死して魚は鱗を照らす

横浜 べこ

第1話

 朝。

 長月綾乃を起こしたのは、まっすぐな陽光――ではなく。カーテン越しに滲む、淡い光だった。


 薄目に映るのは、不安定な楕円。複雑な虹色を孕みながらゆらゆら漂うその揺らめきは、まるで水槽の中のクラゲみたいだ。


 指先でまぶたを擦る。瞳をゴロゴロと突く逆まつげを戻そうと軽く引っ張ると、二本抜けてしまい、あーあ、と落ち込んだ。


 上半身を起こして、腕を上げながら伸びをする。しかし、いつもなら軽やかに鳴る背骨が、今日は鳴らない。もう一度試しても同じ。眠気の泡が弾けず、関節の奥にたまっているような気持ち悪さに、顔を顰めた。


 どうやら今日は、心地よい目覚めとはいかないらしい。


 粘ついた微睡の中、カーテンをゆっくり泳ぐクラゲたちを見つめる。膨らんだり、分かれたりするその姿が、妙に楽しそうで――

 自分が描いた空想の命に対し、どこか他人事みたいに微笑んでしまう綾乃。


 この子たちが住んでいる薄い布の向こうには、朝日を受けてきらきらと輝く、本物の海が広がっている。でも――窓を開け、その光を1人で受け止める勇気は、まだ出ない。


 そっと床の上のひだまりに手を合わせる。それが今の自分にできる、精一杯の挨拶。


 足を下ろすと、冷房で冷えたフローリングが体温で曇り、霜のような模様を小さく作った。その広がりを見るなり、「あっ」と後悔が胸に湧く。

 昨夜の猛暑に負けて、エアコンの温度を目一杯下げたまま寝てしまったのだ。小言を言うお母さんの顔が浮かび、すうっと背筋が縮んだ。


 月末まで、電気代に気を使って節約するべきか。いや、熱中症で倒れる方が馬鹿げている。それに万一、脱水でも起こして死んでしまったら大変だ。そんな間抜けな最期を迎えたら、お兄ちゃんが海の底から怒って這い出てくるだろう。


 そんな想像をして、「馬鹿みたい」と鼻で笑う。

 でも――怒ってでも、会いに来てくれるなら。それはそれで悪くないのかもしれない。脳裏に焼きついてしまったあの表情を、ほんの少しでも上書きできるのなら。


「綾乃ー? まだ起きてないのー?」


 膨らみかけた記憶を弾き飛ばすように、下の階からお母さんの声がした。


「起きてるよー!」


 そう返事して、綾乃は自室の扉を開ける。


 閉じ込めていた冷気が押し出され、二階で蒸された熱と混ざり合った。それはぬるい風となって足首を撫でる。めまい、と呼ぶほどではないけれど、気温の落差にふらりと立ち眩みしそうになる体。


 綾乃は手すりを掴みながら慎重に階段を下り、リビングへ向かう。

 そこには朝ごはんの支度を終え、キッチンで洗い物に取り掛かるお母さんの姿。食卓には、味噌汁に口をつけるお父さんが居た。


「おはよう」


「おはよー」


 あくび混じりに挨拶を返し、椅子を引いて腰を下ろす。


「綾乃。もう夏休みだっけか?」


 とぼけ顔のお父さんに、綾乃はジロリと視線を向けた。


「普通に“起きるの遅い”って言えばいいじゃん。そういう遠回しな嫌味が、一番うっとおしいから」


「ごめんって」


 難しい年ごろだなぁ、とでも言いたげに笑うお父さんに小さく苦笑し、「いただきます」と手を合わせる。


 目の前に並ぶのは湯気を立てる味噌汁。綺麗に巻かれた卵焼き、薄く焦げ目のついたウインナー二本、ドレッシングで頂が少しへこんだサラダ。ほかに煮物や漬物の小鉢もある。


 シンプルだけど、きちんとバランスの取れた丁寧な朝ごはん。相変わらずお母さんはマメだな、と感心しながら箸先を動かし、卵焼きを一口大の大きさに切り分ける。


 そのとき、テレビから地元ワイドニュースのアナウンサーによる、聞き慣れた挨拶が響いた。

 綾乃は自然と視線を画面に向け――そこで止まる。表示されたテロップを見て、思わずチャンネルを変えたくなった。


「瀬戸内海沿岸部を中心に、各地で同時多発的に発生したダウンバースト災害から、もうすぐ三年。気象庁は同規模の突風災害への警戒を呼びかけるとともに、県は防災体制の強化を進めています」


