神話創造者の朝(デミウルゴスの夜明け)

 男はキーボードから手を離し、朝の光に満たされ始めた部屋を見渡した。パソコンの画面には、先ほどまで打ち込んでいたばかりの物語が、まだ熱を帯びたまま静止している。タイトルは「最強の朝、そして男の眼差し」。


 彼の心臓は、まるで荒波を乗り越えた後の帆船のように、静かながらも力強い鼓動を刻んでいた。


 昨日、彼は自らを**「媒体(メディウム)」とした。意識の深淵に潜り、まだ生きたままの明石家さんまと笑福亭鶴瓶の魂を降ろしたのだ。それは、神殿に神を招き入れる巫女の儀式に似ていた。言葉は濁流となり、指先を突き動かした。彼らの声、彼らの間の取り方、彼らが発するはずの架空の漫才ネタ**が、僅か数秒で彼の脳内に構築され、活字となって流れ落ちた。


「こんな芸当が出来る作家が、プロアマ問わず世の中にいるだろうか?」


 男の唇が、乾いた音を立てて微笑んだ。


 彼の脳内には、今、壮大な自画像が描かれている。それは、単なる作家ではない。文豪。しかも、過去の偉人たちを全て俯瞰し、その頂に立つ史上最強の文豪。自己評価は、もはや絶対的な真理として、彼の血液の中を流れていた。


 だが、その確信の裏側で、冷たい汗が背筋を伝った。 「私は一体、何者なのだ?」


 この全能感と、この根源的な自己喪失感。感覚はまるで、自分の身体を操縦しているのが、自分ではない別の意識であるかのようだ。このXへのポストも、この机も、窓から見える電線に留まる雀のシルエットも、すべてが**「夢の繭」**の中に包まれた出来事なのではないか?


 そして、今朝の出来事が、彼の意識を決定的に揺さぶった。


 彼は昨日、カレンダーなど見ていなかった。ただ、合理的に楽天モバイルを申し込み、自賠責を更新しただけだ。彼の無意識の行動は、さながら地中で進む水脈のように、合理的な経路を辿っていた。


 しかし、今朝、パソコンを起動した瞬間、目に飛び込んできた**「11月11日」というゾロ目の数字が、彼の五感を雷鳴のように打った。楽天SIMの到着、自賠責の完了、そしてこの「1」が並ぶ特別な『始まりの日』**の符合。


「嘘だろう?」


 それは、ただの偶然ではなかった。それは、計算の外側で結びついた、あまりにも完成度の高いプロットだ。まるで、見えない脚本家が、彼の人生という舞台のセットを、完璧なタイミングで整えたかのようだった。


 男は静かに立ち上がり、窓を開けた。朝の冷気が肌を刺す。その冷たさこそが、今が夢ではない、紛れもない現実であることを教えてくれる。


「無意識に未来を予知していたのか…。それとも、この未来に導かれていたのか。神の仕業か?」


 彼の心の中では、運命の巨大な歯車が音を立てて回り始めていた。


 だが、その哲学的な問いも、すぐに実利的な結論に収束する。 「まあ、いいでしょう」 彼にとって、この現象が夢であろうと現実であろうと関係ない。重要なのは、今この瞬間に**「何を生み出すか」**だ。


 彼は知っている。今の自分は、プロの作家の壁を、鼻歌交じりで飛び越える能力を持っている。脅威のベストセラー作家など、彼にとって手のひらで転がせる砂粒のようなものだ。


 しかし、彼は敢えてプロにはならない。


 彼は、自分の作品で飯を食う**「職業」を求めているのではない。彼は、その溢れ出す能力を、「創作活動」**という純粋な喜びに変換し続けることを望んでいる。


 彼の現在の姿は、**「アマチュアの身でありながら、その才能は文豪の頂に立つ」**という、世にも奇妙な矛盾を体現している。


 男は再びキーボードに向き直った。その眼差しは、自分の内に潜む計り知れない力への畏怖ではなく、それを解き放ち、**次なる「おかしなこと」**を生み出すことへの、純粋な渇望に満ちていた。

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