第46話 初めての衝裂、初めての大誤解

 ――十五年前。


 母親に頼まれ、近くのコンビニへ向かった海莉は、小さな財布を両手で持ちながら店内を歩いていた。


「……牛乳、普通のと低脂肪のどっちがいいんだろ? ……ていうか、低脂肪ってなに? ま、いっか!」


 悩んだ末に普通の牛乳をカゴへ入れ、ついでにスイーツコーナーに視線を送る。


「シュークリーム食べたいなぁ……でも頼まれてないから怒られるかな?」


 小学生らしい独り言。

 その声は明るく、無邪気で、世界を疑うことを知らなかった。


 店内は静かだった。

 客はほとんどおらず、レジには店員が一人欠伸をしている。


 突然の気配だけが、海莉の真後ろに突然生まれた。


 ぞっと、背筋に悪寒が走った。


(え……?)


 振り向くより早く、ひやりとした冷たい金属が、海莉の首筋に触れた。


「大人しくしてろ、ガキ」


 耳元で低い、大人の男の声が落ちてくる。


「ひ……っ」


 息が止まった。

 喉の筋肉が勝手に固まり、呼吸すら忘れる。


(なに……? なんで……?)


 男の手が海莉の肩をぐいと掴み、店の奥へ押し込むように連れて行く。


「いい子にしてろ。黙ってりゃ殺さねぇ」


 その声の本気が分かってしまうほど、海莉は幼くても敏感だった。


 首に添えられたナイフは、

 冷たく、鋭く、皮膚を浅く押し込んでくる。


(……だれか……助け……)


 レジの店員が気づいた時には、既にもう海莉は男に包み込まれるように捕まえられていた。


 店員が口を開こうとした瞬間、男はナイフをさらに押しつけ、海莉の喉から小さく息が漏れた。


「レジの金出せ」


 店員の喉がごくりと鳴る。


 海莉の心臓は、破裂しそうに跳ねていた。

 でも声は出ない。助けを求めることができない。


(……こわ……い……)


 混乱と恐怖で頭が真っ白になり、それでも、首元の冷たい感触だけは強烈に残った。


 端的に男が言えば、店員は震える手でレジを開ける。


「早くしろ! このガキ、ぶっ殺すぞ!」


「ひっ……!」


 乾いた悲鳴が店内に響いた。


 海莉の小さな手は、ぶらりと力が抜けて震えている。

 涙は頬をぽたぽたと落ち、喉が引きつるように震えた。


「……う、ぅ……あぁ……」


 泣き声にならない絞り出すような声で、空気をくぐもらせるような嗚咽が漏れた。


「うるせぇ、泣くなッ!」


 男が腕に力をこめ、ナイフの刃が海莉の首を浅くなぞった。


 痛みは鋭くない。

 しかし、殺されるという恐怖だけは、言葉にならないほど強烈に幼い心を締めつける。


(……こわい……こわい……いやだ……っ)


 視界の端がにじみ、喉で途切れた息が「ひ……」とひっかかる。


 その瞬間だった。


 パチン――


 空気が、ひとつ弾けたように揺れた。


 海莉の胸の奥、心臓の裏側あたりで、何かが跳ねるように震えた。


(……なに……?)


 幼い海莉には、それが何なのか分からない。

 ただ、身体の奥底から熱のようなものが湧き、皮膚の内側を這うように広がっていく。


 感情と恐怖がぐしゃぐしゃに絡まり、その全部が胸の真ん中に、ぎゅっと押し込まれた。


 そして、空気が揺れたまま止まった。

 店内の音が一瞬だけ消える。


(やだ……やだ……やだ……!)


 幼い声では言えなかった叫びが、海莉の心の中で爆ぜる。


「……え? あ……?」


 男の身体が、ふわりと宙へ浮いたかのように、真横へ跳ね飛ばされていく。

 空気が歪み、棚が揺れ、陳列された商品が落下する。


 見えない衝撃が、男を吹き飛ばした。


「がっ……!」


 カランとナイフが床に落ちる音がした。


 海莉は、何が起きたのか理解できず、足を震わせたまま硬直した。

 胸の中で、なにかがまだ暴れようとしていた。

 呼吸が荒く、涙が止まらない。


(……な、に……いまの……なに、がおきたの……?)


 幼い脳内では、理解のしようがなかった。


 気づけば、男は壁にもたれたまま動かず、店員は呆然と海莉を見つめていた。


 海莉の足元だけ、まるで爆風が起きたように床がひび割れている。


(こわい……こわい……こわい……! なんで……?)