 ぴくり、と。

 両親の肩がわずかに揺れ、固まる。その微細な変化を逃さない自分に、綾乃は唇を噛んだ。


 どうして、もっと鈍感に生きられないのだろう。

 こんなところで勘が鋭くても、何の得にもならないのに。


 お母さんが雰囲気を変えるように蛇口の水量を少し上げ、ぽつりと呟く。


「もう、三年なのね」


「そうだなぁ……」


 その言葉を聞いた瞬間、綾乃の胸がどきりと跳ねた。


 二人にとっては、“もう三年”なのか。


 自分にとっては、“まだ三年”なのに。


 逃げるように、横の大きな窓へ視線を移す。

 そこには予想どおりの快晴。砂金を散らしたように煌めく、贅沢な海原。


 朝、自室で直視しないようにしていたその景色に押しつぶされながら――

 綾乃は、昨日より2本目減りしたまつ毛をそっと下げた。誰にも気づかれないように。


「今年のお供えは、何にしましょうか」


その質問を受け、テーブルの上へ手元を置くお父さん。


「凪翔も、ハタチになる年か。お酒でも……買っていこうかな」


 交わされる会話に、耳を塞ぎたくなる。

 責められているわけではない。そんなことは分かっている。

 それでも駄目だ。


 ――お兄ちゃんが死んだのは、自分のせいみたいなものなのだから。


 そんな気持ちを無視するように。優しい眼差しのまま、こちらにも声をかけるお母さん。


「綾乃も、お兄ちゃんに見せるスケッチブック、忘れずにね」


「……うん」


 短く返事をして、切り分けた卵焼きを口に押し込む。

 喋ることを拒むように、何度も何度も咀嚼を重ねた。


 テレビのニュースはやがて天気予報へ変わり、ありふれた話題が流れはじめる。

 綾乃たちは、それに耳を傾ける“ふり”をしながら――

 流しきれず残ったこの気まずい無言を、ただじっとやり過ごしていた。



「じゃあ、行ってきまーす」


「二人とも、気をつけてね」


 あの後朝食を終え、いつも通り手早く身支度を整えて家を出ると、お母さんが玄関先で見送ってくれた。


 お父さんは軽く手を振りながら車へ乗り込み、エンジンを入れる。電気自動車特有の控えめな起動音が、鼻先の空気だけをわずかに揺らす。


 タイヤがアスファルトを踏み、車体が静かに滑り出していく。

 その背中を見送り、綾乃は学校へ向かった。


 通学路を抜け、坂道を登り切る。湿った風が頬を撫でた。海沿いの町特有の、濃くてベタついた磯の香り。


 ふと見下ろすと、並木のように並ぶ防潮壁がゆっくり角度を変えている。

 風向きを感知して自動で動く仕組みらしい。揺れる枝葉と呼ぶのは少し大げさだけれど、そう見ようと思えば――見えなくもない。


 海岸沿いから順に積み上がるよう広がるこの街は、どの家も似た色合いをしていた。

 原因は、屋根一面に取り付けられた黒い太陽光パネルのメタリックな輝きだ。

 丁度湿気ってしまった海苔のような、なんとも食欲を削ぐ色合いに、綾乃は苦笑いした。


 そのとき、連続する金属音が耳をくすぐる。


 横の家々では、外壁に取り付けられた小型の風力発電機が、機嫌よく回っていた。

 “持続可能なエネルギー社会”と昔から唱えられてきた言葉は、今ではちゃんと形になり、こういった世帯ベースの自家発電機器が織りなす風景は、どの町でも見られる日常になっている。


