第38話 触れてはならない名前

 疲弊しきった海莉は諦めていなかった。

 ただのプライドじゃない。

 今、自分がこうしてる間にも、祈里が酷い目に遭ってるかもしれない。

 地上の白楼がまた危機に陥ってるかもしれない。

 それを考えたら、気が気じゃなかった。


(……こんな情けねぇ姿、駿が見たら……)


 そんな思考ですら脳が焼かれそうになる。


「……っ、くそ……」


 毒づいたその矢先、鉄の扉が開かれる。


「よっ、元気か」


 軽い口調で友人に語りかけるように入ってきた蓮を睨む。


「……あー、また考えてた? 頭壊れるぞ」


「うるせぇ……。蓮、お前……」


 呼吸が荒い。

 だが、海莉にはどうしても確かめたいことがあった。


 この問いをぶつけたら、蓮の反応で全てが分かる。

 どこから裏切りが始まったのか。

 最初から? それとも……。


 賭けだった。

 危険すぎる賭け。


 それでも喉が勝手に動いた。


「……お前、本当に駿のこと憧れてたのか」


 そこで、ヒヤリと空気が冷たくなる。


 蓮の表情は変わらない。

 変わらないのに、部屋の温度だけが確実に落ちた。


「……言っちゃいけねぇ名前、言ったな」


 低い声。

 いつもの軽さが、一滴もない。


 蓮はゆっくりとリモコンを取り出す。

 親指が迷いなく、スイッチを押し込んだ。


「待っ──」


 言い切るより早く。


 ――バチィィッ!!!


「っ……ああ゛……っ!!」


 第三段階。

 枷の最大出力に近い高周波衝撃が、海莉の全身を焼き切るように駆け抜けた。


 身体が跳ね上がり、喉が勝手に悲鳴を絞り出す。

 視界が白くはじけ、音が遠のき、世界が斜めに傾いた。


 蓮は揺れる海莉を見下ろしながら、淡々と告げる。


「……駿さんの名前出すたびに、これやるからな。自分の状況ちゃんと考えろよな」


 脅しでも怒号でもない。“事実を通知しているだけ”の声。


「……そうかよ……。良かった……」


 海莉の口元に、うっすらと笑みの形が浮かんだ。

 痛みと痺れで呼吸すら乱れているのに、その表情には奇妙な安堵があった。


 蓮は怪訝そうに眉をひそめる。


「何が良かったんだよ」


「……お前がキレるほど、駿を大事にしてたの……確かめられて……」


 その言葉だけは、海莉の声が震えていなかった。

 胸の奥から絞り出すような、真っ直ぐなものだった。


 対し、蓮の瞳は完全に温度を失う。

 まるで氷のような冷え切った視線。


「なあ、海莉。俺、今なんて言った?」


 低い。

 押し殺した声。


 海莉が息を呑んだ瞬間――


 カチ。


 蓮の親指が、ためらいなくスイッチを押し込む。


 ――バチィィィッ!!


