の脳は完全にフリーズしたようだった。
「佐藤さん?どうした?」
やばいやばいやばい。どうしようどうしよう。もう本当に頭回んない。
そもそもなんで電話したんだったっけ?
ああ、そうだ。神崎くんに返事しようと思ったんだ。
もう早く返事してしまおう。もう耐えられない。
「神崎くん、あのね」
「うん。なに?」
「…………………」
「…好きだよ」
「…………………」
………はっ!!!!!私、いまなんて言った!?
しかし、もう言葉は、取り消されない。
喉の中の水分は一気に乾き、眼球にも異常な力が入っている。
これは、デジタルタトゥーならぬ、音声タトゥーだ。
――やっってしまった。私の人生最大の過ち。
でも...もういいや。もう、この際、ここで玉砕したほうが楽なんかもしれない。
そんな時だった。
「おお!そっか!佐藤さんも海好きなんだ!良かった!実は図書館で勉強した後に西の浜の海岸で散歩でもどうかと思ってて。じゃあ、来週のことはまた連絡する!」
ガチャン。
通話が切れた。
「////////////////////」
「っっっ死ぬかと思った!」
私はベッドの上を100回は転がった。いや、それ以上であったのかもしれない。
しかし、なぜだか、心地よさすらあった。
***
【同時刻:神崎視点】
俺は、震える手で通話終了ボタンを押した。
心臓が、早鐘を打っている。
危なかった。本当に、危なかった。
彼女の口から紡がれた、あの言葉。
『……好きだよ』
その一言を聞いた瞬間、俺の脳内は危険なレベルまでオーバーヒートを起こしかけた。
だが、俺は冷静に分析した。
文脈だ。英語でいえばコンテキストだ。
夕方の俺のメッセージでの質問は「海は好きか?」だ。
ならば、彼女の回答は「(海が)好きだよ」であることは、論理的に明白だ。
もし俺が、凡庸な男であれば「えっ、俺のこと!?」と勘違いして爆発していただろう。
だが、俺は違う。俺は論理の男、神崎怜だ。ジェントルマン・神崎だ。
あそこで冷静に「海のことだな」と判断し、爽やかに返した俺の判断力。
完璧だ。
俺は、ガッツポーズをした。
「……よし。これで、デートコースに海を追加できる」
だが、なぜだろう。
俺の耳の奥に、彼女のあの消え入りそうな、甘い声が。
『好きだよ』というたった四文字が。
こびりついて離れないのは。
「……海のことだ。分かっている。そう、海の話さ」
しかし、同時に、俺の心はチクリと疼くような痛みも感じていた。
それから俺は、自分に言い聞かせるように何度も呟きながら。
赤くなった顔を冷やすために、胸の痛みを冷ますために、エアコンの温度を、最低設定まで下げたのだった。
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