この世界でいちばん強いのは、うちの大家さんでした

@U3SGR

第1話

 やっと、家に着いた。


 数日に及ぶ魔物討伐の熱が皮膚の下にまだこもっている。砂塵の匂いを運ぶ夜風とともに、星環都ルテリオンの街灯が視界に滲み、ようやく現実の輪郭が戻ってきた。


 馬車の振動は骨に芯まで染み込む。狩人同盟への報告は——明日だ。いまは言葉よりも眠りが要る。そう決めた瞬間、身体の重さが正直に二倍になった気がして、足は自然と家路の影をなぞった。


 見上げれば、古びた下宿屋。腐りかけの手すりは触れただけでため息をつきそうなので、視線でなだめながら、今にも崩れそうな階段を音を立てずに上る。鍵穴に金属が触れる微かな音が、妙に大きく感じられるのは、街のざわめきが遠いからだ。


 部屋の空気は狭いが、帰還の匂いがした。靴を脱ぐ音と同時に、買っておいた安酒の栓をひねる。琥珀色の液体がコップの底で小さく回り、今日という日の終わりを正式に告げる。喉を通る熱に、張り詰めていた筋肉が一本ずつほどけていく。


 ベッドへそのまま倒れ込み、天井の染みを一つ数える。


「あぁ……疲れたな」


 オヤジくさい独り言が、狭い玄関まで届いて跳ね返る。そのささやかな反響が、無事の帰還という事実を、もう一度だけ確かめてくれた。


 玄関で思わずため息がこぼれ、靴のかかとを指で外していると——


 室内から声が落ちた。濡れた羽根が床に触れるみたいに、やわらかく。


「………おかえり」


「………」


 おかしい。——絶対に、おかしい。


 喉の奥で言葉が立ち上がるより先に、皮膚が先に気づく。背中を撫でる空気の温度が、さっきまでの自分の部屋のそれではない。


 冷静に並べれば、どこにも異常はないはずだ。


 家に帰る。「おかえり」と言われる。教科書どおりの、当たり前。世界の基礎会話。誰もが疲れた夜に一度は通る、優しい定型文。


 けれど——今、この家でそれが響く道理はない。


 当たり前であるほどに、異常が尖る。常識という包帯の端が、ゆっくりほどけていくのがわかる。


 誰かの家なら、家族のいる暮らしなら、きっと自然なやり取りなのだろう。


 だからこそ、俺の胸の鼓動が、次の一言を拒む。ここは俺の部屋だ。俺はひとりで帰ってきた。——なのに、どうして。


 記憶が確かなら、俺は“瑞原人”としてこの異世界に飛ばされてきた。


 こちらの世界に――少なくとも「人間の」家族なんて、いなかったはずだ。そう脳内の地図をなぞるほどに、足元の現実がきしむ。


 ところが今、ちゃぶ台の前。


 畳のささくれが膝に当たり、真正面には正座で湯呑みを手にしたババア。湯気は細く、茶の香は存外に良い。だが、少なくとも彼女は俺の家族ではない。論理上も、感情上も。


 家族でも何でもない赤の他人に「おかえり」と言われて、はいそうですかと「ただいま」を返す義理が、俺に一ミリでも――いや、分子一つ分でも、あるはずがない。そう自分に言い聞かせる間もなく、彼女は眉間に皺を寄せた。


「ただいまも言えないのかい? まったく、近頃の若いモンは……」


 舌打ちではなく、文句が湯呑みの縁で小さく跳ねる。


 混乱の霧は晴れない。むしろ濃くなる。ここは古王紀ベルヴェリア色全開の異世界だ。なのに、目の前の住民は正座し、湯呑みで音を立てて茶をすする。文化地図の国境線が、鉛筆で引き直されたみたいに歪む。


 突っ込みどころは山ほどある。


 勝手に家に入るな、と言いたい。勝手に茶を淹れるな、と続けたい。だが畳に落ちた湯滴の丸い染みが、妙に現実的で、言葉は喉の手前でほどける。


 ――さて、どうする。


「誰だ、お前」から始めるか。それとも、彼女の湯呑みを指して「それ、どこで手に入れた」と世界のズレを確かめるか。胸の内で選択肢が並ぶ。茶の香りは、なおも淡く、俺の理屈を揺らし続けていた。


