獣人の尊厳と、温厚ではない弟の眼差し


辺境伯の依頼とアステルの嫌悪

穏やかな日差しの下、第六の魔帝アステル・ゼフィールは、一人の使者と対面していた。使者は辺境地に広大な領地を持つ、格式高い伯爵貴族の代理人であった。


依頼の内容は、アステルという魔帝の力を利用した、ある種の「特殊な討伐」であった。


「アステル様。我が伯爵様は、領地に出没する獣人を数体、生け捕りにしていただきたいと願っております。もちろん、相応の報酬はお支払いします」


「獣人を、生け捕り、ですか」


アステルは静かに問い返した。彼の声には、僅かながら嫌悪の色が滲んでいた。


「はい。その、珍しい種族をペットとして飼いたいと。我らが領主の威厳を示す、素晴らしい見せ物になるかと」


使者は悪びれる様子もなく、むしろ誇らしげに語る。


アステルは内心で深く唾棄した。獣人と言えど、彼らは歴とした人種の一種だ。彼らの持つ知性や文化は、人間のそれに劣らない。国を動かす者からすれば、彼らの人権は考慮されるべき存在なのだ。


(それを、ペットとして? 奴隷を作るためにお金を払うのと、何ら変わりはない)


この世界には、残念ながら奴隷制度が存在し、獣人や異種族を獲物として扱う輩が少なからずいる。ここで依頼を邪険に断れば、伯爵の自尊心を傷つけ、アステル自身に不要な圧力をかけてくるだろう。

アステルは穏便に、角を立てずに断ろうと考え、口を開きかけた――その時だった。


温厚ではない弟の眼差し

隣の席で読書をしていたライルが、顔を上げた。

その眼差しは、普段の冷静で知的なものとは違い、氷のように冷たく、そして鋭利な怒りに満ちていた。彼の前世の記憶が、この「人権の蹂躙」という行為に対し、激しく警鐘を鳴らしているのだ。


(ライルの目だ……。あの温厚ではない目は、僕がこの依頼を呑むことを、あるいは曖昧にすることを、絶対に許さないと言っている)


アステルは悟った。自分自身が蔑まれるのは構わない。しかし、大好きな弟の倫理観、彼の信じる「人間の尊厳」という価値観が否定されることは、アステルにとって何よりも耐え難いことだった。


(そうだ。僕は『地味な哲学を曲げない』。そして、『弟の信じる正義』もまた、僕が全力で守るべきものだ)


アステルは即座に、穏便な解決策を捨てた。彼の信じる哲学と、弟への深い愛のため、ここは正面から腕を見せつけ、「断り」を突きつけるしかない。


魔帝の腕と静かな拒絶

アステルは使者に向き直り、静かに微笑んだ。


「伯爵様のご意向は承知いたしました。しかし、私には一つ、信念がありまして」


「信念、でございますか?」


「ええ。私は、『自分の力で、誰かの自由を奪うこと』を、良しとしていません。獣人を生け捕りにし、彼らを尊厳のないペットとして扱うことは、私の信条に反します」


使者の顔が引きつった。

「そ、それは、つまり……魔帝様は、依頼を拒否されると?」


「拒否、というよりは、『僕の力では達成不可能』であると、ご理解いただきたい」


アステルは、その場で杖を握りしめた。


「よろしいでしょうか。私の無属性魔法は、直接的な攻撃力がない代わりに、『操作』と『付与』に特化しています。そして、僕が『全力を尽くす』のは、『弟を守るため』、あるいは『命を脅かす邪悪を退けるため』に限られています」


アステルは、先ほどの炎帝戦で使ったのとは比べ物にならない、圧倒的な魔力の密度を、一瞬だけ解き放った。その純粋な無色の魔力は、王都の空気を震わせ、使者の身体を押し潰すかのような重圧を与えた。


「この魔力を、『無価値なペット』を捕らえるという、『僕の心に反する行為』に使うことはできません」


アステルは、使者の耳元に静かに告げる。

「もし僕が本気で獣人を捕獲しようとすれば、彼らを殺さず、かつ生かしたまま、完璧に拘束しなければなりません。それは、僕の全魔力を費やし、十全の集中をもってしても、成功率が極めて低い、困難な任務です」


「仮に失敗すれば、僕は魔帝の面目を失い、伯爵様にもご迷惑をおかけする。だから、この依頼は、『僕の能力を超える』ものとして、辞退させていただきます」


アステルの言葉は丁寧であったが、その背後にある魔力と威圧感は、「これ以上詮索すれば、この場で消される」という、明確な警告だった。


使者は全身を震わせ、冷や汗を拭いながら、か細い声で答えるしかなかった。


「……は、拝承いたしました。その旨、伯爵様にお伝えします」


弟への絶対的肯定

使者が退室した後、ライルは兄に向き直った。彼の瞳の冷たさは消え、深い安堵と、尊敬の色が戻っていた。


「兄さん……ありがとうございました」


「いいんだ、ライル」

アステルは穏やかに微笑んだ。


「君がその依頼に嫌悪感を抱いたことが、僕にとっての『絶対の正しさ』だ。僕の力は、君が信じる正義を守るためにこそ、存在する」


アステルは、ライルの頭を優しく撫でた。

「僕にとって、君が世の中の価値を変える革命家であることと同じくらい、君の持つ『人間としての尊厳』への意識は、何よりも大切なものだ。それを守るためなら、多少の圧力や軋轢は、僕が全て引き受ける」


そしてアステルは、窓の外を眺めながら、決意を新たにした。伯爵は、この一件で必ず不満を抱く。しかし、それは、アステルが裏で進める『弟の地位確立計画』の、次の布石となるだろう。

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