第7話 お縫の影


 お縫は、瓶を眺めていた。

 棚に並ぶ無数の小瓶。中で黒い靄が蠢いている。

 復讐、愛、才能、後悔、正義、信頼。

 人間の欲望が、全て詰まっている。

 お縫は一つの瓶を手に取った。

 赤い靄が、瓶の中で蠢いている。

 愛の影だった。

 お縫は瓶を見つめた。

 しかし、何も感じなかった。

 お縫は瓶を棚に戻した。


 二百年前。

 江戸時代。

 飢饉が、村を襲っていた。

 田畑は枯れ、川は干上がり、人々は飢えていた。

 お縫は、二十歳の女だった。

 夫と、二人の子供がいた。

 しかし夫は、飢えで死んだ。

 子供たちも、衰弱していた。

 お縫は必死に食料を探した。

 草を食べ、虫を食べ、泥水を飲んだ。

 しかし、足りなかった。

 ある日、長男が死んだ。

 七歳だった。

 お縫は泣いた。

 しかし、涙は出なかった。

 体が、枯れていた。

 翌日、次男も死んだ。

 五歳だった。

 お縫は、もう泣けなかった。


 お縫は、村を出た。

 理由はなかった。ただ、村にいたくなかった。

 山道を歩いた。

 足が、もつれる。

 倒れそうになる。

 しかし、歩き続けた。

 気づくと、見知らぬ場所にいた。

 石畳の道。提灯が灯り、霧が立ち込めている。

 お縫は立ち止まった。

 一軒の店が見えた。看板に、何も書かれていない。

 お縫は引き戸を開けた。

 店内は薄暗かった。棚に無数の小瓶が並び、中で黒い靄が蠢いている。

 カウンターの奥に、老人がいた。

 白髪の、痩せた老人。

「いらっしゃいませ」

 老人が言った。

「……ここは、何の店ですか」

「影を扱っています」

「影?」

「人の感情を、影として売買する店です」

 お縫は笑おうとした。しかし笑えなかった。

「あなたは、感情を手放したいのでしょう」

 お縫の息が止まった。

「……なぜ、それを」

「影が教えてくれます」

 老人は棚から一つの瓶を取り出した。中は、空だった。

「これに、あなたの感情を全て入れてください」

「全て?」

「はい。喜び、悲しみ、怒り、愛。全てです」

 お縫は瓶を見つめた。

「……何を、いただけますか」

「永遠の命です」

 お縫は息を呑んだ。

「永遠?」

「はい。感情を失えば、あなたは死ねなくなります。喜びも、悲しみも、全て失います。ただ、生き続けるだけです」

 お縫は黙った。

 老人が続けた。

「それでも、よろしいですか」

 お縫は頷いた。

「……感じたく、ないんです」

「何を?」

「全てを」

 お縫は泣こうとした。

 しかし、涙は出なかった。

「子供たちが死んだ。夫も死んだ。もう、何も感じたくない」

 老人は微笑んだ。

「では、お売りください」


 老人は空の瓶をお縫の胸に当てた。

 黒い靄が、お縫の体から抽出された。

 痛かった。

 いや、痛みも消えた。

 靄は瓶の中に吸い込まれ、蓋が閉められた。

 お縫は床に倒れた。

 息が、浅い。

 心臓が、止まりそうだった。

 しかし、止まらなかった。

「これで、あなたは永遠に生きます」

 老人が言った。

「そして、この店の次の主になります」

 お縫は顔を上げた。

「次の、主?」

「はい。私は、もう疲れました」

 老人は微笑んだ。

「あなたが、この店を継いでください」

 老人は店の奥に消えた。

 お縫は一人、残された。


 現在。

 お縫は、瓶を眺めていた。

 二百年間、同じことを繰り返してきた。

 客が来る。

 影を売る。

 客が去る。

 お縫は、何も感じなかった。

 喜びも、悲しみも、全て失った。

 ただ、人間を観察し続けるだけ。

 しかし最近、お縫は変化を感じていた。

 三島。

 七人分の後悔を背負い、耐え抜いた男。

 お縫は初めて、驚きを感じた。

 人間は、影を克服できるのか。

 久我。

 正義を選び、孤独になった男。

 お縫は彼を見送る際、小さく頷いた。

 人間は、影を使いこなせるのか。

 隼人と大樹。

 影に抗い、友情を守った二人。

 お縫は初めて、動揺した。

 人間は、影より強いのか。

 お縫は棚の奥から古びた櫛を取り出した。

 子供たちの形見。

 お縫は櫛を見つめた。

 何も感じない。

 しかし、何かが変わり始めていた。


 お縫は、一つだけ欲しいものがあった。

 後悔。

 自分の選択を、後悔したい。

 感情を売った選択を、後悔したい。

 しかし、後悔すらできない。

 お縫は、空虚だった。


 ある日、お縫は棚の奥から一つの瓶を取り出した。

 黒い靄が、瓶の中で激しく蠢いている。

 復讐の影だった。

 桐生慎也が買った影。

 桐生は影に支配され、復讐の快楽に溺れた。

 しかし桐生の中には、まだ後悔が残っているはずだった。

 お縫は瓶を見つめた。