 自分の身体で起きたことなのに、自分で起こしたとは到底思えない。

 海莉は、涙でぐしゃぐしゃになった顔で震えながら、ただ一言、かすれる声を漏らした。


「……だれか……たすけて……!」


 店の出入口が勢いよく開いた。


「ったく……昼休み返上で拾うとは思わなかったな」


 ドス黒い怒気を纏いながら、黒スーツの男が店内へ踏み込んだ。

 獣のように研ぎ澄まされた目で状況を一瞬で把握する。


 床に転がる強盗。

 手から離れたナイフ。

 震えながら、通報用の非常ボタンを押していた店員。

 そして、泣き崩れている、まだ小さな海莉。


 男、雁木亮介は舌打ちをして、ゆっくりと歩み寄る。


「おーおー……派手に暴れたじゃねぇか」


 低い声。

 だがその声音には、海莉を脅す色は一切なかった。


 雁木は、泣きじゃくる海莉の前に膝をつくと、無骨な手をそっと彼の頭に置いた。


「……怖かったな、坊主。もう大丈夫だ」


 乱暴そうな外見に似合わないほど、手付きだけは驚くほど優しかった。


 ──しかし。


「ひっ……く……しにたく、ない……こわい……」


 涙で顔をぐちゃぐちゃにしたまま、海莉は震えた声を絞り出した。

 その視線は、どう見ても目の前の雁木に向いている。


「おいおい……俺は──」


「うぇぇぇぇん!! ころされるっ!! たすけてぇ! だれかぁぁ!!」


 店内に響き渡る絶叫。


 雁木は数秒、固まった。

 目の前にいるのは、助けに入ったはずの男を敵の親玉だと完全に誤解している子供。


 黒スーツ。

 鋭い目つき。

 倒れた強盗の横に立つ姿。


 どう見ても、子供からすれば、悪役だった。


「……お前なぁ……」


 雁木は額を押さえ、深いため息をついた。


 優しいつもりが、全く伝わっていないどころか、海莉の恐怖を加速させているという最悪の状況だった。


「……坊主、落ち着け。俺は助けに来たんだよ」


「うそだぁ!! こんなこわいひとがたすけるわけないぃ!!」


「怖い人って言うんじゃねぇ……」


 雁木は顔をしかめながらも、できるだけ優しい声を出そうとする。


「ほら、ナイフ持ってんのはあっちのバカで」


「うああああああああ!! ちかづかないで!! やだやだしにたくない!!」


 海莉は完全にパニック状態で、雁木の手が数センチ動くたびに泣き喚く。

 雁木は、ついに両手を上げて見せた。


「ほら、手ぇ出してねぇだろ? 落ち着けって。な?」


「やだああああ!! しゅつじんしてるひとみたいなかおしてるもん!! ころされるもん!!」


「出陣じゃねぇ、勤務中だ……」


 雁木の額に青筋が浮かぶ。

 しかし、ぐっと堪えて近づかないように半歩下がる。


「……坊主。俺は敵じゃない。だから泣き止め。な?」


「ひっ……ひぃっ……っ、うそだ……そんなこわいひと、たすけてくれるわけ──」


 海莉がそう言いかけた瞬間。

 雁木は一瞬だけ、優しさを出そうと笑顔を作った。


 ──それが悪手だった。


 その笑みは人を安心させるものではなく、完全に“血の気のないヤクザの笑み”になっていた。


 海莉の悲鳴が店の中に跳ねた。


「ひいいいいいいいい!!! こわい!! ぜったいころされる!!! おかあさぁぁぁん!!!」


「……だから違ぇって言ってんだろ……!」


 雁木は頭を抱えながら、天井を見上げた。

 そして、眉間を押さえ、ため息を吐く。


「……おい坊主、いい加減に──」


「いやああああああああああ!! そのかおやだぁぁぁ!! もうむりぃぃぃ!!」


 雁木の表情が、無意識に苛立ちへと寄る。


(ちっ……この泣き虫坊主。早く保護してぇんだがな……)


 苛立ちを胸にしまったそのときだった。

 コンビニの自動ドアがガラッと開く。


「雁木さん!? 何してんすか!!」


 息を切らした因課職員が駆け込んできた。


「通報入って飛んできたら……えっ、なんで子供泣かしてんすか!!」


「泣かしてねぇ。助けてんだよ」


「どう見ても泣かしてるでしょ!! ていうか顔が怖いんですよ雁木さん!!」


「……あ?」


 雁木の眉がピクリと跳ね上がる。


「お、落ち着いて下さい! ほら子供、余計泣くんで!!」


「う、うわあああああ!! こわいひとがふたりになったぁぁぁぁぁ!!」


 海莉は職員を見て、更に号泣した。

 職員は両手を挙げて後退しながら叫ぶ。


「なんで俺まで!? 俺、優しい顔してる方でしょ!?」


「見た目はどうでもいい、泣き止ませろ」


「無茶振りがすぎる!!」


 職員は慌てて海莉に近づき、小声で話しかける。


「だ、大丈夫……大丈夫だからね……!」


「やだぁぁぁ!! しらないひとぉぉ!! ころされるぅぅぅ!!」


「え、俺も? 俺も!?」


 職員は両手を上げたまま、雁木の方を振り向く。


「雁木さん!! どうやってあやすつもりだったんですか!!」


「優しくしてた」


「どこが!? 無理に笑ったんでしょ!? あれ、子供が泣く以外の効果ねぇから!!」


 職員の叫びに、雁木は心底不服そうに眉を寄せた。


「じゃあ……俺はどうしたら……」


「一旦下がってください!! 雁木さんの顔、今は刺激が強すぎる!!」


「……俺の存在を否定すんじゃねぇ。元からこういう顔だ」


 職員は海莉を抱き寄せて、必死に背中をさすりながら言った。


「ほら、もう大丈夫……怖くないよ……!」


「ひぃ……ひ……このひとは……こわくない……?」


「えっ、あ、うん!! 雁木さんほどは!」


「“ほど”って何だよ」


 雁木が低く唸り、肩を落とした。

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