氷と木
コウセナギサ
流氷
「識!」
花の種が弾けるみたいな声が聞こえて振り返った。そこから、見え透いた糸を引くように手首を掴まれていた。
瞬間、ヤバい、と思った。
震えた指から零れ落ちるまち針が、阿咲の白皙を裂いて床に落ちた。
「いった!」
澄んだアルトが一瞬ソプラノになって、その形も色も薄い唇から転げていった。小さな赤いビーズがぷつりと弾けて、まるで流行りのグミみたいだと思った。
一拍おいてから、僕はその大変さに気づいて、慌てて洗わせて、消毒と手当てをした。阿咲はバレエをやっていて、足を怪我なんかしたらどうなるか分からないと思ったからだ。我ながら、自分の考えていることがよく分からなかった。
だけれど、どこか情けなく笑う阿咲が、ひどく感傷的で愛らしく見えた。
13歳の晩夏のことだった。その年は、自然災害が多かったような気がする。
氷山は、全体のおよそ一割ほどしか見えていないらしい。ということを、阿咲はよく言っていた。だから、人間は知らないことだらけで当たり前で、だから学校があって、学者がいるんだって。突拍子もない馬鹿げた話だったけれど、阿咲が言うと、真実味があってどこか笑えた。そして、その氷山は、もしかしたら僕なのかも知れないとふと思った。そんなことを考えたあとに、少し冷静になって、また自分の爪先を凝視めた。きっと僕は、大きな氷山なんかじゃなく、小さく彷徨う流氷だ。
その年の春に、阿咲は海外に留学に行くことになった。バレエの大きな賞をとったらしい。意外にも涙は出なくて、特別な感情すら抱かなかった。あまりにあっけない終わりだと思ったけれど、それ以上のものはなく、今咲こうとする桜が、無様で仕方なかった。
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