 桐生の後悔が、欲しい。


 お縫は店を出た。

 霧の中を歩く。

 街に出る。

 桐生の家を、探す。

 桐生の家は、古いアパートの一室だった。

 お縫は扉をノックした。

 しばらくして、扉が開いた。

 桐生が、立っていた。

 顔は痩せ、目は窪んでいる。

「……あなたは」

 桐生が言った。

「お縫です」

「影喰い横丁の」

「はい」

 桐生は扉を閉めようとした。

 しかしお縫が扉を押さえた。

「あなたの後悔が、欲しいのです」

 桐生は息を呑んだ。

「後悔?」

「はい。あなたの中に、まだ残っているはずです」

 桐生は黙った。

 お縫が続けた。

「あなたの後悔を、私に売ってください」

「……なぜ」

「私は、後悔を感じたいのです」

 桐生は震えた。

「俺の後悔を、あんたが」

「はい」

 桐生は笑った。

「ふざけるな」

「ふざけていません」

 お縫は淡々と言った。

「あなたの後悔は、私にとって価値があります」

 桐生は扉を閉めた。

 お縫は、立ち尽くした。


 翌日、桐生は影喰い横丁を訪れた。

 お縫は、カウンターの奥にいた。

「いらっしゃいませ」

「……俺の後悔を、本当に欲しいのか」

「はい」

 桐生は黙った。

 お縫が続けた。

「あなたの後悔を売れば、あなたは楽になります」

「楽に?」

「はい。後悔を失えば、あなたは何も感じなくなります」

 桐生は震えた。

「それは、いやだ」

「なぜですか」

「後悔は、俺の罪だ。忘れたくない」

 桐生は叫んだ。

「妹の死も、田代たちのことも、全部俺の罪だ。忘れちゃいけないんだ」

 お縫は黙った。

 桐生が続けた。

「あんたは、なぜ後悔が欲しいんだ」

 お縫は答えなかった。

 桐生が尋ねた。

「あんたには、後悔がないのか」

 お縫は頷いた。

「ありません」

「なぜ」

「感情を、全て売ったからです」

 桐生は息を呑んだ。

 お縫が続けた。

「二百年前、私は感情を売りました。そして、永遠に生きることになりました」

 お縫は棚の奥から古びた櫛を取り出した。

 桐生に見せる。

「これは、私の子供の形見です」

 桐生は櫛を見つめた。

 お縫が続けた。

「子供たちは、飢饉で死にました。私は、何も感じませんでした。悲しくも、苦しくもありませんでした」

 お縫は櫛を握りしめた。

「だから、後悔したいのです。感情を売った選択を、後悔したい」

 お縫の声が、わずかに震えた。

「最近、私は変化を感じています」

 桐生は黙った。

 お縫が続けた。

「三島さんは、後悔を背負って生きることを選びました。久我さんは、正義を貫きました。隼人さんと大樹さんは、影に抗いました」

 お縫は桐生を見つめた。

「人間は、影より強いのかもしれません」

 お縫の目に、涙が滲んだ。

 しかし、溢れなかった。

「あなたの後悔を、私にください」

 桐生は震えた。

「……いやだ」

「なぜですか」

「後悔は、俺のものだ。あんたにやれない」

 桐生は黙った。

 そして、口を開いた。

「でも、条件がある」

「条件?」

「あんたが、後悔を感じたら、俺に教えてくれ」

 お縫は黙った。

 桐生が続けた。

「後悔が、どんな感情なのか、教えてくれ」

 お縫は頷いた。

「わかりました」


 お縫は空の瓶を桐生の胸に当てた。

 黒い靄が、桐生の体から抽出された。

 痛かった。

 桐生は床に倒れた。

 靄は瓶の中に吸い込まれ、蓋が閉められた。

 お縫は瓶を見つめた。

 そして、蓋を開けた。

 黒い靄が、お縫に飛びかかった。

 冷たかった。

 靄はお縫の胸に吸い込まれ、心臓を包み込んだ。

 お縫は床に膝をついた。

 瞬間、お縫の中で何かが動いた。

 感情が、流れ込んできた。

 後悔。

 自責。

 苦しみ。

 お縫は震えた。

 涙が、溢れた。

「これが、後悔……」

 お縫は泣いた。

 二百年ぶりに、泣いた。

 床に手をつき、声を上げて泣いた。

 桐生は立ち上がり、お縫を見た。

 お縫が泣いている。

 桐生は、何も言わなかった。

 ただ、店を出た。


 お縫は、泣き続けた。

 後悔が、お縫を満たしていた。

 感情を売った選択。

 子供たちを救えなかった選択。

 全てを、後悔した。

 お縫は櫛を手に取った。

 櫛を握りしめ、泣いた。

 お縫は初めて、人間になった。


 翌日、お縫は店に戻った。

 涙は、止まっていた。

 しかし、後悔は残っていた。

 お縫は瓶を眺めた。

 棚に並ぶ無数の小瓶。

 お縫は初めて、思った。

 人間は、影より強い。

 そして、私も人間だった。

(終)


次回:Episode 8「最後の客」

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