その圏外
こんばんは。
今夜は、月が綺麗ですね。
これだけ空が澄んでいると、世界中の空気を伝う無数の電波が、目に見えるような気がしてきませんか?
……おや、気づきましたか?
私のスマートフォンの通知音が、さっきから一度も鳴っていないことに。
ええ、実は先ほどから、この書斎の中だけ、完全に『圏外』になってしまっているんですよ。
廊下へ出れば繋がるのに、この部屋に戻ると、世界との糸がプツリと切れてしまう。
……まるで、私の集めた「バグ」たちが、この部屋の座標を侵食し始めているかのようにね。
さて、不便ですが、この隔絶された空間で、今夜のお話を始めるとしましょうか。
奇しくも、これから語るのは、まさに「場所」と「接続」に拒絶された、ある男の記録です。
これは都内のIT企業に勤める、Tさんという男性から聞いた話です。
彼はシステムエンジニアをしており、常にオンラインでサーバーの監視を行う仕事柄、通信環境には人一倍気を使う生活を送っていました。
そんな彼が、家賃の安さと広さに惹かれて、都心に近い中古マンションの一室に引っ越した時のことです。
リノベーション済みで内装は新築同様。南向きで日当たりも良い。
最高の物件だと思いました。
ただ、引っ越した初日に、彼はある不可解な現象に直面します。
部屋の中でだけ、スマートフォンの電波が全く入らないのです。
玄関を出て共用廊下に立てば、アンテナは4本の「最強」を示します。ベランダに出ても同様、高速な5Gで繋がる。
しかし、窓を閉め、部屋の中央に戻ると、途端にアンテナのマークが一本ずつ減っていき……数秒後には、無情な『
「建物の構造の問題か?」
Tさんは最初、そう思いました。鉄筋コンクリートの壁が厚すぎるか、窓ガラスに特殊な金属コーティングでもされているのだろうと。
そこで彼はすぐに、自宅に光回線を引き、高性能なWi-Fiルーターを設置しました。
「外からの電波が入らないなら、中で飛ばせばいい」と考えたのです。
工事は問題なく終わりました。
ONU(回線終端装置)とルーターを接続し、電源を入れる。
有線LANケーブルでデスクトップPCを繋ぐと、爆速でインターネットに繋がりました。物理的な「線」を通せば、世界とは繋がれるのです。
しかし。
Wi-Fiの設定をしようと、スマホを手に持った時でした。
ルーターは目の前にあります。緑色のランプが正常に点滅している。
なのに、Tさんがスマホを持って一歩下がり、部屋の中央へ向かうと。
『Wi-Fi接続を確認できません』
スマホのWi-Fiアイコンが、扇形から「!」マークに変わり、そして消えました。
「は?」
Tさんはルーターに近づきました。繋がります。
また離れます。切れます。
距離にして、わずか2メートル。遮蔽物など何もありません。
ただの空気です。
なのに、ルーターから発せられた電波が、部屋の中央の空間に吸い込まれた瞬間、まるでブラックホールに呑まれたかのように消失しているのです。
電子レンジの干渉でも、こんなに綺麗に切れることはありません。
この部屋の空気そのものが、目に見えない「信号」の存在を許していないかのように。
「なんだこの部屋……気持ち悪いな」
職業柄、論理的に説明できないエラーには苛立ちを覚えますが、生活は待ってくれません。
彼は仕方なく、「PCは有線で使い、スマホは電波の入る窓際に置いておく」という不便なスタイルで妥協することにしました。
窓ガラス一枚隔てた向こう側は、世界と繋がっている。
けれど、この部屋の空間だけが、頑なに「見えない繋がり」を遮断している。
その不気味な孤立感に蓋をして、彼は生活を始めました。
異変が核心に触れたのは、住み始めて一週間目の深夜でした。
Tさんは、いつものように窓際に置いたスマホを、Bluetoothイヤホンで繋いで通話しながら、友人とオンラインゲームの話をしていました。
ふと、飲み物を取ろうと、スマホを窓際に置いたまま、部屋の奥のキッチンへと歩き出した時です。
イヤホンから聞こえていた友人の声に、激しいノイズが混じり始めました。
『ザザ……お、い……T……ザザザ……』
Bluetoothの接続が切れる距離ではありません。見通しのいいワンルームです。
なのに、彼が部屋の中心……あの、Wi-Fiすらも死滅する『圏外』の領域に足を踏み入れるたびに、音声が歪み、遅延し、まるで深海に沈んだかのように篭もり始めるのです。
そして、友人の声が途切れ途切れに、奇妙なことを口走り始めました。
『……T、お前……今……ザザ……いつ、の、話をして……るんだ?』
「え? さっきのイベントの話だよ」
Tさんはキッチンから声を張って答えました。
『……それ……ザザ……去年の……話……だろ……?』
Tさんは動きを止めました。
去年? 昨日の間違いだろう。
彼はキッチンからリビングへと戻り、電波の入る窓際へ近づきました。
すると、ノイズが消え、友人のクリアな声が戻ってきました。