 人にとって家とは、世界のどこにも代えられない私的領域だ。


 肌を解き、心をほどき、時に酒に甘えて体裁を崩すことさえ許される。見られたくないものは見えない場所に眠り、見せたくない自分は見せずに済む——その保証こそが「我が家」の本質である。


 その掟を、目の前のババアは湯呑み一つで踏みにじっている。


 茶がすする音は、静かな室内では銃声より質が悪い。小さな陶器の触れ合いが、私的領域の壁に細い亀裂を走らせるのが分かる。


 国家に喩えるなら、これは国境を越える無通告の進軍だ。


 旗も布告もなく領内で堂々と補給をはじめる行為は、条約の余白に紛れた「暴挙」と呼ぶほかない。過言かどうかは、侵入された側が決めることだ。


 だとすれば、こちらにも相応の手続きがあるはずだ。


 年長者を敬え、年寄りを労れ——その教条は尊い。だが、それは国境が守られている前提で機能する道徳だ。侵入を受けた瞬間、秩序は別の階層で組み替わる。


 ここは私の聖域であり、彼女はそれを侵犯した来訪者だ。


 礼節を保つか、警鐘を鳴らすか。湯気は静かに昇り続け、選択だけがまだ宙にある。さて——どう応じる。


 俺は怒りに任せて拳を握りしめ、ちゃぶ台越しのババアの横顔をこれでもかと睨みつけた。


 その次の瞬間には、胸の前で両手をスッと合わせている。


「あ、あの、本日はどのようなご用件でございましょうかぁ~~?」


 屈辱の、高速揉み手である。


 プライドなど、その場で土下座させておくに限る。


 思えば俺の人生(※異世界編)は、最初から勝手尽くしだ。


 一方的に召喚され、問答無用で「歴代最強勇者」に祭り上げられ、気づけば魔王討伐部隊の先頭に立たされていた。実際には魔王を殺してはいないのだが、その辺の事情は都合よく握りつぶされ、「言うことを聞かない最強戦力は扱いづらい」という理由で、帰還直後にあっさりポイ捨て。世界最強クラスの戦闘力を持ちながら、肩書きは見事に「食いつなぐだけの木っ端冒険者」に格下げである。


 それでも、理由なく生き物を殺したくないという一線だけは譲れなかった。


 だから高額報酬の討伐依頼は極力避ける。結果として、懐は常に木枯らし。勇者時代に積み上げた資金は「処分保留」と称して凍結され、触れることすらできない。そうして辿り着いた終の棲家(予定)が、苔生したこのボロアパートだ。


 だが、このアパートを侮ってはならない。


 見た目は廃墟一歩手前でも、家賃と利便性を総合すれば、星環都ルテリオン随一の高コスパ物件。ここを手放すくらいなら、もう一度魔王軍に就職した方がまだマシだ。ゆえに——俺は決して、大家という生命体に対して致命的な失点を犯すわけにはいかない。


 先ほどの情けない台詞も、高速揉み手も、その冷静かつ論理的な結論の産物にほかならない。


 だが、目の前のババアは、そんなこちらの事情など露ほども考慮しない顔で、なおも湯呑みを傾けていた。


 一応、名目上は俺が世界を救ったはずだ。


 だが王様は、功績をきれいに別人の「公式勇者」に付け替え、俺の名前は歴史の脚注どころかインクの節約で削除された。目の前のババアが、そんな裏事情を知っているはずもない。


 平和主義者である俺に許された選択肢は、基本的に「泣き寝入り」の一択だ。


 だからこそ、さっきまで火花が散りそうな勢いでこすり合わせていた両手を、ふと我に返って止める。ここで一度、冷静な勘定を確認する必要がある。


 先月の更新料は、確かに支払っている。


 渋る心臓をなだめつつ、俺のメインウェポン——封輝剣ラグナードを質屋に預けてまで捻出した、一世一代の家賃である。世界を二度救えそうな代物を手放して払ったのだ。計算上も道義上も、こちらに負い目は一片もない。


 だとすれば、この理不尽な居座りはもう看過できない。


 世界に裏切られ、王に切り捨てられた俺は、それでも契約を守ってここに住んでいる。その俺の部屋で好き勝手くつろぐとは——許さんぞ、ババア。次の一手は、こちらからだ。

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