 静音仕様の羽根は、回転するたびに光を細かく弾き、涼やかな情緒さえ宿していた。


 風鈴より大人しい“夏の音”。

 設計者の気遣いに包まれながら、綾乃は鼻から深く息を吸う。


 ――人工と自然の境界なんて、もう誰にも分からない。


 けれど、すべてが“正しく機能している”この場所を、素直に“調和”と呼ぶにはどこか躊躇いがあった。


 もっと、無駄な何かが散らばっていてほしい。

 そうじゃないと、人間が息苦しくなるから。


 それが何の得にもならない感傷だと分かってはいる。

 それでもやめられない自分に、また呆れた。


 ――こういう時、普通の人はどうするんだろう。綺麗な風景でも眺めて、気を紛らわすのだろうか。


 すぐ隣には、空と海が溶け合うような水平線が寄り添っている。

 けれど綾乃にとって、それは癒しではなく、ただの“恐怖”だった。


 どれだけ穏やかでも、その向こう側に“深さ”を感じた途端、身震いが走る。

 自分の爪先だけを見つめ、意識の逃げ道をそこで塞いでいると、背後から不意に声が落ちてきた。


「下に、何かあるのか?」


 その言葉に合わせるように、一定のリズムで叩く指先が、綾乃の肩を小さく震わせた。



 歩道をフラフラと進む、幼馴染の見慣れた背中。

 首筋はひしゃげたフレームのように傾き、遠目にも危なっかしく映る。

 手荷物を引き寄せた三橋玲は、そんな綾乃との距離を小走りで詰めた。驚かせないよう、わざと大きめの足音を立てたのに、彼女はまるで気づかない。


 仕方ないな、と玲は人差し指で右肩を軽く叩いた。秒針のように正確な間隔で。


 ビクッ、と綾乃の体が跳ね、曲線を描いていた姿勢が一気に真っ直ぐになる。大きく目を見開き、こちらへ振り返る彼女。


「れ、玲?」


 その皿のような瞳に、玲は思わず笑いそうになる。別に、そこまで驚くことはないだろうに。


「前を向いて歩かないと、転んでしまうぞ」


「そんな、小学生じゃないんだから」


 そのセリフに、玲はやれやれと顎を引いた。

 ――もう忘れてしまったのだろうか? 彼女は二ヶ月前に、この道の小さな段差で躓いていたのに。

 あのときは自分が襟首を掴んで引き戻したから無傷で済んだが、一人だったらこのヤスリみたいなアスファルトで膝を派手に削っていただろう。


 しかし綾乃は、海を横にして歩くといつも難しい顔になって、思考の深みに沈んでしまう。

 その理由について、玲には心当たりがあった。

 しかし――言及はしない。


 友人として。いや、友人だからこそ。

 踏み込みすぎてはいけない領域はあると思う。


 その時、塩味を含んだ風が二人のスカートを軽く揺らした。

 裾を押さえる玲は、いつものように思う。


 ――スカートという衣類は、どうしてこう非効率なのだろう。


 動きにくい。保護性も乏しい。通気性だけは勝っているが、素材を選べばズボンだって十分だ。

 せめて学校が選択制にしてくれればいいのに、と愚痴を脳内で転がしていると、綾乃が自分の荷物を指さした。


「それ、どうしたの?」


 玲は「ああ」と手元を見る。

 タブレット授業が定着し、手ぶら登校が当たり前になった今、荷物を持つのは珍しい光景だろう。

 黒く、ゴツゴツとした保護ケース。それを掲げると、前腕にズシリとした重みがのしかかる。


「準量子演算機能デバイス付きPCだ。今進めてる作業で必要でな」


「へぇ。なんかすごそう。進めてる作業って、もしかしてヒカプロ関係?」


 玲は頷いた。


 ヒカプロ――デジタルアーティスト集団「ヒカリプロジェクト」

 リーダーの白河灯子を含む三名で活動し、最先端機器を駆使した前衛的な表現で“多彩な美”を追求している。


 直近では、海外の有名映画祭で開会式パフォーマンスを担当したほどで、いまや世界各国から引く手あまたの存在だ。


 そして玲は、高校卒業後、その四人目のメンバーとして加入することが決まっていた。


「灯子さんから宿題を出されていてな。卒業までに“自分の美”をひとつ形にしろと。それが完成したら、私のデビュー作としてどこかのステージでお披露目するらしい」


「ふーん」


 下唇を半分だけ巻き込みながら眉を寄せる綾乃に、玲は小首を傾げる。


「どうしたんだ?」


「なんかさ。玲の成績なら、旧帝だって余裕で合格できるのに……。大人の都合で選択肢が狭められてるみたいで、納得いかないなって」


 その言葉に「なるほど」と頷いた。確かに、そういう見方もあるかもしれない。

 だが、ヒカプロへ入る事を選んだのは紛れもない自分の意志だ。それをこの親友へ分かってもらいたくて、玲は背筋を伸ばしながら堂々と語る。


「綾乃の評価はありがたい。でも、進んでゆく人生の良し悪しを決めるのは私だから。有名大学に行くより、デジタルアートの世界へ進む方が、最善と判断したんだ」


言い切った後、綾乃の身がすくんでいるのに気が付いた。


「……ごめん」


 まるで予想していなかったその発言に戸惑い、彼女の顔を覗く玲。


「どうして謝るんだ?」


 綾乃は肩を内へ入れつつ、声のトーンを絞りながら答える。


「その……さっきのは、玲に嫉妬して出た言葉だったから」


 自分の眉が無意識に下がってゆく。なんとも不器用な性格をしているなと、愛おしさに似た感情を覚えた。

 そんな本音は、黙っていればいい。事実、自分を取り巻く大勢の人間はそうしている。玲の実績と才能に対し、上手な愛想笑いと薄い相槌で場を流しながら。


 だけど彼女は、自身の抱いた“嫉妬”という醜さを言葉にして頭を下げた。頬の赤らみは羞恥からだろうか。「気にしなくていい」と、丸まった背をさする。


「そういう綾乃の正直な所、私は美徳だと思っている」


「そんなんじゃないよ……ただ、卑怯なだけ」


 そう、自罰的にならなくていいのに。凪翔君が亡くなってから、綾乃は自身を過剰に責める癖がついてしまった。アレだって、彼女が悪い訳ではない。本当に、仕方のない事だ。だけど実の兄が、目の前で死んでしまったという出来事が抱かせた感情は、他人である自分が容易く“こうだ”と想像してはいけない。


