第七章弍節 時限式の誘惑


 夜


 終業時間を迎えた瞬間、将は急いで帰る支度を整えオフィスを後にした。風になったかの様に、廊下を歩いていく。

 

 すれ違う社員から「お疲れ様です」という言葉をかけられる。いつもなら笑顔で返す、何気ない挨拶。しかし今日は焦った顔で会釈だけ返し、一目散にエレベーターへ乗り込む。

 人々が密集し、空気が薄く感じる箱の中。扉や電光の表示、動きの全てに焦ったさを感じる。エントランスに到着した瞬間、人を掻き分けてエレベーターを降りた。


 周囲の人を抜き去って出口を目指すと、透明な自動ドアの近くに宇宙の姿が目に入る。白い円柱に寄りかかってエレベーター側に睨みを利かせていた。


 人混みの隙間から、一瞬目が合った二人。

 黙ったまま宇宙の側を通り過ぎる様に歩く将。並んだ瞬間に同じ速度で宇宙も歩き出す。

 その一連の流れは正に圧巻。目線だけ会話以上の意思疎通を感じさせる物だった。


 外へ出た先は夜の都心。光、音、匂い。特有の喧騒が襲ってくる。

 車がひしめき合う大通り沿いの広い歩道。スーツ姿の会社員から派手な髪色をした若者まで、沢山の人が行き交っている。


 人混みの中を軽やかにすり抜けていくニ人。他の人たちの行動を予測し切った様な歩き方。


「佐伯さんどうだった?」

 

 目線を前だけに向けて投げかけた。


「今のとこ何もないって」


 同じように前だけを見て答える。


「なんか話したか?」

「いや。余計な事言うと可哀想だろ」

「確かに。俊樹には?」

「電話しといた」

「悪い。助かる」


 いつも以上のテンポで話し合った二人。ぶっきらぼうにも聞こえるやり取りだった。その後は無言で都会の雑踏を歩き続ける。

 焦燥感と危機感が歩調を早めていく。横を抜き去るバイクが、徒歩の無情さを痛感させる。少し呼吸を乱しながら、パンドラへ目掛けて一心不乱だった。


数十分後


 パンドラに到着した二人はウッドデッキの椅子に座り、お互いスマホに目線を配っていた。


 宇宙は独自ルートがあるのか、様々な画面を素早く切り替えながら情報を集めていく。対して将はSNSや動画配信サイトをじっくり観察。無言のままに俊樹へ伝えるべきものを、少しでも集めていく。


 時間も注文も忘れて没頭していると、俊樹がゆっくりと姿を現した。


 堂々とした雰囲気のゆったり感ではない。顔が少しやつれ、動きの節々に重さを感じとれる。


 俊樹の来店に空気感で気がついた二人は、すぐさま俊樹に声をかけた。


「俊樹!」「こっち」


 いつも通りを装いながら俊樹も木製の椅子に腰掛ける。隣の席にカバンを置くと、ため息をつく間も与えずに将たちは話し始めた。


 リドリーとあの人の関係。イエスとノーの違い。そして綾との関係性。


「やばいだろ?マジで洒落になってないって」

「お前の周りにいないか?何か聞いてないか?」


 矢継ぎ早に話を続けた二人。俊樹は黙って話を聞き続けた。そして最後に俊樹の身辺を気遣った二人の質問を聞き、大きなため息をついた。


「……なるほどな」

 

 何かを悟ったように呟いたセリフ。将たちとは真逆の態度に違和感がある。


「俺も話があるんだ。実は――」


 親友の言葉が耳に届くと同時に胸を締め付けられた将と宇宙。

 二人の心に浮かんだ共通のものは、絶対に避けてほしいもの。大切な友人から聞きたくない言葉だった。


 しかし、無情にもその予想は的中してしまう。


「俺も、リドリー見てるんだ」


 時間も考えも何もかも瞬間冷凍された。こんな事態が明るみになった途端、親友が巻き込まれているなんて考えたくもなかった。


「おい……そういうのいらねえって」

「嘘じゃねえんだ」

「……疲れてんのは…それか?」

「だろうな。でも見てる分には悪くな――」


 将たちとは裏腹に冷静じみた態度。それは宇宙の逆鱗に触れるには充分だった。俊樹に掴みかかる勢いで宇宙が立ち上がる。


「ふざけんなよ!自分が何言ってんのか分かってんのか?!」


 閑静な街の中に響き渡る宇宙の声。虫の音も車の音も、全てを止めさせたような言葉だった。


「宇宙落ち着け。俊樹、本当に大丈夫なのか?」

 

 宇宙の上着の裾を握りしめ、静止しながら静かに訪ねる。


「ああ。でも、話聞けてよかったよ。拒否らなきゃ良いんだろ?」

 

 真剣さを保ちながらも顔には微笑みがあった。二人に心配をかけまいとする強がりである事は、痛いほど伝わってくる。


「そういう問題じゃ――」

「やめろって。俊樹を責めたって仕方ねえだろ?」


 熱が冷め切らない宇宙をなだめる将。宇宙は拳を強く握り締め、少し間を空けてから椅子に腰掛けた。


「ありがとな。お前らがいて助かるよ」

 

 柔らかい言葉を投げかけられ、将たちは何も言えなくなってしまった。

 不安に押しつぶされそうなのに、俊樹の言葉で心が軽くなる。根拠はないのに、安心できる解決策を示された気分だった。


 将は目線を地面へ落とす。宇宙も膝の上に肘を置いて項垂れた。

 

 そんな二人を尻目に、ゆっくり立ち上がる俊樹。そのままカバンを持つと席を離れようとする。


「…おい。どうした?」

 

 気配で気づいた将が思わず声をかける。その言葉に宇宙も顔を上げた。俊樹が立っていることに気づき、二人とも表情が強張る。


「今日は帰るわ。大丈夫。何かあればすぐに連絡入れっから」

「ちょっ……おい!」


 兄貴の雰囲気が、二人に完全な静止をさせてくれなかった。マスターに軽く挨拶し、店の外へと消えていく。何かに魅入られているとしか思えなかった。


 残された将と宇宙は、椅子に腰掛けたまま動けない。何も発することが出来ない。親友の異変は明らかなのに、俊樹の背中に遮られてしまう。


 やがて俊樹の革靴の音が店から離れていく。音が小さくなるにつれ、将の心にやるせない気持ちが込め上げる。

 

 完全に音が消えた時、二人を包み込んだのは巨大な不安と、静かすぎる夏の夜の闇だった。


 

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