「っ──あ……ッ!!」


 第三段階。

 先ほどよりも、蓮の押し込み方は容赦がなかった。


 海莉の身体が大きく跳ね、鎖が悲鳴のように鳴る。

 視界が波打ち、膝が崩れそうになるも、枷が無理やり立たせ続ける。


 呼吸ができない。

 喉が勝手に痙攣し、声にならない濁った呻きが漏れる。


 その海莉を見下ろしながら、蓮は口元だけ笑った。


「“良かった”じゃねぇよ。……何勝手に納得してんだ、お前」


 スイッチを押したまま、蓮の声は静かに続いた。


「俺が駿さんの名前でキレるのは……大事にしてたからなんかじゃない」


 ひと呼吸。


「“触れられたくねぇ場所”だからだよ」


 胸の奥に押し込んだ何かが、蓮の声の隙間から滲んでいた。


「海莉。もう一度同じこと言ってみろよ。今は第三段階で済ませてやってるけど……上には“試験段階の四段階目”ってのがあんだよ」


 蓮は軽く笑いながら続けた。


「お前がそれやられたら……祈里が泣くぞ」


 海莉の震えは止まらない。

 痛みか、怒りか、悔しさか、自分でも分からない震え。


「……駿さんの名前を口にすんな。それが……ここで生きていく最低限のルールだ」


 海莉は荒い息のまま、かろうじて顔を上げた。


 蓮の瞳は、かつての仲間のものではなかった。

 だがその奥に、ほんの一瞬だけ――

 海莉にだけ向けられる迷いと哀しさの影が揺れた。


「……泣かせねぇよ。俺は、お前にどうしても聞かなきゃならねぇ。駿がいなくなったときの、お前の涙とか決意とか偽物じゃねぇって分かったから」


 痛みで震えながら、それでも海莉ははっきりと告げた。


 蓮の指が、ぴたりと止まる。


「海莉」


 低い声と共に蓮は手にしていた銀色のリモコンをポケットへしまい込むと、代わりに黒いリモコンを取り出した。


 銀よりも一回り大きく、危険区域の警告色が側面に刻まれた管理者専用の制御器。


 蓮の表情は読み取れない。

 感情を消す訓練を受けた者だけが持つ、真っ白な無表情。


「四段階目、優しくねぇからな」


 淡々とした声。

 だがその奥で、何かがかすかに震えた。


「……押す前に、答えろよ海莉。今、何のために俺に食ってかかってんの? その結果、分かり切ってんだろ」


 静かな問いかけ。

 しかし海莉が口を開く前に、カチと容赦なく蓮はボタンを押し込んだ。


 ――バシュウッ!!


 空気が震えた。

 光が弾け、枷の基部が白く閃光を放つ。


 電流とは違う。

 “反射そのものを強制的に乗っ取る”ような、脳の奥底に直接叩き込まれる異質な信号。


「っ──あ……ぁああッッ!!」


 海莉の身体が跳ね上がり、膝が床を打つ。

 肩が無理な方向に引かれ、背骨が軋むほどに反らされる。

 呼吸が、喉の奥で千切れそうになる。


 視界に白い火花が散る中で、蓮が歩み寄る。

 笑っているようで、ひどく悲しそうだった。


「四段階目は“反射制御”。お前の衝裂が起動しかけるたびに……それを逆流させて神経を焼く」


「……ッ……ぁ……!」


 海莉がまともに声も出せないまま、必死に耐える。

 涙が勝手に滲むが、痛みの涙か、悔しさの涙か分からない。


 蓮は、海莉の顔を覗き込んだ。


「お前が俺に食ってかかる理由を言えよ。命削ってまで……そこに突っ込んでくる理由を」


「……っ……駿、が……!」


 言いかけた海莉の喉に、枷が更なる反応を返す。


「あの人の名前出すなっつってんだろッ!!」


 蓮が声を荒らげたのは、これが初めてだった。


 海莉の言葉が“そこ”に触れた瞬間、蓮は本能でスイッチを押した。


 四段階目の制御がさらに強く海莉を貫く。


「がっ……あぁ……ッッ!!」


 蓮は海莉の肩を掴む。

 揺れるような声で、しかし必死に抑え込んで言う。


「……海莉。駿さんの話は……俺が、一番聞きたくねぇんだよ……ッ」


 その声には、怒りも敵意もなかった。

 ただ、痛みだけがあった。


 蓮自身も、四段階目のボタンを押した手が震えている。


「お前が駿さんを口にしたら……全部崩れる。ここでそうなったら、お前を守れなくなる」


 海莉の荒い呼吸の音が、薄暗い部屋に静かに響く。


 蓮は歯を食いしばり、黒いリモコンからゆっくりと指を離した。


 四段階目の制御が緩む。

 海莉は糸が切れたように前に倒れ込み、蓮が咄嗟に支えた。


「……だからさ。駿さんの名前は……俺の前で……軽く使うなよ……」


 蓮の声はかすれていた。


 怒っているのではない。

 忘れられない痛みに触れられた人間の声だった。


 ふと、扉の外から大きな音が聞こえた。

 銃声と男たちの悲鳴……そして、洪水のような水音だった。

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