 海を見る度に、綾乃が物思いにふけってしまうのも。きっとそのトラウマのせいなのだろう。


 だが――それを確かめたところで何にもならない。


 ただ予想に対しての「答え合わせ」ができるだけなのだから。そんなどうでもいいことで、綾乃を傷つけたくない。

 それに凪翔君を失った痛みは、自分にとっても余り触れたいものではなかった。


 話題を変えようと、玲は言葉を探す。


「そういえば、最近潮見水族館の方には行ったか?」

 

「ああ、うん。先週の土曜日に」


「直近だな。流石、シオミ博士」


「もー、まだそのあだ名覚えてたんだ」


 クスッと漏れた息と一緒に、互いの固まっていた目線が滑らかになった。


「でも今年になって入館料が値上がりしちゃったから、前みたいに毎週は行けなくなっちゃった」


「それでも、あの規模で1200円なら破格だ。どうやって利益を出しているのか……気になるな」


「本当にね」


 学校へ向かう道をゆっくり歩きながら、二人の会話は絶えず続いていく。


「シオギンの調子は?」


「最近ね、鑑賞エリアの方に来る事が多くなったの。やっと人馴れしてきたのかな」


 綾乃の声が、わずかに弾んだ気がした。

 その響きに合わせるように、玲の脳裏へ、あの奇妙な魚の姿が浮かぶ。


 シオギン――潮見水族館で生まれたトビウオの変異種。

 羽衣のように長く伸びた胸ビレ。

 そして、鱗の一枚一枚が青白い微光を帯びるという、生物学的にも説明しきれない特性。


 光の発色機構は未解明のまま。

 ストレス耐性は著しく低い。

 同種との群泳は不可能で、ほかの魚とも共生できない。


 そのため専用の巨大水槽で、ただ一匹だけで飼育されている。


「普通、トビウオは一年ほどで寿命を迎えるのに、シオギンはもう六年も生きている。本当に、何もかもが不可思議な存在だ」


「だから、飽きずに描いてられるんだけどね」


「……スケッチの方は、どれくらい溜まったんだ?」


「もうじき十冊目かなぁ。お兄ちゃんの命日もそろそろだからさ。きりよく描ききって、お供えしたいんだよね」


「今年で三周忌、だったか」


「すごい、よく覚えてたね」


「そうか? 普通のことだと思うが」


「そんなことないよ。忘れずにいてくれて……なんか嬉しい」


 綾乃の笑みは、浮かんだ瞬間わずかに揺れ、そのまま地面へ落ちていく。


「ねぇ玲。玲はさ……お兄ちゃんが死んで、もう三年だと思う? それとも、まだ三年?」


「……? 三年は、三年でしかないんじゃないだろうか」


 ふざけたつもりはない。真剣に考えたうえでの答えだった。

 だが綾乃は口を半開きにしたまま固まり、それから「ふふっ」と可笑しそうに笑い声を漏らした。


「何か、変なことを言ってしまったか?」


「いや、違うよ。ただ……玲は、本当にすごいなって、改めて思っただけ」


 言葉の意図は読みきれなかった。

 しかし、どこか強張り続けていた綾乃の力がふっと抜けたのを見て、玲は「まあいいか」と傾けていた首を元に戻す。


 そうこうしているうちに、自分たちの通う学校の校舎が見えてきた。


 門をくぐり、玄関先に並んで靴底の砂を払い落としていると、玲が「ああ、そうだ」と思い出したように目線を上げる。


「綾乃。今日の放課後、水族館に行く予定はあるだろうか?」


「うん、行くつもりだよ。スケッチの仕上げ、やろうかなって」


「そうか。もしよければ同行したい。あの場所で、少し試したいことがある」


「全然大丈夫だよ。じゃあ、また連絡するね」


「ああ、頼んだ」


 そう言って、二人はそれぞれ別の教室へ向かっていった。


 教室に入り、綾乃は近くのクラスメイトたちとたわいない会話を交わす。

 一方で玲は、持ってきたパソコンを机に置き、始業までの短い時間を淡々と作業にあてていた。


 そんな時――ふと綾乃の脳裏をかすめたのは、朝、両親が交わしていたあの会話。


 お父さんとお母さん。

 きっと、成人を迎えたお兄ちゃんと三人で、ゆっくり話がしたいだろう。


 だったら自分は、邪魔にならないように……どこかで時間を潰していようか。


 そんなことを、綾乃はぼんやりと考えていた。


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