虹色の日々

 次の日も、ぼくは放課後に美術室へ向かった。今日も美術室前の廊下には人だかりができていて、みんなで転校生のことを「幽霊だ、幽霊だ」とヒソヒソ話し合っている。それが文字通りの幽霊じゃないことを知っているぼくは、みんなに見つからないようにトイレの方へとこっそり隠れた。


 やがてみんなが居なくなったのを見てから、ぼくはまた美術室へと入った。今日も転校生は絵を描いている。ぼくが「何を描いてるの?」と聞いても、彼女は返事をしなかった。


 彼女が返事をしないのを良いことに、ぼくは勝手にキャンバスを覗きこんだ。白いキャンバスの中には、赤や橙色の絵の具が散りばめられて、暖かくにじんだグラデーションを作っている。夕焼け空だ、とぼくは思った。


「綺麗だね」、キャンバスに向かってぼくが呟いた時、初めて転校生がぼくの方を振り向いた。長い前髪の隙間から覗く彼女の目は、思いのほか純朴そうに見開かれていた。


「絵、描くの?」


 彼女がぼくに問う。その時ぼくは、とっさに「描くよ」と嘘をついてしまった。絵なんてまともに描いたことがないのに。何故か、話を合わせないといけないと思っていた。


 今思い返すと、この時のぼくは、きっと彼女の隣に並びたかっただけだったのだろうと思う。


 ぼくは慌ててランドセルからノートを取り出して、転校生の横の机に座って鉛筆で絵を描いた。図画工作ずがこうさくの授業がない日は絵の具なんて持っていなかったし、イーゼルやキャンバスの使い方なんてわからなかった。


 すると転校生は、自分の絵筆を水入れに突っ込んでから、ぼくの座っている机の方へと寄って来た。そしてぼくが勝手に彼女のキャンバスを覗いたように、彼女もぼくのノートを勝手に覗き見た。


「空を描くなら、鉛筆の持ち方は横がいいよ」


「えっ?」


 ぼくは彼女の言葉に色んな意味で驚いた。鉛筆の持ち方、と言われても何もピンと来なかったけど、何より適当に彼女の真似をして描いたノートのモジャモジャが、空を描いていると気づかれたことにも驚いた。それに、彼女の方からぼくに話しかけてくるとも思わなかった。


 ぼんやりしていると、転校生は「貸して」とぼくの鉛筆を取った。彼女は確かに鉛筆を横に倒すように握って、ぼくのノートへと芯を撫でつけるように絵を描いた。


「こうすると、鉛筆で淡い表現ができる。濃淡を作るのが、絵の基本」


 なるほど、とぼくは彼女の描いた鉛筆の跡を見て思った。そこにはぼくが描いたモジャモジャと違って、ふんわりとした黒鉛こくえんの跡が描かれている。それは色がついていなくても、確かに空に見えた。


 それからぼくは、毎日のようにこっそりと放課後の美術室へ行って、転校生の隣で絵を描くようになった。最初はノートに鉛筆で描いていたのを、そのうち彼女と同じものが描きたいと思うようになり、わざわざ図画工作の授業が無い日も絵の具セットを学校に持っていくようになった。


 別にぼくと彼女は、美術室で特別会話をするわけではなかった。彼女はただひたすらキャンバスに向き合い、筆をとる。ぼくは彼女の隣で真似をして、絵を描いた。それだけの日々だった。


 それだけの日々が、あの時のぼくにとっては色鮮やかなものに感じられていた。その時、隣に座る転校生がぼくのことをどう感じていたのかはわからない。けれどぼくの方は、ふと横を向いた時に目に入る、彼女の黒髪のキューティクルでさえ、虹色に見えるほど鮮やかだったのだ。


 その虹色をぐちゃぐちゃのにび色にしてしまったのは、他でもないぼくだったというのに。

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