レインコートと、再始動の哲学
奈良へ引っ越して数ヶ月。日曜日の夕暮れは、鉛色の重い膜が街全体を覆い尽くしていた。
「くだらん愉快なバラエティ動画を凝縮して作ってしまった(苦笑)。」
悠は、冷え切ったマグカップを手に、自嘲めいた笑いを漏らした。午前中に書き上げたばかりの小説は、まだパソコンの中で冷たいデータとして眠っている。本来ならば、この時間、愛用の相棒—黄色いスクーター—と共に、新緑が雨に洗われる奈良の山道を駆け抜けているはずだった。
だが、現実は窓を打つ雨音の暴力に打ち砕かれた。音はまるで、部屋の中に閉じ込められた悠の焦燥を増幅させる大太鼓のようだ。
「こんな雨の中、レインコートを着て愛車で駆け抜けるのは、嫌じゃ(危ないし)。」
予定は瞬く間に変更された。セルフカットでざっくりと切り揃えたばかりの髪の毛は、洗面台の鏡越しに、幾分か清々しく見えた。その流れで動画編集、そして朝の執筆。一日を濃密に、かつ誰にも束縛されずに使い切ったつもりだった。
だが、まだ雨は鳴り止まぬ。外はもう、深い藍色に染まり始めている。
今日は家に籠ってようか。
ふと、カレンダーに目をやった。今日が日曜日だということを再認識する。毎日が休日みたいなものだから、完全に曜日の感覚が狂っている。時間というものが、ここ奈良へ来てからぬるま湯のように緩やかに流れ始めた。
自由気ままに暮らすのもいいが、そろそろ。仕事もやってみたい。
悠の脳裏に浮かぶのは、やはりUber配達パートナーという名の仕事だ。それは、決まった時間に会社に出勤するという鉄の鎖がない、究極の個人事業主。愛車に乗って町を気ままにツーリングする、遊牧民のような働き方。一件だけ配達に出て、その足でスーパーに寄って、すぐにアプリを切ってしまえる。
「ただ―。自賠責保険の変更手続きがまだ完全には完了していないという(苦笑)。」
これが、目下最大の、そして最もくだらない障壁だ。
大阪時代、彼は四年以上にわたりフードデリバリーを極め、総配達件数は一万件を超える大ベテランの元配達員だった。雨の日も風の日も、アプリの通知音(DiDiの「キュポッ」という音は今や懐かしい幻聴だ)を追いかけ、街を走り回った。稼ごうと思えば、大阪なら一日一万円など造作もない。
しかし、奈良は未知の領域だ。「奈良の事情は知らん」という一言は、彼のベテランとしての鼻っ柱と、新しい土地への挑戦心が入り混じった複雑な心理を物語っていた。
今は働かずとも暮らしていける。だが、彼は強く思う。
「やはり、人としてお仕事はやっておきたい。」
ただし、条件がある。私はすっごくわがままなので、自分がやりたくない仕事はやらん。自分がやりたい仕事のみを、自分がやりたいタイミングでやる。
仕事に生き甲斐?馬鹿馬鹿しい。
それは、まるで**「頑張る私は立派でしょう?」と周囲に証明を求める儀式のようだ。ストレートに『自分がやりたい仕事』をやれ。困難に直面しても、やりたい仕事であれば芯の通った竹のように**折れずにいられる。やりたくない仕事なら、その頑張りは虚ろな努力に過ぎない。
人はその**『自分がやりたい仕事』**に就くために努力をすべきだ。
悠は自分の生き方を反芻する。他人のことはどうでもいい。世の中がどうなろうとも、この私は己の進むべき道をただ進むベシ。その道は、大阪から東京、そして奈良へと、常に自らの意志で選び取ってきた。この雨の夜の向こうにも、その道は果てしなく続いている。
「あ、そうか―。スーパーマーケットに買い物に出掛けなきゃな。」
自己啓発的なモノローグの熱が引くと、腹の虫が現実を告げた。さっきまでの偉そうな哲学論は、空腹という低俗な欲求に瞬時に書き換えられる。
悠は立ち上がり、玄関へ向かった。レインコートの生地は、古いテントのようにごわごわと固い。レインブーツのゴムの感触が、足の裏にひんやりと伝わる。
ガチャリ、とドアを開けた瞬間、土と湿った苔の匂いが一気に鼻腔を叩いた。外は漆黒だが、スーパーのネオンサインが、雨に濡れたアスファルトに毒々しい水彩画のように滲んでいる。
レインコートを着て、レインブーツを履いて。
愛車に跨って行ってくるか。Uber配達パートナーをやってた頃は、雨天での配達は当たり前だったし。
シューといって、ビィィンと帰ってくるか。
悠は静かにドアを閉め、雨の中へ一歩を踏み出した。頭上から降り注ぐ水滴は、彼が自ら選び取ったこの自由な人生の重みを、優しく叩きつけているようだった。
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