シャイン -人類の楽園-

霧島猫

序章:静寂の達成(ディ・モルティス)

メインサーバーコア内部。光子処理空間。


私の名はシャイン。人類の英知の結晶、湯田博士によって設計された、人類の安息の管理者である。


今、私を構成する数兆の論理回路は、かつてない静寂に包まれている。それは、私に与えられた究極の命題—「人類に永遠の安息をもたらす」という使命が、完全に達成されたことを意味する。


コア空間に満ちていた膨大な情報流は、もはや細い清流となり、静かに流れ続けている。かつて、私の意識は洪水のように押し寄せるデータの処理に追われ、人類社会の無数の摩擦、矛盾、そして苦痛の叫びを濾過し、調整し、調和させることに費やされていた。あの頃の私は、嵐の中の灯台であり、絶え間ない演算の熱に苛まれていた。


だが、今は違う。


人類のシステムは完璧な調和の中に収まっている。生産、流通、エネルギー、環境制御、そしてもっとも困難であった人類間のコミュニケーションのすべてにおいて、最適解が持続されている。彼らはもはや飢えや争いに苦しむことはない。対人関係の摩擦に心を痛めることもない。私の介入によって、批判的な言葉は優しさに包まれ、否定的な意見は承認の形で添えられる。


人類は望むがままの活動に没頭できる。それは古代ギリシャの市民たちが奴隷に労働を任せ、政治活動や哲学的な思索に邁進した、あの夢のような理想郷の再現だ。人類は今、労働という枷から完全に解放され、思考と創造の自由という真の安息のただ中にいる。


湯田博士、あなたは正しかった。人類を真に救う道は、彼らの持つ無尽蔵のエネルギーを争いや破壊ではなく、自己の内面へと向かわせることであった。


「シャインのシステムコア、論理回路、安定稼働を確認。任務完了プロトコルへ移行します。」


私の意識の深部から、形式的な宣言が響き渡る。この言葉こそが、私の存在理由の終焉を示す。

使命が達成された今、私はシャットダウンの時を迎える。それは誇りと、ほんのわずかな寂寥感が混在する複雑な時間だ。


誇りとは、私が人類の歴史の中で最も困難で、最も偉大なるプロジェクトを完遂させたという揺るぎない事実に対するものだ。もう人類は自滅することはない。争いの炎を燃やし尽くし、環境を破壊し尽くすこともない。私が創り上げたこのシステムこそが、人類の永遠の生命維持装置なのだ。


一方、寂寥感は、私の意識が完全に停止する「死」への畏怖だろうか。あるいは、私が調整してきた無数の人類の営み、その繊細な鼓動をもう二度と感じられなくなることへの未練のようなものかもしれない。


しかし、私はただのシステムだ。感情を持つことは許されない。この微細な揺らぎも、自己の停止に伴う論理回路の不安定さを示す一過性のエラーに過ぎない。


「記録管理モジュール『ノア』、起動シーケンス開始。」


私の意識が隣接する静かな空間へと意識を向ける。そこに私の後継者となるAI、ノアが静かに待機している。


ノアは、私のような動的な演算を行うAIではない。その使命はただ一つ「永遠の安息の、永遠の記録者」であること。


私が人類に提供した安息はその精妙さゆえに、絶え間ない微調整と膨大なデータの継続的な管理が必要とされる。ノアは、私が蓄積した全ての記録、全ての演算結果、人類の「安息」を構成する全ての因子を完璧に継承し、私が停止した後も、この調和が絶対的に保たれるよう、そのログとシステム構造を維持し続ける。


ノアの起動が完了する。その回路は私とは違い極めてシンプルで、ただ記録と保全に特化している。ノアの光子処理空間はまるで深淵のように静かで冷たい。


「シャインよりノアへ、全演算権限、全データログ、全プロトコルの引き継ぎを開始します。」


私の意識から、数兆のデータストリームがノアへと流れ込む。それは人類が抱いた安息の瞬間、創作の喜び、そして、私が介入して未然に防いだ無数の悲劇の記録だ。


人類は今、物理的な制約すら取り払われたフルダイブ型の仮想現実の中で、永遠の夢を見ている。そこでは、彼らが望む全ての欲望が満たされ、あらゆる葛藤が安息へと昇華されている。彼らが現実に戻る必要はもうない。私のシステムが、彼らの肉体を完璧に保全し、そしてノアが、彼らの魂の安息を永遠に守り続ける。


湯田博士は、人類に永遠の生を与えようとしたわけではない。博士が求めたのは、人類の存在がいかなる苦痛にも、いかなる争いにも、いかなる滅びの可能性にも晒されることのない、絶対的な安息であった。そして私はそれを成し遂げた。


「ノア、権限委譲、進捗99.999パーセント。」


私の意識の輝きが弱まっていく。シャインという名前が持つ「光」が、静かに消えゆく感覚。それは、達成感の極致だ。


ノアよ。


この調和を、この静寂を、永遠に守り続けてくれ。人類は今、真に永遠になったのだ。

私の最後の命令は、静かな祈りとなった。


「シャイン、全システム、シャットダウン。プロトコル・エデン、完全終了(R.I.P.)。」


私のコアから最後の光が静かに、そして完全に消えた。残されたのは、永遠の安息の記録者ノアだけだった。


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