「悪い、電波が悪くて。去年の話ってどういうことだよ?」
『え? いや、今、お前、急に黙っただろ? ……それにしても、さっきのノイズ凄かったな。何年前のラジオだよ』
話が噛み合いません。
友人は「去年の話だろ」なんて言っていないと言うのです。
Tさんは薄気味悪くなり、早々に通話を切り上げました。
「何なんだ、今の……」
言いようのない不安に駆られ、彼は手元のスマートフォンの画面を見ました。
時刻は、現在の正しい時間を表示しています。
窓際にいる限り、彼は「今」にいます。
彼は確かめるために、窓際のスマホを手に取り、画面を見つめながら、ゆっくりと部屋の中央へと歩き出しました。
初日に試した時と同じように。
「また電波が切れるだけだろう」と自分に言い聞かせて。
一歩、また一歩。
窓から離れるにつれて、アンテナのバーが減っていきます。
4本。
3本。
2本。
1本。
そして、部屋の中心。彼がいつも寝ているベッドの真横に来た瞬間。
表示が『圏外』に変わり……。
その次でした。
初日には起きなかった現象が起きたのは。
スマートフォンのホーム画面。
その時計のデジタル数字が、パラパラパラッ! と、見たこともない速度で逆回転を始めたのです。
『1月1日 00:00』
『ERROR』
『1999/12/31』
「な……ッ!?」
日付が、過去へとすっ飛んでいきます。
それだけではありません。
位置情報(GPS)のアイコンが、赤く点滅しながら警告を出しました。
『現在地を取得できません』
『座標データが存在しない、または
「そんな馬鹿な。最初は電波が切れただけだったじゃないか」
Tさんは震えました。
電波が届かないだけなら、内部時計は狂わないはずです。
しかし、目の前で起きていることは、単なる通信障害ではありませんでした。
一週間住んでいる間に、何かが進行していたのです。
この部屋は、単に電波が入りにくい場所ではない。
世界という巨大なサーバーから、徐々にデータの同期を切られ、座標そのものが抹消されつつある領域だったのです。
有線ケーブルという「物理的な糸」で繋がっているうちは、かろうじて世界の一部でいられた。
しかし、空気、電波、時間といった「概念的な繋がり」は、この一週間ですべて切断されてしまっていた。
ここは、宇宙の地図に空いた、底のない穴になってしまっていたのです。
「飲み込まれる」
彼は本能的にそう感じ、スマホを放り出して玄関へと駆け出しました。
裸足のまま共用廊下に飛び出すと、深夜の冷たい風が頬を打ちました。
手元の震える手で拾い上げたスマホは、アンテナ4本を取り戻し、時計も、ただの「現在」を表示していました。
彼はその日のうちに荷物をまとめて、ネットカフェに避難しました。
後に管理会社に問い合わせたところ、奇妙な事実が判明しました。
そのマンションの一室。Tさんが契約したその部屋番号だけが、なぜかゼンリンの住宅地図や、Googleマップのデータから、きれいに抜け落ちていたのです。
マンション自体はあるのに、その部屋の部分だけが「空白」あるいは「壁」として処理されている。
過去に何があったのかは分かりません。
ただ、その部屋は最初から、地図の上では「存在しない場所」だったのです。
Tさんはすぐに解約し、別の部屋に移り住みました。
しかし、彼は今でも、恐怖を感じることがあるそうです。
「あの時、部屋の奥で、時計が逆回転しましたよね」
彼はホットコーヒーを握りしめながら、私にこう言いました。
「初日は、まだマシだったんです。有線なら繋がったし、時計も狂わなかった。
でも一週間、俺がその部屋に住んでしまったせいで、同化が進んでしまった。
……もしあそこで、逃げ出さずにあのまま眠り続けていたら。
俺の体内の時間も、世界のリズムから完全に切り離されて、過去の闇へと引きずり込まれていたんじゃないか。
そして、朝、目が覚めた時には……俺という存在のデータごと、この世界から『圏外』へ弾き出されていたんじゃないかって」
電波は、私たちが世界と同期していることを証明する、唯一の生命線なのかもしれません。
……さて。
冒頭で申し上げましたね。
私のスマートフォンも、この書斎に入った途端に『圏外』になっていると。
たった今、念のために画面を見てみたんです。
アンテナは相変わらず立っていません。
そして、時刻表示なんですが……。
私の記憶が確かならば、そろそろ深夜の1時になるはずです。
ですが画面には、見たこともない数字が表示されています。
『00:00:00:00』
秒針も、止まっています。
GPSのエラーも出ているようです。
どうやら、この書斎の座標も、いよいよ「あちら側」に浸食され始めたようですね。
それでは、今夜はここまでにしましょう。
私のこの声は……まだ、外の世界のあなたに、届いているのでしょうか?
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