第三部 第3章 運命の日
九月の終わり。
空の色がどこか重く沈み、街の風が冷たく変わり始めていた。
朝から不安定な天気で、ラジオが「夜には大雨の恐れがある」と告げている。
その言葉を聞いた瞬間、湊の胸がざわついた。
――また、あの夜が来る。
学校の窓の外で、灰色の雲が低く垂れ込めている。
授業の声が遠くに聞こえる中、湊はずっと手のひらの中を見つめていた。
彼女の手を離したあの瞬間の記憶が、何度も頭をよぎる。
(今度こそ、繰り返させない)
放課後。
下校のチャイムが鳴り終わるころ、校舎の外はすでに薄暗くなっていた。
ポツリ、ポツリと雨粒が地面を濡らす。
廊下を歩いていると、階段の踊り場に紗耶の姿があった。
窓の外の雨を見つめている。
彼女の横顔は、どこか遠いものを見ているようだった。
「……湊くん、また雨だね」
「ええ」
「ねぇ、最近ね、ずっと同じ夢を見るの」
湊は、息を飲む。
紗耶の声が、少し震えていた。
「崖の上で、すごい雨の中……私、誰かの名前を叫んでるの。その人が手を伸ばしてて……でも、最後にその手が消えちゃうの」
彼女の瞳が潤んでいる。
“その誰か”が自分だと、湊は知っていた。
けれど、それを言うことはできなかった。
「怖いんだ。何か、大切なものを失う夢って……」
「大丈夫です」
「……本当に?」
「ええ。今度こそ、失わせません」
そう言って、彼は微笑んだ。
紗耶は少し驚いたように見つめ、やがて小さく笑った。
「変なの。湊くんの“今度こそ”って言い方、なんか懐かしい」
胸が痛む。
それでも彼はその笑顔を見つめ続けた。
***
夜。
雨は予報通り、次第に激しさを増していた。
稲妻が空を裂き、遠くで雷鳴が鳴り響く。
窓越しに外を見ていた湊の胸に、突然、強烈な不安が走る。
――胸騒ぎ。
冷たい風がカーテンを揺らす。
「……まさか」
携帯を見る。紗耶からの未読メッセージが一件。
『湊くん、外に出ちゃったの? 心配だから探しに行くね』
「……紗耶!」
瞬間、湊は走り出した。
傘も持たず、土砂降りの中を駆け抜ける。
雨が顔を叩き、呼吸が乱れる。
道は滑りやすくなり、街の灯が滲む。
足音を響かせながら、湊は崖沿いの遊歩道へと向かった。
そこは、前の世界で“彼女を失った場所”だった。
「紗耶!」
声を張り上げる。
返事はない。
雷鳴が轟き、木々が揺れる。
そのとき――
街灯の下、雨の中に立つ一つの影を見つけた。
紗耶だった。
白いワンピースが雨に濡れ、髪が頬に張りついている。
「どうして来たんですか!」
「だって、湊くんが……いなくなったから……!」
彼女の声は、雨音に掻き消されるほど小さかった。
足元の泥が崩れかけている。
あの夜と、まったく同じ光景。
「もうここから離れてください!」
「でも、湊くんが……怖い顔してたから……放っておけなかった!」
「大丈夫です! もう、俺は大丈夫だから!」
湊が手を伸ばす。
だが、その瞬間――地面が崩れた。
「紗耶!!」
彼女の体が滑り落ちる。
湊は迷わず飛び込んだ。
雨と泥が弾け、視界が白く染まる。
崖の中腹で、彼は必死に腕を伸ばした。
指先が、彼女の手を掴む。
「離すな! 絶対に離すな!」
「湊くんっ……!」
「今度こそ、俺は離さない!!」
手の中の温もりが、確かにそこにある。
だが、風が強まり、雨が叩きつける。
足元の岩が崩れ、湊の身体が傾く。
「だめ! あなたまで落ちちゃう!」
「いいんです! あなたさえ生きていれば!」
「そんなの嫌っ!!」
紗耶の涙が雨に混ざる。
彼女は必死に湊の腕を掴み返した。
「一人で生きても意味ない! 一緒に、生きたいの!」
その声に、湊の心が震える。
過去の世界で、彼女が言えなかった言葉。
この世界で、ようやく聞けた言葉。
「……紗耶」
「お願い、もう手を離さないで!」
「――ああ、離さない!」
その瞬間、強い閃光が空を裂いた。
轟音とともに、木が倒れ、岩が崩れる。
二人の体が宙に浮き――
――ドンッ、と激しい衝撃。
気がつくと、湊はぬかるんだ地面に倒れていた。
身体中に痛みが走る。
だが、腕の中には、紗耶がいた。
彼女は気を失っているが、呼吸はある。
生きている。
「……よかった……ほんとによかった……」
涙がこぼれる。
雨がゆっくりと弱まり、遠くで雷の音が小さくなっていく。
空の雲が切れ、光が差した。
その光に照らされながら、湊は空を見上げる。
「やっと……守れたんだな……」
小さく笑い、目を閉じた。
風が吹き抜け、木々が静かに揺れた。
その夜、街の雨は静かに止んだ。
そして、長い“輪”のように続いていた運命が、ゆっくりと――ほどけていった。
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